ある午後の出来事



  時速70キロ ─ 速度制限のない道路をこのスピードでぶっ飛ばしていて、警察にパクられるような間抜けはまずいない。10キロ程度のオーバーなら、まず見逃してくれるのが普通だ。
  けれども、その日、あたしはそのマ・ヌ・ケを見事にやってしまった。原因は…、いや、ここで言うのはやめておこう。とてもじゃないが、標識を見てるのを忘れてしまったなんて、恥ずかしくて言えない。
  近くの交番に250CCのバイクごと連れて行かれ、厳重なる注意 ─ と減点をいくつか ─ をもらったあとで、理由を訊ねたおまわりさんは、ひとしきり笑った後でこう言った。
「いや、あそこの直線道路は、途中から速度制限がつくことに気付かないヤツは、けっこう多いんだよ」
  罰金として払った札を数えながら、おまわりさんは上機嫌である。それでも怒る気にならないのは、このおまわりさんが小肥りで陽気な人だったからだろう。あたしは、表情の選択に困った。
  そんなときである。ふとおまわりさんは、あたしを横目でみながら言った。
「そうか、じゃあんたもあの子と一緒ってわけだネ」 
  えっ、先客がいたの?  あたしはびっくりして、おまわりさんの指し示す方を見た。あたし達のいる机のちょうど向かい側の机、そこに彼女がいたのである。

 

  彼女の名前は、涼子・J・フェリックス。ラスト・ネームはヨーロッパ風だが、れっきとした日本人とアメリカ人の混血。あたしと同じ19歳で、日本に定住できそうな所を捜して全国を回っているのだ。なぜなら…。
「えっ、じゃ、パパもママもいないの!?」
  交番を出てから一緒に入った喫茶店、そこで彼女の話を聞いていたあたしは、思わずそうたずね返していた。
「うん、要するに天涯孤独ってやつかな。おかげで、こうしてのん気に日本じゅうをまわっていられるわけだけどね。 
「そうか…」 
  彼女は陽気に笑っていたけれども、あたしには、ちょっとその事実は重いものだった。聞いた話では、彼女の幼い頃に両親が亡くなったのだという。親類のことはまったく聞いていないので、今、彼女の身寄りは、一人もいない。
「まあ、16の時まで孤児院にいたんだけど、あそこじゃあんまり、いい事がなかったしね。たまたま、その時のバイト先の人がいい人で、お金のことは気にしないでいいから、一、二年全国をまわってきたら、って言ってくれたから」
  以来、彼女は、行く先々でバイトをしながらお金をためつつ、全国をまわっているのだそうだ。
「強いね」
  あたしは、心から感心して言った。十代のうちは、学校へ通って学歴をつけることが当たり前になっているこの時代に、こんなことのできる人はまずいない。
「そうかな?」
と、彼女は涼しい顔で首を傾げた。
「そうだよ。だって今じゃ、普通の子はたいてい18になるまで、学校行ってたっぷり遊んでるのに、そうしないで、自分でちゃんと生活してるんだから。しかも、こうやって、一人だけで日本じゅうを回ってるんでしょ。うらやましいよ…」 
「自分で生活してるってことに関しては、瑞穂ちゃんも同じだと思うんだけどね。
彼女はそう言ってくすっと笑った。もうあたしとは、十年来の友達みたいな気でいるらしい。その気安さも、おそらくは彼女が全国を回っている間に身についたものなのだろう。あたしには、とてもそんな真似はできない。少なくともまだ今は。
  それにしても、こんなところでこんな思いがけないことに出会うなんて、まったく何ということだろう。あたしは今まで、孤児なんて境遇に陥った人には出会ったことはなかったし、そういうことは、いつでもあたしの世界観の外にあるものだと思っていた。それが、突然夏の日の涼風のような笑顔と一緒に、あたしの目の前に現れたのだ。
  けれども、涼子は、今まで自分が孤児だということに引け目を感じたことはなかったという。少なくとも、16歳になってからは。
「だって、どんな女の子だって、いずれは自分独りで何もかもやらなきゃならない時が来るんだもん。たまたまあたしの場合は、生まれてからずっとそうだったって、それだけのことだよ。瑞穂ちゃんだってそうでしょ?」
  それは、確かにその通りだ。境遇は微妙に異なるが、両親なしでやっていることについては、あたしもまったく同じである。もうこの歳になってしまえば。
「もっとも、孤児院のみんなは、家族がいないことをひがんでいたけどね。あそこの人達は、親身にはなってくれたけど、基本的には他人なわけでしょ。それを無理して隠しているもんだから、結局、人間関係がぎくしゃくしちゃうのよ。あまりいい雰囲気じゃなかったなあ…」 
  彼女はそう言って肩をすくめてみせた。そんな彼女からは、とても孤児だなんてことはうかがえない。
「それはたぶん、性格に一番の原因があるんでしょうね。もっと他人にアピールできるような性格だったらよかったんだろうけれど」 
  そう言ってからからと笑う彼女を見ていて、ふとあたしは、ある種の切ない思いにとらわれていた。この笑顔の奥には、おそらく数多くの苦労がしまわれているのだろう。そのたくさんの苦労が、彼女にこんな爽やかな笑顔を見させるのだろう、とあたしは思う。もっとも、こんなことを感じること自体、彼女を侮辱することになってしまうのかもしれないが。ふと気付くと、あたしはこの涼子・J・フェリックスという女の子を、生まれてからの親友のように思っていた。

 


  そして別れ際。彼女は、とりあえず返してもらったバイクに乗った。これからまた、見知らぬ土地へ出かけて行くのである。あたしは、たまたま通りすがりに出会っただけなのだ。
「また会えるかな…?」
  あたしは、髪をかき上げながらそうたずねた。同じことを彼女にたずねる人もたくさんいるのだろうけれど、それが偶然の所産である限り、その可能性は限りなく小さい。
  けれど、彼女はメット越しに、ニッコリ笑ってうなずいた、この上なくはっきりと。
「うん、たぶんね、きっとどこかの空の下で…!」
  別れの言葉はなかった。お互いに、じゃあ、と片手をあげて、彼女はごく自然な感じで走り去っていった。ごく普通の日の、少しだけ輝いたひととき。あたしは、少しだけ胸に迫る何かを感じながら、それを見送っていた。



THE    END

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