雑記雑気2 page 5

●キュウリの尻尾 --未練-- 1995・7・2

  久しぶりにキュウリを丸ごと食べた。なかなか味の良いキュウリだなと思ったら尻尾がにがい。うーん、これがキュウリだ。でもさて何処までが美味しいキュウリで何処からが苦い尻尾なのか。
  厳然とした味の違いはあるが、食べずにこの境界を見つけるのは至難だ。にがいところを全く食べたくなければ、かなりのおいしい部分を捨てねばならぬのでもったいない。かといって美味しいところを余すところなく食べたければ、少しは苦いところを食べることになってしまう。
  これ即ち『清濁あわせて飲むなり』としゃれるしかないが、その割には必ず美味しい側から食べ始めて、恐る恐る尻尾までかじっていくのが未練というものであろうか。

追記:
  今年に入って大きな事件が二つ起きた。一つは1月の神戸地震、もう一つはオウム真理教の事件だ。どちらも感じたことが多く、書きたい気もするが軽々しく書くには相手が大き過ぎるのか、いざ書くとなると筆が進まない。何時か書けるときが来るだろう。

●縄張り --究極の智恵-- 1995・8

  最近はあまり縄張りと言う言葉を聞かない。やくざ、商売等には付き物の言葉だった。独り占めと云う悪いイメージが強く、最近の仲良し振興ムード社会には向かないのか。
  最近、幾つか経験したことから、この縄張りという意識・行動が生物世界の究極の智恵ではないかと思った。生物の智恵とは何か。それは可能な限りのその種族の延命・繁栄が目的だろう。
  従って、智恵の表層レベルは個体が可能な限り快適にその命を全うし、その過程で次の世代を担うにふさわしい子を生み出すこと。深層は、いざと成ったら個体を犠牲にしてでも種族の存続を計るプログラム。

  縄張りという行動様式は、実にこの表層レベル、深層レベル両方の目的に合った究極の知恵ではなかろうか。タスマニア島の羊の研究では、入植移民が持ち込んだ羊が野生化してアッと言う間に異常繁殖したが、有る時点で飽和して増えなくなったという。
  この環境ではこれ以上増えられないと云うことを種族として察知したのだろう。まさに深層羊智の面目であり、これぞ縄張りの知恵の勝利だ。
  一見するところ、人類はこの神様=自然が呉れた知恵をそのまま受け入れ、適用するには複雑に成り過ぎた観もある。頭でっかちの議論好きに成ってしまったので、何か有る度にあーでもない、こーでもないと議論を始める。
  本来は(恐らく)知る必要の無いことまで知ろうとし、知ったことを元に未来を変えようとする。

  今までの処、人類のこの性質は正解だったらしい。個体の生活環境は年を追って改善し、地球上の人口は増えてきた。自然も今までの処、人類の繁栄には好意的だ。個体密度の高くなった都市部には公害等が発生し、それ以上の局所集中を避けてきた。
  疫病が発生する度にその病気を抑える手を考え出す人類に対し、新しい病を創り出し流行させて人口増加を牽制してきた。実に都合が良い。
  だが、この人類と自然の良い関係は何時まで続くのか。別の方法が無いではない。アフリカのネズミの中に、異常繁殖すると、一斉に海に向かって飛び込み、溺れ死ぬ種類が有ると聞いたことがある。
  自分たちの行動可能範囲に生き残るために必要な食料を確保出来ぬことを察知し、全てが死絶える危機が来る前に適正数を残して他は集団自殺をすることにより食料を確保し種族として生き残る。
  これは、本来縄張りをもって生きるには余りにも弱いので、集団となって生き、出来るだけ多くの子を生み・育てようとする鼠達の知恵だ。すさまじい知恵、将に鼠智と呼ぶべきだろう。

●ひからびたミミズ  -- 教育の限界 -- 1995・9

  今朝、通勤途中の風景。10m位先を恐らくは年少組の幼稚園の制服を着た子供が歩いていく。幼児独特の、特に何を気にしている訳ではなく、かといって何か変わったものが有るといち早く見つけるあの動きだ。
  その子が突然立ち止まり、地面にしゃがみ込んで何か熱心にのぞき込みだした。アスファルトの上でひからびたミミズを見つけたのだ。一生懸命のぞき込んでいるなと思うとやがて、指でつんつん突っつきだした。
  其処に後ろから付いてきた母親の鋭い声が響く。『汚いわよ、止めなさい』子供はビックリしたように手を離し、泣き出しそうな顔で母親を見上げている。なるほど、これは子の健康を祈る母の教育だ。

  待てよ、これが数万年前ならどうだろう。恐らく母親は『良いモノ見つけたねぇ』と褒めてからミミズを半分にちぎりって先ず自分の口に運び、残りを『美味しいわよ』と言いながら子供の口にやさしく入れてやったのではないか。
  生物20億年の歴史を持ち出すまでもなく、人類400万年の暮らしの中で、先の『汚いわよ』は何時から始まりそして何時まで続くのか。  『教育』、此の恐らくは悠久な空しさを伴う営みの意味を考えさせられたひからびたミミズであった。

●電線の雀 1995・10

  久しぶりに庭のベンチに座ってぼーっとしてた。電線に雀が3羽とまっている。思わず 『電線に雀が三羽とまってる。オトットット…』と昔流行った東村山音頭が口に出た。
  暫く見ていて面白いことに気が付いた。雀達は決してじっとしていない。1羽がトトッ、トトトッと横に少しずれて、隣りにとまっている雀に近付いていく。そうすると、その雀は同じ歩調、同じ速さで逃げていく。追う、逃げる、又追う、又逃げる。
  残りの1羽は暫くはじっとしているが、少し飛んで追っている雀の隣りにとまると、今度はそれをトトッ、トトトッと追い始める。始めから追われていた雀が少し飛んで別の電線にとまり直す。今度は追う・追われる別のペアが出来る。
  その内、逃げていた1羽が大きく飛び立って行った。追っていた1羽も飛び立ってその後を追う。最後の1羽も飛び立ったが、これは全然違う方向に飛んでいってしまった。 男女の三角関係は悲劇の大原因となることが多いと聞くが、その原点はこういう(恐らくは)意味不明な衝動にあるのであろうか?

●元素パワー 1995.5

  テレビを見ていたら、水晶占いが出てきた。水晶の持つ神秘の力で未来を見通そうというのだ。水晶の他にも、宝石は稀であり・美しいという特長の他に、それぞれ別の神秘の力が宿っているという説があり、これが宝石が珍重される大きな理由らしい。
  これはその昔高価な宝石を買うための根拠付けとして考え出された方便なのか、それとも単なる迷信の類なのだろうか。 
  考えてみれば、現在の科学・工業製品は元素、分子、それらの組み合わせの持つ種々の性質を引き出して利用する技と云えると思う。水晶球を用いると『時を超えて未来が見える』という占いは、今の水晶の時を刻む正確さの機能を言い当てていたのではないか。少なくとも、水晶が時間に関連するという事を言い当てているのは凄い。

  その昔(15000年前)、地球上には一度高度な文明が栄え、衰退していったという説があるが、その文明が滅び去った後もその時の微かな記憶が宝石、鉱物達に心理的・呪術的な意味を与えているのではないか? 
  例えば現在、珪素(シリコン)はトランジスター・ICの主原料として使われており、これが無い生活は考えられない。全てのコンピュータは停止し、電波は出ず、車は走らず、家庭に電気もガスも水も来ない。
  珪素(シリコン半導体)が産業の米と呼ばれる所以だ。この傾向は暫く続くに違いないし、トランジスター・ICの大切さは日頃その恩恵をあまり受けない荒野の民族にも轟いているはずだ。

  何らかの原因で現文明が滅びて、そして1万年…。珪素は『これを身につけていると、色々な情報が自然に判る』とか『算数に強くなる』というありがたい石となって、貴婦人達の胸を飾る。 … と面白いのだが、、、

●ポケットのタバコ  -- 執着心 -- 1995・12

  仕事の都合で茂原に泊まることが多い。昨夜も遅くまで仕事をし、駅前の食堂で晩飯を食べてからホテルに帰った。タバコを吸おうと思ってポケットを探ると『アレッ』、数本有った筈のタバコが一本しかない。
  フロントまで行けば買えるのだが何となく面倒。仕方なくその1本で朝まで持たせることにした。朝になって、フロントでタバコを買おうとしたが何時も吸っている銘柄”キャスター”が無い。
  仕方なくそのままチェックアウトしてタバコの自動販売機を探しながら結局会社迄来てしまった。 ようやくタバコを買って吸おうとして何気なく背広のポケットを探ると『アレッ』、数本残ったタバコの箱がでてきた。なーんだやはり有った。探し方が不足していたのだ。

  ここまで習慣化しているタバコでさえこの始末。若い頃持っていた物事に対する強烈な執着心が最近薄れてきたような気がする。 執着すると云う心の動きは果たして何が原動力なのであろうか。
  この積年の疑問を改めて思い出すと同時に、最近何事につけても以前の様なこだわりがとれて丸くなっていく自分を意識したさみしい今朝であった。

●あれから1年 -雑気の心・限界- 1996.1

  昨年の今日、1995年1月17日にあの神戸大地震が起こった。長女殿が学校の正月休みに茨城の家に帰ってきて、成人式に出、その足で神戸に帰った翌朝に地震に遭ったわけだ。
  昨年はこの地震を皮切りに3月20日の地下鉄サリン事件、オーム真理教事件と次々に平常時には無い異常な事件が起こった。
  どれをとっても当然雑気帳に書き留められるべき『もの想わせる』事件だが、ただありのままの驚きを受け身で表現するのではなく、その事柄が自分の中である程度は消化され自然ににじみ出してくる(排泄)まで待とうという気になってしまったのだ。これが雑記の心、限界なのかもしれない。
  あれから1年。まだ心の中は生々しさが残ってい、すっと何か書くという感じではないが、この日に何かをメモしておこうと思った。

●あれから1年(2) -前例- 1996.1.17

  あの日、淡路島北端を震源とした地震が起きた。自然現象として捉えればそれ程大きくもないただの地震だ。その<ただの地震>があの日の未明に直下型大地震として神戸を襲った。
  その結果、6000人の人命を奪い、10兆円を超える経済的打撃を与えた。あれから1年のテレビの特集番組を見ていたら無責任な評論家から関東大震災という過去の経験がありながら何故このように大きな被害がでたのかという議論が出た。
  前例に学んでいないというのだ。 『何をほざくかこのタコ野郎、あんただって事前に地震対策のじの字の警鐘を鳴らしてないくせに』と怒り狂う気持ちを抑えて前例とは何かを考えてみた。

  何があっても、人類は今までのやり方を余程のことが有っても踏襲するだろうし、先ずはその延長で解決しようとする。かたまり=運命共同体としての人類の存続をかけた知恵=慣性の法則だ。これが前例と云うものの考え方・対処だろう。
  確かに、都市を襲った地震としては過去にはこれ以上の規模の関東大震災だって有った。ただ、それが<前例>には出来ぬ程に稀かつ重大で、しかも喉元どころか遠の昔に消化排泄されて居るときては、全くのニューマターとして対応するしかない。これが前例というものの本質、人類の生活の知恵だろう。
マニュアルの充実か、それとも大岡裁きの冴えか、直近の時代はどちらの実務を望んでいるのか。

●追い越し禁止の道 - 因果 - 1996.2.

  国道6号線は町の中やバイパスを除き、大部分が上下各一車線で追い越し禁止だ。面白いことに気がついた。
  速く走りたい車、急いでいる車は大概の場合は他のゆっくり走っている車の最後尾についてイライラしながら走っている。のんびりマイペースの車は常に集団の先頭にいて、後ろからあおられながらこれも(多分)イライラしながら走っている。
  普通に考えれば逆の様な気がするが、速く走る車はチャンスで自分が先頭に立った途端にスピードを上げてアッと云う間に前の集団に追いついてしまうのでこうなるのだ。逆に、のんびり車は普段はあおられて流れに身を任せて居るが、自分が集団の最後尾になった途端にマイペースで集団から遅れ始め、後ろの集団に追いつかれてしまってその先頭になるのだ。

  共に、正反対とも云える自分の性癖・傾向に従って行動し、満足を得る瞬間よりもそれが満たされぬ時を長く味わい苦悩する。
うーん、これが因果というものの本質であろうか。まさに人間・因果な存在だ。


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