ラララ…


…隣を歩く涼子が楽しそうにハミングしている。
両手を後ろに組んで、ポニーテールをかすかに揺らしながら。
「何でそんなに口ずさんでいるんだ?」
こんなことを聞くのも、今日これで何度目だろう。
もちろん、返ってくる答えはそのつど一緒。
「楽しいから♪」
俺は呆れて首を振った。いったい何で、こんな奴と歩いているんだか…。

 


涼子から携帯にTELが入ったのは、今日の昼過ぎだった。大学に通ってる俺と違い、奴は同じ街でバイト三昧の生活をしている。
というのが大方の見方だが、こいつに両親も兄弟も居ないことまで知っている奴は意外に少ない。それを感じさせない、こいつの天性の明るさのなせる業だ。天涯孤独の身でありながら、それをさも当然のように受け入れている。バイトにしても、その本当の理由は、生活費を稼ぐことにある。強い、というより、いつも自然体のやつなのだ。
だから、奴が仕事中に電話をかけてくることなどめったにない。何があったかと一瞬蒼ざめた俺の携帯から流れ出た声はといえば、
「今晩、飲もうよ♪」
…聞いた瞬間、俺は脱力した。こいつめ、人が心配しているそばからこれだ。だから、こいつと友達付き合いしていくには若干の忍耐がいる。そう、忍耐とユーモアのセンスと、ちょっぴり現実から離れた心。それが必要。
だから、俺は明後日に提出期限の迫ったレポートを放り出して、こいつとこうして歩いているのだ。
明日が思いやられる事など、気にしてはいけない。

 


待ち合わせたのは、街を見下ろせる高台にある公園だった。この辺りには学生のアパートも多く、忙しい毎日にちょっと息抜きするには最適の場所だ。四季を通じて色とりどりの花を咲かせる木々が植えてあるため、季節の移ろいも楽しめる。
そして、今は夜。歩きながらふと見下ろせは、街の灯りが美しい。あの灯りのひとつひとつには、それぞれの暮らしと、それぞれの現実がある。何万もの現実が寄り添ってできた街。そんなことを感じられるのは、夜が一番なのかもしれない。
「いい季節になったな…」
ふと、俺はつぶやいた。今は秋。あと一月もすれば冬将軍の足音が聞こえるようになるが、この時期はまだその気配はない。
「うん?」
そんな俺のつぶやきを聞きとがめたのか、涼子はふとハミングを止めてこちらを見やった。細かいことは何も言わず、ただ好奇心がてら見つめるだけ。
「いや、過ごし易い季節になったな、ってさ…」
くすっ。
涼子はそんな俺を見やって笑った。もちろん声には出さない。穏やかに微笑しただけだ。
「もう秋だものね。のんびり過ごすには、最適の季節よ」
そう言いながら、涼子は眼下に広がる街並みに目をやった。
「ふふっ。ひょっとしたら、誰にとっても夏はいろいろせわしない季節だから、ひと息入れるために、この季節があるのかも」
ね…、と涼子は穏やかな眼差しでこちらを見やる。
「…かもしれないな」
眼下の景色を見やりながら、俺はうなずいた。たしかに、暑い夏は誰にとってもいろいろある季節だ。一月以上もそんな季節が続いたら、誰だって後でひと息入れたくもなるだろう。
そして、この後には豊穣の季節が待っている。山々が彩りで、台所が様々な実りであふれる季節。そして、何もかもが来たるべき冬を、あるいは一年の終わり迎えるために、再び忙しくなる季節。
今は、そんな季節の狭間にある、舞台の踊り場のようなものなのかもしれない。
「ほんと、いい季節になったものね…」
かすかに頬を撫でていく夜の秋風を気持ちよさそうに受けながら、涼子がつぶやいた。ポニー・テールがわずかに揺れる。


ラララ…♪


涼子のハミングが再び始まった。
またか…、と半分苦笑気味を浮べつつ、もう「何故?」と問い掛けるのはやめることにした。どの道訊いたところで返って来る答えは一緒なのだし、事実涼子は、心からこの時間を楽しんでいる。俺にしても、せっかくこいつと一緒に、夜の穏やかな時の中を歩けるのだ。無粋な質問をするよりも、この時間を楽しんだ方がいい。
穏やかな秋の夜風に乗って、涼子のハミングが響いていく。その声を聞きながら、俺は彼女と並んで、坂を歩いていた。右手に住み慣れた街の夜景を臨みながら…。

 


…坂を降りてしはらく歩くと、一軒の酒屋が見えてきた。昼間は定食屋として営業しており、涼子がバイトをしている店だ。
のれんを見た涼子がふとハミングを止めて、俺に笑いかける。
そのとき、ふと俺は気付いた。玄関の脇に、「準備中」の看板が架かっている。
「ん…?」
俺は首を傾げた。そういや、今日は夜七時で終わる日じゃないか。だったら、こいつ何で、「今日飲もう♪」なんて…。
俺の怪訝そうな表情を見てとったのだろう、涼子ははっきりと声を上げて笑った。
「先に言っとくね、裕史」
ふと足を止めた涼子は、俺の先に立つと、煙るような笑顔で俺を見やった。両手を後ろで組んで、心持ち小首を傾げて。その瞳がいたずらっぽく輝いている。
「ハッピー・バースディ♪」
「え?」
俺は慌てて携帯を取り出した。日付を確認する。
「あ…」
…忘れていた。そういや、たしかに今日は俺の誕生日だ。レポートにかまけていてすっかり頭から抜け落ちていたが。
「…つまりは俺のために−−−」
そこまで言って、俺は絶句した。涼子が楽しそうにこくっとうなずく。
「そう。弘希の提案でね。あたしが場所を提供した、ってわけ」
俺はようやく納得した。それでこいつは、今日こんなに上機嫌だったのか。鼻歌が出てくるくらいに。
それにしても、弘希の提案とは。こいつと幼なじみの弘希は、いろんな意味でこいつの影響を受けている。友達思いなところも、楽しい悪戯には際限なくボルテージが上がるところも。
…しかし、と俺は苦笑気味に思った。普通、誕生パーティーを飲み屋なんぞでするか?
「さ、行こう! みんな待ってるよ♪」
そう言うと、涼子は先に立って歩き出した。弾むような足取りで、再びハミングが始まる。


…ラララ♪


参ったね…。
俺は首を振りながらその後に続いた。無意識のうちに笑みが零れてくる。
おそらく、あののれんの向こうには、仲間たちが手ぐすねひいて待っているに違いない。それが嬉しくないかと問われれば、正直とても嬉しかった。それこそ、笑みを堪え切れないぐらいに。
酒屋に入る前に、ふと足を止めて夜空を見上げる。
秋風が肌に心地いい。


”秋の夜長を、親しい仲間たちと”


そんな夜も、時にはいいかもしれないな…。
ふと、そんなことを思った。

 

THE    END

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