遅れてきた季節




 春から夏にかけてのこの季節は、大して暑くもなく、同時に寒くもなく、晩秋の頃と並んで一年中で一番、晴天率のいい時期だ。そして、ちょっとどこかへ遊びに行こうとする連中にも。
 だが、そう考える奴が多ければ多いほど、不幸に見舞われる奴もがぜん増える。
俺のダチもそういう不幸 ─ いわゆる交通事故に会った奴が何人かいた。
まあ、大半が”族”の連中だし、ほとんどが笑ってすませられる類いのものだったが、中に一人だけ、どうしても単なる笑い話ではおさまらない奴がいた。「浜の帝王」こと裕介の事件である。

 


「何だと、裕介が事故ったぁ!?」
 ダチの明美から緊急のTELを受けた俺は、大慌てで病院に駆けつけた。明美の話だと、何でもバイクで浜を飛ばしている最中に事故ったらしい。浜の道路はほぼ一直線なので、裕介でなくとも飛ばす奴は多い。そこで事故ったとなると、これは大事故の可能性があった。まして、裕介はもともと、中免を持っている割にバイクの運転がそううまい方ではなく、コケただけでもあの世への道を駆け上がっていきかねない傾向があったのだ。
「おおい、裕介、大丈夫かぁ!!」
 仲間数人と取るものもとりあえず病院へ行き、ロビーで明美と待ち合わせた俺は、勢いよく裕介の病室に駆け込んだ。その階が整形外科の病棟だったことなど、むろん聞いた瞬間に頭から抜け落ちている。
 と、裕介はそこにいた。真っ白いベットの上で上体を起こして、雑誌なんかを読んでいるふうにして。それまで一心不乱に駆けてきた俺たちは、とたんにずっこけた。
 で、わけを聞くと、
「そんなに慌てることはなかったんだよ。頭にも内蔵にもまったく異常なし。大怪我ったって、右足の複雑骨折だけなんだから。まあ、全治三カ月ってとこかな」
そう言って裕介はからからと笑った。それまで命に関わる大事を想定していた俺は、呆れてたっぷり十秒間もの間、ものが言えなかった。みんな明美の責任である。
「明美ぃ、まったくおまえって奴ぁ ─」
 そばで心からほっとしているらしい明美に向かって、俺は思いきり毒づいてやった。大体、何がどうなったかをはっきり確かめもせずに、いきなりTELをしてくるなんて、あわて者にも程があるというものだ。こいつの言うことをまに受けてパニクっていた俺は、完璧な道化である。
「まあまあ、大事に至らなくってよかったじゃない」
 さすがに無邪気に笑う明美を前にして怒鳴ることもできずに、俺は空気の抜けた風船よろしく、にへらにへらするしかなかった。こいつめ、女の子の笑顔という最高の武器を巧妙に使いやがって…。
「まあ、今シーズンは海へ出れなくなるけどね。それも仕方ないさ。僕の分まで、この夏はたっぷりと楽しんでくれよな…」
 裕介はつふやくように言うと、切なそうに窓の外を見やった。つられて、俺たちも窓辺に目を向ける。窓辺には、今年裕介が買ったばかりの、真新しいサーフホードがあった。この夏、裕介が使うはずだったサーフホード、まだ海水に浸かったことのないサーフホードが。その真新しい輝きが、俺たちには少しばかり切なかった。

 


 …その帰り道、大したことはないと知っていつもの調子に戻った俺とは対称的に、病院を出てからの明美はずっと沈みっぱなしだった。俺にしても完全に元に戻ったわけではないのだが、それにしても明美の落ち込みぶりははなはだしい。
「何だよ、三カ月もすれば元通りになるんだから、そんなに落ち込むことはないだろうが」
「ううん、そういうことじゃないのよ…」
 明美は首を振ってちらっと病院の方を見やった。命に関わる大事でもないのに、やたらと沈み込んでいられるのは、見ていてもいらだたしいものがあった。
 だが、理由の一部は俺にもなんとなく理解できた。もともと裕介の「浜の帝王」の異名は、奴がこの街で第一級のサーファーだったことからきている。その名サーファーが、これから最高のシーズン到来という時に海に出れないというのは、腹がよじれるくらいつらいことだろう。
 それに、
「もうすぐ、みちのくサーフィン選手権が来るのにね…」
 明美はぽつりとつぶやいた。明美のいうとおり、毎年毎年、夏になると東北六県のサーファー達が一同に会する選手権が開かれている。今年はこの街の持ち回りで、むろん裕介はその参加者 ─ それも優勝候補の一人だ。その、年に一回のサーファー達の祭典に、裕介は参加できない。これはかなりのショックだろうな、と俺も思った。
「せっかく、夏が来るっていうのに…」
 明美は隣に俺たちがいることなど眼中にないようにつぶやいた。裕介の彼女を自認する明美にとって、この現実は耐え切れないくらい切ないことだろう。二人にとって、この夏はもうやって来ないも同然なのだ。一年中で、もっとも陽気な季節が。

 


 …そして夏。浜辺には毎年のごとくビキニ姿の女の子達があふれ返り、あちこちでモコモコと1シーズン限りのカップルができあがっていく。この手のカップルやグループは秋まで続くことはめったにないのだが、そんなことは、俺を含めてこの浜に来た連中も、先刻承知のことだ。暑い季節には、ちょっぴりスパイスの効いた冒険が一番よく似合う。もちろんその中には俺もいて、毎日のように遊びまくっていた。
 この時期の浜は、昼夜の関係なしのお祭り騒ぎが続く。太陽が昇れば当然のように、何十人というサーファー達が浜に繰り出して陽気に波に乗っているが、今年はその中にあいつの姿がいない。
「裕介の奴、まだ直らないのかい?」
 毎日のように浜に集まってくるサーファー達を見やって、あきおがたずねた。仲間の中では一番バイクに狂っている奴で、この光景を見ても、海にはまず目もくれない変わり者だ。今日も、この暑い最中にライダー用の真っ白なサマージャケットを着込んでいる。
「ああ。全治三カ月って言ってたから、九月ぐらいだろうな、歩けるようになるのは」
 俺は周囲に女友達をはべらせながら答えた。俺に限らず、夏になればちょっとカッコイイ遊び人はたいがい女の子にもてる。もちろんこの夏限りだ。
「まあ、明美がつきっきりで面倒をみているから、別に心配はないと思うんだけどね」
 女友達の中で唯一、大昔から付きあっている涼子が相槌を打った。中学時代からのくされ縁なので、こいつも裕介のことはよく知っているのだ、もちろん明美のことも。女としては落第ものの涼子だが、友達としては、まず望みようがないほど最高の奴である。
「大変だな」
 あきおは涼し気の顔に陰りを含ませてつぶやいた。年がら年中明るい顔でバイクを転がしている男だが、その実友達にはけっこう気を遣ういい奴なのだ。サーファー仲間もそうだが、ライダーの中にも友達を大切にする奴はかなり多い。
「なあ、あきお。もしヒマだったら、裕介の奴を見舞ってやってくれよ。いくら明美かそばにいるといっても、あいつもこの時期に病室に寝っ転がったままじゃ、かわいそうだからさ」
 あきおはすぐには答えずに、しばらく海を見つめていた。そのわずかな間に、いったい何が奴の頭をよぎったことだろう。十秒ほどして、あきおはニヤッと笑ってうなずいた。
「O・K 俺も奴が暗い顔をしてんのを見るのはいい気分じゃないしな。ちょくちょく寄ってみるよ」
「ああ。それからお前達も、な。頼むぜ」
と、俺は女の子達を振り返って言った。夏限定の遊び仲間ではあるが、毎年ここにやって来るので彼女たち祐介のことはよく知っている。
 事情を知った女の子達は、もちろん、と人好きのする笑顔でうなずいてくれた。外見はガングロのギャルでも、芯から海が好きな奴に、悪い奴と薄情な奴はまずいない。
「ま、これが精いっぱい、かな」
 誰に言うともなくつぶやく俺に、涼子は笑ってうなずいた。後は、裕介の彼女の、明美がよろしくやってくれるだろう。
 …そして、サーフィン選手権が始まった。

 


「おやっ!?」
 久しぶりに裕介の病室を訪ねた俺は、驚いて立ち止まった。この時間は誰もいないと思ってやって来た病室に、見慣れない客がひとりいたのだ。数日前に終わった、みちのくサーフィン選手権の優勝者である。
「やあ」
 彼は鮮やかに日焼けした右手を上げた。裕介同様にサーフィンに命をかけている奴らしい精悍な手だった。
「今、彼から選手権のことを聞いてたんだよ。今年も盛大な大会だったんだってさ」
 裕介は楽しそうに笑った。どうやら、彼は裕介の入院を聞いて駆けつけてくれたらしい。ライバル同士といいながらもお互い海で友情を培った仲だ。こういうところはやはりうらやましい。
 それから、俺たちはサーフィン選手権の話で盛り上がった。自慢のサーフボードを武器に、自分の五感だけを頼りに海へ乗り出す。そして、足元を駆け抜けていく波の爽快な感触。選手権の優勝者だけに、彼の話には確かな臨場感があった。
もともとサーフィンにはあまり興味のない俺だったが、もしここにサーフボードがあれば、俺も彼と一緒に海に乗り出していったかもしれない。
 話が一段落すると、彼は不意に裕介を見やって言った。
「ところで、来年は君も、選手権に参加するんだろう、当然?」
「え…」
とっさのことに返事が返せない俺たちに、彼はさらにたたみかけるように続けた。照れくさそうな表情を日焼けした顔に浮かべて。
「いや、君に勝たないと、いくら大会で優勝しても、本当に一番になった気がしなくて、ね。今年の大会だって、君がいればもっと盛り上がったはずなんだ。俺だけじゃなくて、参加者みんながそう思ってる。君だって、このまま終わるつもりはないんだろう?」
 俺と裕介は顔を見合わせた。いくら名サーファーといっても、一年で一番のシーズンを棒に振った奴に、翌年まで同じレベルの腕など期待できないはずだ。まして、裕介に勝るとも劣らない腕を持った彼にそれが分からないはずはない。
 だが、彼の表情を見たとたん、俺は彼が何を思っているのかがわかった。彼はただ、裕介と一緒にサーフィンがしたいだけなのだ。来年も、さ来年も、彼らの体力が続く限り。
「…ああ、もちろん!」
 裕介は心を込めてうなずいた。その両目は、彼の思いをそのまま映し出している。
 いい奴だな、とその時俺は思った。お互い海で知り合い、海で競い合った仲だ。余計な慰めは必要としない。ただ彼らは、サーフィンという単語だけで心を伝えあうことができるのだ。こういう友人を持てた裕介は、確かに幸せ者だぜ、と俺は二人を見ながらそう思った。
 病院を出た俺は、少しばかりすがすがしい気分に浸っていた。まるで、初夏の潮風を身に受けているような、そんな感覚だった。現実には夏はもうすぐ終わり、サーファー達にとっても海に出れる時間もあとわずか残るだけだ。もちろん裕介は海へ出られない、が…。
 ま、それでも裕介はサーフィンから離れる事ができないわけだ。たとえ本人が離れたいと言っても、奴の友達は誰一人として、それを許してはくれないだろう。
そして、裕介本人もそんなことを思うはずがない。何たって、サーフボードを片手に生まれてきたような奴なのだ。
 裕介が退院するまであと一カ月足らず。その間、奴はたっぷりとこの夏サーフィンが出来なかったことを悔しがるだろう、と、俺は妙にうきうきした気分で思った。

 


 …そして九月のある日、裕介はようやく退院した。この一カ月ほど、明美とリハビリに一生懸命取り組んできたわけだが、やっとそれが身を結ぶ時が来たのだ。
 退院の日、俺は冷やかし半分に裕介の見舞いに行った。あきおと涼子と、その他数人の友達が一緒である。
 裕介は笑いながら玄関を出てきた。
「やあ。やっと二本足で歩けるようになったよ」
俺たちはニヤリと笑った。明美と一緒に、嬉しそうに歩いてきた裕介を見ると、どうしてもひとこと言ってやりたくなる衝動を抑えることができない。
「どうだ、足のあるってことはとっても有難いことだろう?」
「ああ」
裕介は眩しそうにうなずく。
「身に染みたか?」
とあきお。
「ああ…」
裕介はもう一度、今度は感慨深げにうなずいた。その仕草と表情が、この三カ月間歩けない苦しみを、たっぷりと味わったことを雄弁に物語っている。もっとも、四六時中明美の付きっきりの看病を受けたとあっては、必ずしも苦痛ばかりではなかったようだが。
 俺たちはニコニコ笑ってうなずいた。
「さてと、じゃあ今日は、裕介の退院祝いね。たっぷりとおごるわよ」
 みんなで病院を出たところで、近所の飲み屋でバイトしている涼子が、ちょっぴり自慢げに言った。奴の期待に輝く瞳を見て、俺とあきおは顔を見合わせて肩をすくめた。宴会をやるのは大いにけっこうだが、こいつの際限のない飲みっぷりと、天井知らずに上がるボルテージに付き合わされるのはご免こうむりたい、お互いにそう思っているのだ。以前こいつと飲んだ時に、リザーブした席を半壊させたあげく、店長にたたき出されたことは記憶に新しいところだった。
 だが、裕介は明美と数秒間顔を見合わせたあとで、首を振った。
「ああ。そうしてくれるんなら、今夜は絶対に行くよ。だけど、今はちょっと明美と浜を歩いてきたいんだけど、いいかな?」
この後、裕介をたっぷりとあちこち引きずり回す計画を立てていた俺たちは、一様に戸惑ったような顔を見合わせた。どうやら、何か思うことがあるらしい。
 だが、そんなデリカシーとはまったくの無縁に見える涼子は、からからと笑ってうなずいた。
「なるほど。二人で何かよからぬことを企んでいるってわけね。…O・K、明美とたっぷりデートを楽しんできて。その代わり、今夜七時からはあたしのバイト先に ─」
「了解。必ず行くよ」
 裕介は、笑顔でみんなに手を振ると、明美と並んで浜の方に歩き出した。二人の後ろ姿を、俺たちは声もなく見送っていた。しばらくして、涼子が常になく憂いを含んだ声でつぶやく。
「あれは、かなり参っている顔、ね…」
 俺は、ああ、と小声でうなずいた。そう、確かに裕介は参っていたのだ。この夏、一回もサーフィンが出来ずにせっかくのシーズンを棒に振ったことを。

 


 友達の中で、本来一番輝いていた奴が参っているというのは、そろそろ秋に入りかけているこの時期の俺たちにとって、かなりユウウツなことだった。何しろ騒がしい夏が終わって、ようやくひと息つけるという時である。こんな時に落ち込んでいる仲間を抱えて込んでいたのでは、俺たちまで一緒に沈み込んでしまいそうな感じなのだ。とにかく、一番の問題は裕介だった。
 最初にそれを感じたのは、例の退院パーティーのときだった。仲間たちみんなが一緒だったから裕介もそれなりに明るく振る舞っていたが、時折、奴の周りにどこか空虚な雰囲気が漂っていてうざったらしいことしきりだった。まあ、その時は涼子のおかげでさほど目立ちはしなかったから、気づいた奴も少なかっただろう。
 その後、日が経つにしたがって裕介はだんだんと口数が少なくなった。もちろん原因は明白なことである。三カ月前のささいな出来事からひとシーズンまるまるを棒に振った事実が、ここにきて裕介の心に重くのしかかるようになったのだ。
涼子はそんな裕介の心境を、見事にこう表現したものである。
 曰く、
「まあ、裕介もようやく”時の重み”ってものを思い知るようになったんでしょうね」
と。まあ、これは俺たちと一緒に大学にも行かずに、バイト三昧の生活をしている涼子だからこそ言えることなのかもしれないが…。
 ところで、実のところサーフィンは、別に夏でなくともできる。現に今も浜辺にはサーファー達が波を待ち構えて出張っているし、裕介ほどサーフィンに入れ込んでいる奴は普通、それなりの装備を持っているので、冬が来るまでの間は好きな時にサーフィンができるはずだった。
 まあ、涼子の文学的才能はともかくとして、裕介にとってこの夏を失ったことは、やはり大きな衝撃だったことは俺にもよくわかる。今まで、裕介にとって夏は、一番輝いた季節だったのだから。
 そして、この夏は、裕介にとって特別な夏だった。ごく普通の夏であれば、あるいは裕介もここまで落ち込まなかったかもしれない。だが、奴にとって不幸なことに、この夏に限って自分の街で、「みちのくサーフィン選手権」というサーファー達の祭典が開かれたのだ。そんな大切な夏にわざわざ骨折するなど、まさにビッグかつグレートな不幸としかいいようがない。
 とにかく奴をなんとかしよう。これは俺や涼子を含めた裕介の友達全員の思いだった。裕介ひとりが落ち込んでいるのなら、それは別に俺の知ったことではないのだが、奴ひとりのおかげでみんながみんなして沈んでいるのでは、せっかくのすがすがしい季節が台無しである。ここは、何としても一発奮起して、またみんなで陽気に騒ぎたいものだった。
 しかし、である。ではどうしようかと言えば、そうそう具体的かつまともなアイデアなど出てくるはずもなかった。これまで人のために真面目に悩んだことのないツケが、ここへ来て一気にまわってきたわけである。結局のところ、昼間はみんなで額を寄せ合って悩み ─ いや、悩んでいるようで誰も真面目に考えていないのかもしれないが ─ 夜は夜でアパートに一人こもってビール片手にぼうっと考え、という日をだらだら過ごすしかない。試験前の二週間しか使わない頭だから、フル回転などするはずもなかったのだ。
 …こんな夜はとても長い。夕方からつけているTVを眺めつつ、ビールをちびちびあおっている。別に見ようと思って見ているわけではないので、つまらないことおびただしい。しまいには妙に頭が重くなってくるのだが、なかなか眠くならないので、日付が変わってもそのままの姿勢でぼけっとしている始末だ。
 夜も更けてくると、さすがに明日の ─ いや、今日の ─ 天気予報が増えてくる。小笠原沖に台風が接近中とのことだが、そんなのは俺の知ったこっちゃない。
 途中でニュース速報が入った。南米のチリ沖で大きな地震があったらしい。といっても地球の反対側での出来事なので、実際に地震があってから六時間ほど経っているらしいのだが。そういえば、歴史の教科書に載るほど昔に、チリ沖であった地震の津波が日本までやって来たっけ。てことは、明日の、いや今日の早朝あたり日本にやって来るわけか。まあ、津波対策なら、最近はどこもしっかりしているから、まあ大したことは…。
 と、俺は思わず身を起こした。ビールのせいで半分眠っていた頭が、突然フル回転を始める。小笠原沖に台風が接近中、&六時間のチリ沖の地震、ということは ─ 。
 次の瞬間、俺の眠気は完全に吹き飛んだ。ひょっとしたら、これがとんでもないチャンスになるかもしれないことに気づいたのだ。
 日本にやって来る巨大な波は大きく分けてふたつ、太平洋側で台風の発生させる波と、チリ沖地震で発生した津波。もし、絶妙なタイミングでこの二つの波が重なり合ったとしたら…。
 結果は考えるまでもなく明白だった。その場合、少なくとも日本のどこかが、大変なビック・ウェーブに見舞われることになるだろう。そこではかなりの被害が出ることになるだろうが、少なくとも津波対策の充実したこの地方ではその心配はない。そして、そのビッグ・ウェーブは…。
 次の瞬間、俺は何のためらいもなく大学にTELを入れていた。普段なら、この時間に大学には誰もいないはずだが、地震のあった今日は、地質学研究室に何人かの学生が詰めているはずだった。そして、そこには太平洋規模で津波の発生を解析できるシミュレーターがある。
 案の定、研究室には、友達の篤史がいた。地質学おたくの偏屈狂だが、自分の専門分野への熱心さにかけては、右に出る者がいない。
「…ああ、その解析ならこっちでもやってるよ。台風のおかげで正確な値が出るかどうかは疑問だが、もうすぐ結果が出るはずだ。…ん、何だって ─ ?」
 俺は手短に事情を話した。篤史はすぐに俺の話を飲み込んでくれた。高校時代に科学部でとんでもない奴と付き合っていたらしい篤史は、たいがいの事には驚かない。
「わかった。そういうことなら、結果が分かり次第、お前んことに電話するよ。しばらく待っていてくれ」
 俺はひとつうなずくと、いったん電話を切った。あそこのシミュレーターは、担当の教授が半分趣味でやっているものなのでめったに正確な結果が出ることはないのだが、とにかく今はそれだけが頼りだった。すぐに結果が出るわけではないことは知っていても、待っている時間がもどかしい。
 数分後、篤史からTELがあった。
「結果が出たぞ。こっちのシミュレーターによると、津波の到達するのは、今日の午前五時四十分ごろ。最大でも三メートルほどにしかならないはずだが、もし、台風の波がこちらの予想通りの規模なら、おそらくその時刻には、五メートル前後の大波がこの浜を襲うことになるはずだ。正確な予想をファックスで送るよ」
「了解。サンキュー、篤史。愛してるぜ!!」
 俺は最大級の感謝を込めて電話を切った。やはり仲間に”おたく”がいることは、決して悪いことではない。
 間髪を入れずに、篤史からファックスが送られてきた。印刷された紙を見て、俺は柄にもなくガッツ・ポーズを取った。やったぜ!! これであいつにもやっと、失われたはずの季節が訪れる。
 ファックス用紙を片手に、俺はまず涼子のアパートにTELを入れた。

 


 …そして、早朝。台風が接近中のために、明るくなった空にはちぎれ雲がたなびき、沖あいから浜に向かって、少しばかり強い風が吹いている。昨日のニュースを聞いたのか、浜には何人もの人が出て、心配げに、白波を立てる海を眺めている。
 そんな人達に混じって、俺は浜に出ていた。物見遊山のやじ馬のような顔をしていたが、その実内心は複雑だった。津波は本当にやって来るのか、篤史の予想どおり台風の波と都合よく相乗りしてくれるのか、そして、あいつはそのチャンスをものにしてくれるのか。
 いちおうの手は、すべて昨夜のうちに打ってあった。おそらく、涼子を通じて奴にも連絡がいっているはずである。後は、奴がこれをチャンスと見てくれるかどうかであった。果たして…。
「おはよう!!」
 緊張した浜辺に、場違いの明るい声が響いた。振り向くと、涼子がニコニコ笑いながらこっちにやって来る。その後ろに数人の見知った顔がいる。みんな俺の、そして裕介の友達だ。俺は挨拶がわり右手を上げた。
 俺の隣に並ぶと、涼子はいたずらっぽい視線を投げかけてきた。
「それにしても、ずいぶんと思い切ったことを考えたものね。津波がやって来るっていう海に乗り出そうなんて」
俺は笑った。こんなときになっても、こいつはまだこいつのままだ。
「ふん、俺達らしくていいだろ。無茶苦茶はいつものことさ」
「まったくだね」
 涼子はいかにも同感、といった感じてうなずいた。おかげで、先程まで重苦しくまとわりついていた緊張感は、ものの見事に吹き飛んでいた。
 俺は胸いっぱいに朝の空気を吸い込むと、涼子を見やった。
「で、奴はどうした?」
「もう来てるわよ。ほら、あそこ…」
涼子は浜に入る入り口を差し示した。俺はその方角を向くと、目を細めた。ここから一番近い駐車場は道路をはさんだ浜の向こう側にあり、そこから浜に出るためには、道路の下を通るトンネルをくぐり抜けてくる必要がある。
 裕介はそこにいた。あの日俺が見た、新品のサーフボードを持って、明美とともに。
「なるほど、あいつも一緒か」
うなずく俺を見やって、涼子がくすっと笑う。
「当然でしょ。裕介だって、自分の一番格好いいところを明美に見て欲しいに決まってるんだから」
「お前も?」
「もちろん。かっこいい友達のかっこいいところは、絶対に見ておかなくちゃ、ね」
俺は納得した。裕介が一番格好いいのは、やはり奴の大好きなサーフィンに興じている時だ。これを見ずして、奴の友達を名乗る資格はない。
 だが、今度ばかりは、その格好よさもかなりな危険との引き換えだ。
「で、奴にはどこまで話してあるんだ?」
涼子はすぐには答えずに、しだいに荒れていく海をちらっと見やった。涼子だって、この海に飛び込むのがどれほど危ないことか、判らないほど鈍感ではない。
「全部よ、もちろん。でも、裕介なら、海で起こるたいがいの危険はうまく切り抜けてくれるわ。あたしはそう信じてる」
「…だな」
 俺は穏やかに笑ってうなずいた。相手が街で一番のサーファーでなければ、俺だってこんなことを持ち掛けたりはしない。奴の腕前を知っているからこそ、それを信じて話したのだ。
 と、
「あ、まずい…」
涼子は駐車場を見やってつぶやいた。振り向くと、駐車場のすぐ前の道路に一台のパトカーが止まった。津波に備えて、警戒に当たっている警官達だ。パトカーから降りて来ると、連中は浜へ出て来た裕介を指さして何事か話し合っている。
 俺は一瞬とうしようか、と迷った。まともに事情を説明などすれば、どうしたって止められるのは目に見えている。勤務熱心なのはいいことだが、何もこんな時に浜に来なくてもいいだろうに…。
 連中がガードレールを飛び越えようとしたその瞬間、パトカーの後ろを五、六台のバイクが盛大な爆音を響かせて走り去っていった。内心、俺はラッキー!!と喝采を上げた。これで連中はこっちに構ってなどいられなくなるはずだ。案の定、警官達は大慌てでパトカーに乗り込んだ。パトカーのエンジンが派手な爆音を上げる。まったく、よくこんないいタイミングで暴走族が通りかかったものである。
 と、その時先頭を走るライダーが、こちらを振り向くと左手の親指を上げた。俗に言う、サムズアップというやつだ。その瞬間、俺はそのバイクに誰が乗っているか気づいた。
「あいつか…」
「えっ?」
涼子が怪訝そうに俺の横顔を見やる。俺は笑って走り去るバイクの集団を見つめていた。たった一台のパトカーは、後に誰も残さずにバイクの集団を追いかけていく。そのライダーはきっと、メットの中で大笑いしていることだろう。これでもう、邪魔をする奴は誰もいない。
 俺は涼子に事情を説明した。
「あきおだよ。あの野郎、どうりでここに来ないと思ったら…」
奴の仲間に暴走族はいない。きっとバイク仲間に声をかけてここにやって来たのだろう。ちょうどその時に、自分たちがヒーローの生まれる手助けのできる瞬間に居合わせたのだ。
そして、奴は仲間のために、自分がやるべきことをやったのだ。いい奴だった。
 涼子は目を丸くした。
「あらまあ、あきおってば…」
あからさまにびっくりした顔をした涼子だが、その瞳は必ずしも驚いていない。きっとこいつにもわかっていたのだろう。前後の事情はどうあれ、あきおも必ずここにやって来ることを。奴もやはり、裕介の友達なのだ。
「…やってくれるわね」
 涼子は嬉しそうに笑った。こういう時のあきおは、裕介に劣らす格好よく見える。とにかく、これで裕介の友達は、全員がここに集まったのだ。
 そして裕介である。すべての準備を終えると、裕介は俺たちの隣にやって来た。
俺たちの視線が集まる中で、裕介はうねりを強めていく海を見やった。できるならば今すくにでも海へ出て行きたそうな顔をしているが、今はまだその時ではない。しばらく海を見つめていた裕介は、ふとぽつりとつぶやいた。
「やっと来たんだな、こいつを使うときが…」
 俺たちは、裕介同様に海を見つめながらそれぞれうなずいた。台風が接近中にもかかわらず、まだ雲のところどころから青空が覗き、その色が海を蒼く染めていく。裕介が乗り出していくにふさわしい海だ。
 裕介はちらっと俺を見やった。
「悪かったな、今まで心配をかけて」
俺はニヤッと笑った。奴の顔を見れば、もう余計な言葉は不用であることは容易に見てとれる。
「今回だけだぜ」
ああ、と裕介は笑顔でうなずいた。
「お詫びに、とびっきりのサーフィンを見せてやるからな。しっかりと見ててくれ」
俺たちは無言でうなずく。裕介は踵をかえすと、サーフボードを片手に歩きだした。その後ろ姿を、ここにいる全員の視線が追いかける。ざぶん、と海に入ると、裕介はゆっくりと沖を目指した。去年までは見慣れた光景だったが、今だけはなぜかそれが眩しく見える。やがて、裕介は浜から十分に離れてポジションを取った。
 と、隣で涼子の携帯電話が鳴った。電話を取って二言三言話すと、涼子はこちらを振り向く。
「篤史からよ、時間だって」
ただそれだけだったが、俺には涼子が何を言っているのかすぐにわかった。裕介を見つめたまま軽くうなずいてみせる。いい奴だ、と俺は思った。篤史は相変わらず研究室でがんばっている。奴も俺たちのことは忘れていなかったのだ。そして、その篤史から第一報が入ったその時であった。
「見ろ!!」
 誰かが沖を指さして叫んだ。視線を移すと、水平線の彼方が大きく盛り上がりつつあった。篤史の予測通り、いよいよやって来たのだ。
 来た。俺の全身に電流が流れたような緊張が走った。はるばる太平洋を越えてやって来た津波の第一波だ。これを逃す手はない。俺は大声で裕介に伝えようとしたが、その必要はなかった。裕介はサーブボードの上に半身を起こして沖を見たまま、慎重にタイミングを計っていたのだ。
 津波は徐々に高さを増しながら浜を目がけてやってくる。それに合わせて裕介がゆっくりと漕ぎ出した。遠目にははっきりと分からないが、おそらく奴の瞳は歓喜に輝いていることだろう。
「がんばって…」
 すぐそばで、明美が祈るような眼差しで裕介を見つめている。その一言が俺たち全員の思いを代弁している。
 裕介は次第に間隔を狭めていく津波と、絶妙な間をとってスピードを上げていく。その手腕には、1シーズンを逃したブランクなど微塵も感じられない。すごい奴だ。俺はその時、心から思った。それまで張り詰めていた緊張が歓喜に変わっていく。不安など感じている余裕はもはやなかった。
 津波はさらにスピードと高さを上げながら、浜へと迫ってくる。篤史の予想通り、裕介の手前で、津波は五メートルを越える大波へと変貌した。こいつはまさに、ビック・ウェーブだった。日本でこれだけの大波がやって来ることはまずめったにない。そして、これだけいいチャンスに恵まれることも。これに乗れるのはおそらく裕介しか ─。
 津波が裕介に襲いかかろうとしたまさにその時、頂きが崩れ始めた。今だ。俺は思わず拳を握り締めた。同時に、
「行っけぇ!!」
 誰が叫んだのかわからないが、それを合図とするように裕介は立ち上がった。今や、時速四十キロを越える猛スピードで津波とともに疾走するサーフボードの上で。その瞬間、浜にいた全員から声にならない叫び声が上がった。今や、この場でこれを見ている全員が興奮の渦中にあった。
 背後から追いかけてくる津波を絶妙なタイミングで捕まえながら、裕介のサーフボードは浜に沿って海原を駆け抜けていく。そのサーフボードさばきは、まさに「浜の帝王」の名にふさわしいものだった。これが、これこそが本物のサーフィンなのだ。そして、俺たちは、その最高の瞬間に立ち合っている。五メートルを越える大波に乗る、裕介の最高にかっこいい瞬間に。
 波に乗りながら俺たちの方を向いた時、裕介は右手を誇らしげに上げた。奴が心から喜んでいるのは、もう顔を見なくてもよくわかる。照りつける朝の陽光の中で、裕介は今、遅れてきた季節の真っただ中にいた。

 


 …そして、秋祭り。俺たちは涼子のアパートの屋上から、盛大に上がる花火を眺めていた。様々なことがあったあの日から、もう三日が過ぎていた。
「ようやく、秋を楽しめるようになったか…」
 ほろ酔い気分で花火に見入っている俺の隣で、あきおが感慨深げにつぶやいた。
俺を含めた友達の何人かが、まったく同感、といったようにうなずいた。九月に入って今までいろいろあっただけに、あきおの言葉が妙に胸に染みる。
 当のあきおは、今日になってようやく俺たちの前に顔を出したばかりだった。何しろ、あの時お巡りさんの前で、仲間と一緒に派手にバイクを暴走させた張本人である。全てが終わった後でお巡りさんにこってりしぼられて、たっぷり罰金を払って、ようやく”有罪”放免になったのだ。もっとも、当の本人はさほど悔やんでいない。
「まったくだね」
 背後で明美が相槌を打った。明美は涼子から借りたイス座って優雅に花火見物としゃれこんでいる。俺は明美をちらっと見て苦笑した。
「おいおい、一体誰のせいで俺たちが…」
 そこまで言って、ふと俺は明美の隣で同じように花火を眺めていた裕介と目が合った。つい先日浜で一番のヒーローになった本人は、サマー・ベットにごろんと横になっていた。暗がりの中で奴が俺と同じように苦笑しているのがぼんやりと見てとれる。
「確かに、ね。だけど、こうしてゆっくりと振り返れるようになってみれば、そう悪くなかったと思うよ。何しろ ─」
と、裕介はサマー・ベットの中で背伸びをした。そこには、もう今までのような陰りはない。
「何しろ、たっぷりとあの波に乗れたんだから」
「ああ…」
 俺は穏やかにうなずいてみせた。あの日の俺たちの賭けは、近年まれにみる大成功だったのだ。
 あの日、結局裕介は、六波にわたってやって来た大津波を、全て乗りこなしてみせた。浜でその様子をじっと見ていた人達は、警戒のためにやって来た消防団の人達てさえ、止めるのも忘れて見入っていたものだった。むろん、俺たちに至ってはいうまでもない。向こう十年間はやって来ない大波の舞台を、裕介は見事に乗りこなしてみせたのだ。
 そして、裕介はまた足を痛めてしまった。もちろん歩けないほどではないが、当分の間サーフィンは出来ない。だが、あの大波に乗れるのなら、どんなサーファーも危険を厭いはしないだろう、と裕介は熱っぽく話していたものである。それを叶えた後には、どんな後悔も残りはしなかった。
「一瞬に過ぎ去った季節だったね…」
 缶ビールを片手に、涼子が穏やかな口調でつぶやいた。顔を見やると、そこには、普段の涼子らしくない、過ぎ去った季節をいとおしむような、静かな表情が浮かんでいる。確かに、あの日の朝は裕介にとって、この夏の全てを凝縮した瞬間だった。今までで一番躍動し、そして今までで一番輝いた瞬間─。
「過ぎ去った季節に、乾杯…!!」
 俺は、そっとつぶやくと、缶ビールをあおった。視界の端に、一瞬だけきらりと輝く光の花が映る。それは、俺たちがようやく”秋”という時間を実感できるようになったことを、しっかりと物語っていた。

 

THE    END

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