たったひとつの出逢い


「……ふぅ、いい風だな」
フロントウィンドゥを開けた私は、吹き込んでくる風を受けて、ふとつぶやいた。ここは、信州のとある街中である。
メインストリートを走る4ドアセダン、私はそんなクルマに乗っていた。先週までは多忙だった私も、今は時間に不自由することはない。こうしてゆったりと、見知らぬ街を流していくこともできる。
そんなときだった。歩道の片隅に、ぽつんと立つ女の子が私の視野をよぎった。右手を高く上げて、親指を突き出している。
珍しいな、と思いつつ、私はその女の子のそばにクルマを止めた。助手席のウィンドゥを開ける。
「こんにちは」
女の子はにっこり笑った。
「こんにちは、どこまで行くの?」
「別に。特に決まった行き先なんてないよ。君はどこまで?」
女の子は、少しばかり考え込んだ。
「う〜ん。そうね、わたしも、ぜんぜん考えてなかったな。ただ、遠くへ行きたかっただけなの。とりあえずは、西の方へ、かな」
「よかったら乗ってく?」
「わあ、ありがとう。じゃ、お言葉に甘えて」
彼女は嬉しそうにクルマに乗り込んできた。
私は、クルマを発進させる。市街地を抜けて、そのまま海岸へ。
私はちらっと彼女を見やった。プルーのジーンズにヨットパーカー。背負っていたザックは、今は膝の上だ。
どこにでもいそうな普通の女の子だ。おそらく二十歳を出ているかいないかというくらいだろう。五月のこんなに時期に、ヒッチハイクをできるような時間の余裕があるのが、少しばかり意外だった。
「……それにしても、女の子のヒッチハイカーなんて、珍しいな。何でまた、ヒッチハイクなんてことを?」
彼女は、くすっと笑った。
「そんな、大した理由があったわけじゃないのよ。ただね、どこか遠くへ行ってみたいなあって思って」
「ヒッチハイクはいつから?」
「そうね。もう二ヶ月になるかな。稚内に住んでいたんだけど、あっちこっちを旅して、、お金がなくなったらバイトして、やっとここまで来たの」
二ヶ月か…。ふと私は思った。二ヶ月前なら、こんなことはできなかった。仕事でいつもがんじがらめにされて…。
「そういうあなたは?」
「え」
「何でこんなにところを? 見たところ、仕事でここまで来ているようには見えないけれど」
「いやあ」
私は、少し照れくさそうに笑った。そういえば、私もスーツ姿ではない。もう、そんなものは必要ではないのだ。
「仕事なら、先週クビになったよ。それで、旅をする時間もできたし、あちこち回ってみようかと思ってね」
次の瞬間、彼女は顔を曇らせる。
「ごめんなさい。わたし、嫌なこと聞いちゃって……」
「そんな、気にすることはないよ。実際、いい機会だと思ったんだ。今までこんなにゆっくりと全国を回る余裕なんてなかったからね。二、三ヶ月はこうして休んで、また何かやりたくなったら、新しい仕事を見つけるさ」
そうしないと経済的な余裕がなくなるからでもあるわけだが、もちろん私は、そんなことまでは言わない。
「そっか。じゃ、わたしとおんなじだね」
そう言って、彼女はほっとしたように笑った。
素敵な笑顔だった。屈託のない、自然な笑顔。営業スマイルに見慣れた私の目には、彼女のそんな表情が、新鮮に映った。
「で、次はどこへ?」
「そうだな……」
私は考え込んだ。
「とりあえずは、海峡を抜けて、九州の方へでも行ってみようかな。今まで一度も行ったことがなかったし」
「九州かぁ、いいなあ…」
と、彼女は視線を外にさまよわせる。その何かに憧れるような表情を、私はいいな、と思った。そんな表情を、私はもうどこかに置き忘れてしまった。
だからなのかもしれない。
「行ってみるかい?」
そんな言葉が、自然に出た。彼女は瞳を輝かせてうなずく。
「うん、もしよかったら」
「じゃ、決まりだ」
私はにやっと笑ってうなずいた。ひょんなことから、彼女と知り合いになった私だったが、そのおかげで、久しぶりに行く先が見つかったらしい。
とりあえずは、西へ。その先には何があるのかは、誰も知らない。
旅は今、始まったばかりだ。


…続く?

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