雑記雑気2 page 6

●50歳1996.2 

  駿河屋は今日で50歳になった。1946年、2月14日に生を受け、半世紀を生きてきたわけだ。長いとも云えるし、アッと言う間だったとも云える。織田信長は人生50年を舞ったが、その人生は50年に足りなかった。
  その50年を生きた。齢半世紀となった駿河屋にこの先、何が待ち受けているのか。分からない。 生まれたのは北海道上川郡東川村、晴れ渡った日の午前11時半頃。祖父と父は屋根の雪下ろしをしていたという。

  丁度その日、戦後初めての配給の米が届いた日で、祖父はこの子は福を持ってきたと喜んだという。合気道のたしなみが有った祖父が姓名判断をして二つの名前を候補として出した。
  最良は石造、次善が謙太郎。石造は身体が剛健で且つ頭も良くなる。謙太郎は知性に問題ないが、身体は少し弱い。母が石造では可哀想だと反対してくれたので謙太郎になったという。謙太郎の謙は上杉謙信の謙。真偽はともかく、先祖が上杉家に仕えたという事から、殿様の名前の一文字を無断で頂いてしまったと云うことらしい。
  謙太郎になったお陰かどうか、小さい頃は身体が弱かった。良く風邪をひき、耳も弱かった。でもアデノイドを取り、蓄脳を直し、水泳を覚えた頃からめきめき丈夫になって今日に至っている。とりとめの無い文章になった。でも、何か書かないで居られない50歳の誕生日。

●親子、夫婦の情 -神を信じると云うこと?- 1996.2

  神を信じると云うことはどういう事なのか。全く分からなかったが、今朝、顔を洗いながらふと少し分かった気がした。
  親子は子が誕生した時から親子。親は子の親であり、子は親の子で有ることを知っており、疑わない。これと同じ気持ちで神を知っており、神を疑わない事が神を信じるという事であろうか?
  時に行動を信じず、言うことが理解出来なかったとしても、神は神。これが信心ということであれば水の様に自然で空気の様に邪魔にならないものだろう。
  夫婦の関係もこれに似ていると思う。 特別のことが無くても、お互いを自分のそばに居る者・伴侶として自然に認め有っているのだ。お互い見知らない処から始めるという意味で、親子より神を信じ、認めることに近いかもしれない。少し神・信仰というものが近く感じられた今朝であった。

●神戸の桜 -- 無情 -- 1996.3

  桜の季節になり、昨年春のテレビ映像を思い出した。神戸地震の後報番組で、焼け野原の焼けただれた桜が芽を吹き、花を付けたという明るい紹介が有った。暗い中に希望の火を見出すニュースとして紹介された。其処に家が有った人が『良く生き延びたね』と泣きながら花を見上げる画面は将に感動的であった。

この話には悲しい後日談がある。その桜、確かに花は付けたが、それは焼けただれた幹に残っていた僅かな水分が枝に栄養を与え、花を咲かせたと云うのだ。
  根は既に死んでおり、桜の花が散った後は葉も出ずにダメになってしまったという。これが<無情>ということなのか。自然の無情の営みの一挙手一投足、枝葉末節に情けを感じてうろたえる。ああ人類、なんとはかない者達。

●反射 -- 普遍、対応 -- 1996.3

  今朝、面白い発見をした。社宅から徒歩通勤の人達がぞろぞろ歩いている。誰も自分の歩く速さなど考えていない のに、殆ど皆が同じ速さだ。道が狭くなっている所にくると、意識しているわけではないのに自然に速さが調整されてぶつかりそうな人が上手く前後になる。
  道を歩くときに取るべき身体の行動がプログラムされていて、無意識のうちに歩く速さを周りの人に合わせたり、少し速くしたり遅くしたりして調節しているのだ。これが反射というものらしい。
  反復が身体に動き方をインプットすると、無意識の内にその行動がとれるようになるのだ。少々条件が違っても、無意識の内に別の反射と組み合わされてその時の条件に対応した動きが出来るのだ。
  自転車の乗り方を一旦覚えてしまうと、数十年乗らなくても直ぐ乗れる。アスファルトの上しか走ったことが無くても、砂利道や砂浜で戸惑うことはない。

  身体が勝手に反応・適応した動きをしてくれる。これが反射。 その生物にとって完成された反射が自律神経による心臓の鼓動や、肺の呼吸ということになるのだろうか。これらは生物が地球上に現れた20億年もの間変化する必要もなく鍛えられた基本機能だから普遍のものとして自律が許されているのだろう。
  自律と反射を比較すると、自律が普遍を前提とした完成されたものなのに対し、反射は条件によって組み合わせや変更が可能な未完成品と言うことだろう。
  未完成な分だけ状況に対応した適応が可能なのだろう。そうしてみると自律が根、反射が幹、その上に成り立った人類らしい行動は全て枝葉ということになるのだろうか。

メモ: 反射=学習、マルチタスク、条件に対する適応、自転車に乗る、自律神経
   自律が根、反射が幹、その上に成り立った人類らしい行動は全て枝葉?

●中学生のいじめ自殺 -心への作用点- 1996.4

  最近新聞に中学生のいじめ自殺が載ることが多い。マスコミが注目している。数日前に『言葉のいじめだけで自殺した』という記事が有った。その子は、なんらの肉体的な暴力を受けていないのに、言葉でからかわれただけで自殺したから驚きだと言う。
  これは変だ。肉体的な暴力が直接的な原因となって肉体が死んだ=他殺ならともかく、自殺は心の問題。心に響く影響は肉体的な作用よりも、目や耳から入って直接心に影響する情景や言葉の方が余程大きな、且つ直接的な作用をするのでは無いか。

  肉体的な暴力は耐え難く、言葉や情景による暴力は耐える事が出来ると言うのは嘘だろう。(最大の拷問は本人を痛めるのではなく、本人の目の前で愛する者を痛める事だという。) 
  これは物的証拠主義という狭くかつ悪い意味での科学万能主義に思わぬ処まで侵された近代人類の性行の弊害だろうか。あるいは、中世ヨーロッパを震撼させた教会横暴、魔女狩りの後遺症が未だ残っているというべきなのか。
  それにつけても、心、この不思議な原動力。その人間にとっての全ての考え方、全ての行動が『心』という鏡に照らされて決められていく。心への作用点としての五感、これまた良く分からない。

●価値・価格 - バブルの崩壊に想う - 1996.5

  バブル景気が崩壊して数年、その深刻な影響が出ている。最近も土地への投資を主とする企業への金融が焦げ付き、税金でその穴埋めをしようと云う法律が国会を通った。土地を含めた色々の物の価値が減少し、価格が下がっているのだ。
  価値・価格とは何だろう。例えばうちの工場で作っている製品。これには色々の部品が使われている。幾つかの部品は自分の工場で作り、残りは部品専業メーカーから買ってきてそれを組み立てる。
  従って、製品の原価は主に部品代と工場で働いている人達の手間賃、給料からなっている。細かく見るとその他に建物や機械設備の償却費、電気やガス水道代、税金など。これに次の開発や設備などの投資の為の利益なども含めて出荷価格が決まる。

  それぞれの項目を更に細かく分けていくと、それぞれがまた同じ様な項目に分けられる。例えば電気代。電気は電力会社の石油、原子力の燃料棒などの材料費、人件費 …等 に分けられる。
  この様に分け続けていくとどの項目も、最後に残るのは人件費だけになる。材料費は元をただせば全て只なのだ。
  例えば石油。石油は太古の時代に地中に埋まった化石燃料である原油を人力を掛けたて掘り出す。原油そのものは地中に有る限り価値は無く、只なのだ。その時に使われる設備や電気も同じ事。

  元を糺せば材料は只。考えてみれば当然だ。大マクロで見て地球という限られた場所に有るモノの場所、形を変えているだけに過ぎない。従ってそれ自体の価値としては変化しない。(本質的価値のアップは太陽の恵みのエネルギー分だけがプラス。) 
  これに付加価値を与えるのは、人類が自分の手間を掛けて自分の気に入った様に場所を移し・形を変えるという加工。そして自分の代わりに他人がしてくれた加工に対する対価としての価値・価格なのだ。こうしてみると、改めて価値・価格は人類の勝手。
お天道様は笑っている。

追記:
土地の価格、この不思議なモノ。
  地球の表面は空気、水、地面で覆われている。空気には特別な加工がされていない限り価格は無い。水もそうだ。でも地面は違うらしい。
  地球上のどんな場所の地面にも所有権を主張する者がおり、利用者や所有権の移動を要求する者にはその対価を求める。
何故? 不動産。 これの意味を突き詰めると社会の仕組みが分るかもしれない。

●トカゲの尻尾 1996.6

  久しぶりにトカゲを見た。子供の頃はトカゲを追い回していじめ、遂にはトカゲが尻尾を切って逃げた後に尻尾だけが跳ね回っているのを面白がったものだ。少し大きくなって残酷な事をしたものだと反省したものだが如何。
  確かにトカゲは自らの尻尾を犠牲にしてはいるが、これをおとりにして自分自身は難を逃れている。暫くすると新しい尻尾が生えてきて次に備えられる。
  これはトカゲの進化の形であり、正常な行動の範囲。切った尻尾が原因で失血死したトカゲは古今を通じて一匹もいなかろう。

  そういえば以前、何かの本でトカゲの尻尾を紐で縛り、これを餌に手が届きそうで届かない場所に固定して観察した話を読んだのを思い出した。このトカゲは尻尾を切って餌を手に入れたか?
  答はno。トカゲは餌を目前にしながら飢え死にしてしまったという。前頭葉の発達を武器に生き延びてきた人類には笑えない話だ。『火事場の馬鹿力』が尻尾切りの能力であるならば、これが残っている間にもう一つ別の生き残り策をマニュアル化しておくべきかもしれない。
  似た話に確か、蛙の実験があった。蛙を熱湯の鍋に入れるとアッと言う間に飛び出して難を逃れるが、水に蛙を泳がせた鍋に火を掛けると、蛙は逃げるタイミングを計れずに釜ゆでになってしまうとか。ちょっと違う話だが、これも笑えない。

追記:
  トカゲの尻尾には所々に切取線が決まっていてその部分の骨、肉、皮膚は切断しても大きな出血などのダメージはないようになっているという。
  尤も、一旦切断されたら肉、皮膚はほぼ完全に再生されるが骨だけは代用の軟骨しか出てこないし、尻尾切りを経験したトカゲは寿命も短いという。やはり尻尾切りはトカゲにとって一世一代の大芝居なのだろう。

●アトムとビット -幽体離脱- 1996.7

  雑誌をみていたら、昔友達のポンちゃんが『アトムとビット』という言葉を流行らせようとしているようだ。
  情報媒体が石、皮、紙、CDROMと変化してはきたが未だに物質=アトム(原子)を使っており、その伝達は運動のエネルギー。近年インターネットに象徴されるビット(符号)媒体をもっと多用すれば運動エネルギーから解放されて真の情報伝達ができる云々。
  今や分かり切った事をくどくど述べる様になったとは老いたりポンちゃんだが、妙な言葉を操って人の気を引く才能に衰えは無さそうだ。

  ポンちゃんに念を押されるまでもなく確かに電子技術の応用によって、昔なら修行を重ねた仙人かヨガの達人だけに果たせた幽体離脱という技を凡人が易々とこなしているとは云えそうだ。
  さしずめ、怪しげな祭壇(パソコン)に向かって何度か手招き(キーボード操作)するという儀式の中でトランス状態となった仙人が突然振り返り、『儂はたった今世界を一巡りしてきた。遥か東国のメリカではクリンツンという国王がドラーを強くせよ檄を飛ばしとった』とか、『明日は島の国ジポンから昔の友人がここを訪ねてくれるそうじゃ。旨い酒を一本買ってきてくれと頼んでおいたぞ』てな具合か。
  ESPならずとも、仙人ならずともテレパシー、テレポーテーション自由自在という幽体離脱世界の入り口にこの世界は立っている。 のだろうか … 。 

メモ:
  懐かしいポンちゃん健在。流行らせたい言葉『アトムとビット』
テレポーテーション、テレパシー、仙人、幽体離脱、<情報>は何をトリガーするの?
再び心 …エモーション、この不思議なモノ
英国人 … 肩書きで仕事 : 固まった世界
アメリカ人 … 友人となら仕事 : 信頼してなきゃ始まらない

●侍の刀 -- 作法 -- 1996.8

  江戸時代の侍は刀をどんな気持ちで差していたのだろうか? 戦国の世は遠く遥かに去り、毎日 持ち歩いてはいても一生に一度も使う事など無かったであろうに。重さ、長さは容易ならざるものであったろうし、もし抜くとなれば命を掛ける覚悟が必要だったろう。
  毎日必ず刀を差して出歩くのに良いことは殆どなく、むしろ辛いことばかり。それでもやはり武士の面目として帯刀は必須。

  こうしてみると刀は武士の魂なりという教えは素晴らしい。魂無しの抜け殻で人前に出るだけの勇気は誰にも無い。これが作法という名分を存続させる寸鉄だったのろう。
  そして100年、今日もサラリーマンは何の名分、寸鉄もなしに作法のネクタイ背広姿で往来を闊歩している。

  ●栃尾の町 1996.9

  出張で栃尾市に来た。上杉謙信旗揚げの地の面影を残す川沿いの古い城下町。
謙信は自分の名前の由来でもあるので懐かしい感じがする。
  長岡から山一つぶち抜いたトンネルを抜けてタクシーで約30分。冬にはトンネルを越えたら大雪で車が栃尾に入れぬ事がしょっちゅうだという。 2本の川が出会う狭い街道沿いに庇を接する古い建物が驚くほどの奥行きを持っている。
  街道沿いに長い歴史をかけて発展した町だ。糸へん景気の頃には機織りで栄えた名残りか、木造3階建ての古い機織り工場がただ一軒今も稼働中。

メモ:
  上杉謙信1530-1578 春日山城に生まれ、天文12年14才で栃尾城に入る。 常安淨寺より127段の階段を上がり、秋葉神社(三尺坊大権現)。
大布川越えに城山(天神山)を望む秋葉公園に謙信の像。左手の数珠、右手に軍配。
公園内に芭蕉の句 : 此のあたり 目に見ゆる物は みな涼し


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