上手な逝き方

日経新聞の「上手な逝き方」というあらしやま・こうざぶろう先生のコラムを読んで、現代の死のあり方について考えさせられたので紹介することにします。

 来世があるなんて、これっぽちも信じていないのに、癌で死んだ後輩の女性に「死んだら、わたし、どうなるの?」と訊かれて、「死ねばただの生ゴミだ」とはいえなかった。「あの世で待っていてくださいね。私もそのうちに行くから」と答えて見送った。

 いま、大学病院への献体が増えて、病院が困っているという。献体は医学生が解剖自習に利用するものだが、解剖したあと、遺族に連絡すると「お骨はいりません」といって引きとりにこない。献体というなの遺体処理である。そうか、そんな手があったのかと、この文章を読んで献体が増えることにならないことを望みますが・・・。

 斎場でも「遺骨はいりません」という遺族が増え、火葬場が合同の収納施設へ入れる。遺体は生ごみ化した。墓場も火葬場も足りない。東京では夢の島へ散骨する計画が申し込まれている。

 海への散骨、樹木葬は骨をパウダーにする。骨壷に骨をいっぱいつめるのは時代おくれだ。高齢化社会で死亡者が増えると火葬場の能力を超えた遺体数となり、遺体を保存する冷凍庫も足りない。さあ、どうするか。

 この半年間で5回の葬儀へ行ったが、火葬場でお経も上げずにすます直葬が2回あった。火葬のみの遺体処理である。只、棺の中には花が埋められ、遺体の顔には美しい化粧がほどこされていた。

 散骨葬儀の一例は、高級ヨットで相模灘に行って骨のパウダーをまき、3回周回して、その間に霧笛を鳴らす。骨と一緒に花びらだけをまく。仏教の散華ですね。そのあと海図に何時何分何秒と書き入れて赤い印をつけ、会長が追悼の言葉を述べる。それで遺族は「悠久の大自然へ帰っていった」と慰安される。

 葬式は、自分が死ぬ準備でもあり、私は10年前に父の葬儀をすませた時に、「やっと一人前になった」という気がした。今年に入って、親しかった友人が3人没した。友人の葬儀に行くたびに「人は死ぬ」というこの世の無常を知る。

 友は、死ぬことによって「お前もいつか死ぬのだ」と教えてくれる。やたらと友が死ぬのは、実は私が高齢になって、死ぬ順番が近づいたということだ。生きている間は逆境にたちむかって、生を存分に謳歌したい。