雑記雑気2 page 4

●49才 1995・2

  駿河屋は今日で満49才になった。駿河屋にとって、49才は特別な年齢だ。ミヤさんが亡くなった年齢だからだ。遂にミヤさんの歳に追いついてしまった。
  改めてこの年齢になって分かったのは、如何にミヤさんが偉大だったかということだ。ミヤさんと最初に出会ったのが亡くなる5年前だから、その時ミヤさんは44才だったという事になる。
              <中略>
  リトル”ミヤ”をめざして来た駿河屋にとって、まだまだ目標が偉大で、はるか足元にすら達していないが、やはり年齢だけは追いついてしまったという感慨は拭えない。

●SORRY --言葉の意味するもの--  1995・3

  昨日、3月10日が東京大空襲50周年に当たるとして、関係者が平和の日記念式典を開催したという。モンデール駐日米国大使も出席した。
  新聞がこのニュースを一面で大きな写真入りで報道しているが、この表現が気になった。『東京大空襲にソーリー』という題名。記事の中に『ソーリーと低い声で遺憾の意を表した』とある。
  これを読む読者のほぼ全員が、そうか米国大使は空襲にたいして謝罪したのだなと考えるであろう。本当にモンデール大使は謝罪したのか?
  これだけの記事では前後の言葉、文章がないので何とも断定はできぬが、恐らくモンデール氏は謝罪していないのだと思う。

  通常、I am sorry と言えば謝罪であるが、人が死んだときに哀悼・お悔やみの言葉(口語)として同じ I am sorry を使う。これを知ったのは、20年前、米国に留学中に祖父を亡くした時だった。まわりの友人達に祖父の死亡を伝えたときに必ず I'm very sorry と言われたからだ。
  想像するにモンデール氏は単に空襲で亡くなった人達に対して哀悼を述べただけではないのか。新聞の記者・編集者がI am sorry にこの様な使い方が有ると知っているかどうか分からないが、少なくともソーリーには遺憾の意を表す意味はない。
  新聞はこの記事で何を伝えたいのか? 言葉の意味を知りながら、敢えて謝罪を匂わせる主張( 表現)をし、なおかつ"遺憾の意を表す"などという曖昧な表現で反響から逃げ・ごまかしをしているとまでかんぐるのは深読みが過ぎるだろうか。

  文化や歴史の違いからくる言葉の違い、言葉の意味するものの難しさ、外国の言葉をうまく当てはめる自国語を探す困難さを改めて感じさせられたxx新聞の記事であった。

●河童の芋銭 --世捨て人-- 1995.3

  長女殿が柏で就職したので、ここのところ車で柏に行くことが多い。途中、芭蕉が奥の細道の旅に出た地として有名な牛久を通る。
  牛久には牛久沼という大きな沼が有って、昔から河童が棲んでいるといわれてきたらしい。確かに、関東平野というだだっ広い平地の道無き道を牛久の丘を目指して歩き、それに寄り添うようにした大きな沼を見つけるという風情のなかでは、河童が群をなして棲んでいるという伝説くらい不思議ではない。

  この牛久沼の河童達を愛したのが小川芋銭だ。芋銭は明治元年に赤坂の溜池に生まれ、幼少から牛久で育ち、一時東京に暮らしたが後半生を又、牛久で過ごした文人・画家だ。生涯を田舎で過ごした気骨ある人らしい。
  芋銭の河童の絵は、前に見たことがあって、その不思議な・時には鬼気迫る作風に、何とはなく気難しい世捨て人を想像していた。

  長女殿のアパートに向かう途中、牛久で<河童の碑へ>という看板を見つけて行ってみた。牛久の丘の上、沼を見おろす場所にその碑は有った。
  樹齢400年の椎の木に見守られて、大きな石板に彫られた等身大の一人の河童。足を組み、地面に座り込んで物思いに耽っている。体は沼を向いているが、その目は下向き加減に少し振り返っている。
  沼を見おろすその場所からは、樹々に遮られてチラッとしか水面は窺えない。石版には、恐らく芋銭の手であろう『誰識古人画龍心』と刻まれていた。
  椎の木に寄り添う椿の赤い花の他は石板の灰色、木々の濃緑と地面の黒茶色だけであった。

  やはり芋銭は、世間に背を向けた世捨て人であったかと納得しかけた帰路、道端に古い道標を見つけた。寄ってみると芋銭が村の青年達に勧めて沢山建てさせたものとある。<ここで勘違いかもしれないと思った。
  芋銭は、不思議な絵を描く気むずかしい世捨て爺さんではなく、絵がうまい・明るい・変な・気取り屋爺さんだったのではないか。

  世捨て人とは、自分が世俗に交わるのを潔しとせぬ孤高の人達。後世の人々にそう思われている人達の中には、その時代の表舞台にこそ立たなかったものの、しっかりと"平凡"に生き、それでもなおかつ後世に名を残すだけの結果を出した『世捨てられ人』も沢山いるのではないか。
どうやら、明治という時代は浪費出来るほど"人"を作った時代らしい。

メモ:
小川芋銭。牛久の丘に河童の碑、誰識古人画龍心、樹齢400年の椎の木・寄り添う椿の赤、土の黒。明治元年、赤坂溜池に生まる、昭和26年没。1995.3

● 原点 1995・3

  戸塚駅の近くにラーメン屋がある。間口一間で、カウンターの他には4人掛けのテーブルが4〜5脚しかない小さな店だ。まるまると太ったおやじが若い店員一人とやっている。忙しい時間には奥さんと娘が手伝っている。
  おやじは客の前でも平気で大声で鼻歌を歌い、その内(内心自慢の)口笛を大きな音で吹き出す。時には件の店員を大声でどなりつける。『それでは火がかわいそうだ、もっとちゃんとやれ』『その皿の洗い方はお前の発明か。それでは良く洗えないし洗剤がもったいない』と云った具合だ。

  出てくる料理がすごい。味はおやじの自慢に違いないが『まあうまいと言おうか』程度か。凄いのはその量だ。例えば、タンメンを頼むとラーメンの椀にこれほどのものが入るのかというくらい山盛りになっている。
  山盛りになっているものの正体は白菜、キャベツ、モヤシだ。結構たくさん入っていると思われる豚肉はこれらに埋もれて痕跡程度にしか感じられない。
  食べ始めてしばらく、やっと大盛りラーメン程度になった頃には体中から汗が噴き出してくる。顔の汗を拭きつつ、ここからいよいよラーメンとの格闘状態になる。尤も、未だ汁も麺も姿を現さないが。
  いよいよ麺が顔を出すともう心は終戦段階。一気に底まで食べ尽くして汗だらけになった顔をふく。何とも言えぬ満腹感・満足感だ。

  これが原点というものではないか。
飽食の時代、量が多いということはそれ程客にとって魅力ではないということくらいきっとおやじは知っているだろう。事実、駿河屋が戸塚に来た20年以上前は行列が出来るくらい流行っていたが、最近は出張のついでに行っても店内はガランとしている。
  それでもおやじは平気の平左。届いた段ボールから白菜を取り出しては『お前、いい顔してるなー。きっとうまいぞ』と、言いながら。

●インディアンの教え 1995.4

  雑気は自分の考えを書くものだが、前に例外として玉城康四郎の無明の虫を転記したことが有った。これは例外の二つ目。前に読んだもののコピーが出てきたので。必ずしも共感せぬものもあるが、真理の一端をここまで簡潔に表現出来るのは素晴らしい。
 <<以下引用>>

      インディアンの教え
ドロシー・ロー・ノルト作・吉永宏訳-- 子供達は、こうして生き方を学びます --
 ・敵意に満ちた中で育った子は誰とでも戦います
 ・批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします
 ・ひやかしを受けて育った子ははにかみ屋になります
 ・ねたみを受けて育った子はいつも悪いことをしているような気持ちになります
 ・心が寛大な人の中で育った子はがまん強くなります
 ・はげましを受けて育った子は自信を持ちます
 ・ほめられる中で育った子は正義心を持ちます
 ・公明正大な中で育った子は正義心を持ちます
 ・思いやりのある中で育った子は信仰心を持ちます
 ・人に認めてもらえる中で育った子は自分を大切にします
 ・仲間の愛の中で育った子は世界に愛をみつけます

●ほら吹きマルコの話 --想像・解釈・言葉の限界-- 1995.4

  マルコポーロは若い頃にベネチアを出発し、東方の国を20年以上も旅して再び西洋に戻った。その旅の中で色々不思議な体験をし、また考えられぬほど奇妙な動物を見たと言っている。   おかげで彼は『ほら吹きマルコ』と呼ばれて、誰にも相手にされなくなり、晩年は寂しかったという。

  彼は本当にほら吹きだったのか。前に東方見聞録の訳本を読んだことがあるが、その時の記憶ではワニ、サイなどが実に写実的に描写されていたと思う。
  では何故、マルコがほら吹きになってしまったのか? その理由は? 
先ず、マルコに聞くまでこれ等の動物を見たことも聞いたこともがない人達は、自分の経験の範囲でこれを想像・解釈しようとする。
  次に、可哀想にも、マルコ自身が言葉(という道具)でそれらの動物を描写しようとすると、とても受け入れられぬ程とんでも無い説明しか出来ないのだ。
今、本が手元にないので、うろ覚えのまま思い出しながら書いてみよう。
  例えば;東方の或る国には、とてつもなく大きな蛇がいる。その国は一年中が夏である。蛇と言っても、只の蛇ではない。頭の大きさは牛の頭の10倍は有る。口は耳のはるか奥まで割けている。
  その口には人間の拳ほどの大きさの鋭い歯が無数に生えており、馬や羊、人間などは一飲みにしてしまう。蛇なのに胴体は短く、異常に太い。私は、丸木舟に乗ってその蛇を見に行ったが、胴の一番太いところは丸木舟よりもまだ太かった。
  体の半分位ある尻尾は太くてごつごつしており、この尻尾を素早く振って、そばに寄ってきた敵を一撃で倒す。彼の国の川縁では、そんな大蛇が水も見えぬほどに数多くうようよしている。

  さあ、どうだろう。これは実にいきいきとしたワニの描写だ。しかし、これをイタリアにいる蛇から始めた説明ではとんでも無い怪物となる。
  『一寸待て、一年中が夏の国だって?有るわけ無いだろうそんな国』『蛇っていうものは精々大きくても人の丈、太さは子供の足首程も有れば化け物だよ』『蛇が蛙を飲むのは見たことが有るが、犬や猫を飲み込んだという話は聞いたことがない、ましてや牛・馬だって?』。
  けだし尤もな疑問・質問だ。聞き手の脳裏には何時もその辺りで見掛ける蛇があり、これを塗り絵の枠の線画としてマルコの話を聞きながら色を塗っていくと、枠を何倍もはみ出して塗らねばならなくなるので何がなんだか分からなくなってしまうのだ。

  確かに、言葉とは人間同士が共通の理解を確かめ合う為の道具。ひと味違うものは説明できても、枠を大きくはみ出してしまう物は原理的に説明できないのだ。
  学生時代に、原子の構造を『原子核のまわりを、一個或いは複数の電子が猛烈な速さで回っている。余りにも速いので、確率でしか一瞬の位置を議論できない。まあ、原子核という梅干しを真ん中にして、電子という米粒が沢山あるお粥みたいなものだ』と説明されて口の中が酸っぱくなったのを思い出した。
  その時、先生の頭の中にどんな塗り絵が有ったのかは知る由もないが、これが言葉による想像・解釈の限界というものだろうか。

●問題・解答 -- 納得 -- 1995.5

  昨日、女房殿が『人類なんて大したこと無いのではないの?』と突然言い出した。人類も他の生物、例えば蛙もいずれも子孫を残すのが一番の大仕事・使命であり、その意味で大差無しだというのだ。
  この真理(休題。真理とは何だったかな?前に事実と真実を考えたとき真理の意味も考えたと思うが忘れてしまった)を女である彼女が言うと、底知れぬ迫力である。
  正しくその通り。人間、生まれては死んでいく。その間の長くても百年そこそこに何があるというのか? これこそ、古代からの宗教、哲学の究極の大命題だ。

  この命題の意味を雑気でも何回か取り上げてきたが、命題の周りをうろついただけで、本質をぐっさり突いた事は無かった。其れを女房殿が持ち出してきた。
  彼女は古今の大命題に今、将に行き当たったのか? その割にはあっけらかんとした言い方・あっけらかんにしては何とも云えぬ迫力であった。
  迫力の根拠をしばらく考えてみて突然ひらめいた。彼女は問題提起としてこれを口にしたのでは無く、解答として是を云ったのだ。まいった。これが『問題』ではなく『解答』だったとは。

  確かに、問題に対する解答そのものが新たな問題であることは多い。例えば、何故夕日は赤いのか? それは、夕方には日が傾き、その結果太陽からの光が目に見えないほど小さな塵の分厚い層を通ってくるから。
  では何故塵の分厚い層を通ると赤く見えるのか? なぜならば、光が塵に当たり、反射する度に弱められるが、弱くなる度合いは光の波長の長い赤い光ほど少なく、逆に光の波長の短い青い光ほど弱くなるので、元々白い光が赤く見えるようになるから。
ではでは何故に、赤い色の光は弱められないのか? といった具合だ。

  普通、課題はこの様にして掘り下げられ、噛み砕かれ、解決されていく。どの段階で解決されるかは、まさに、質問者がどの段階で『納得』するかにかかっている。
  どの様な説明で納得するのか、どの段階で納得するのかは千差万別・人それぞれであるが、何れにしろ、『納得』せぬ限り解答になっていないし、納得さえ出来れば、其れは立派な『解答』だ。
  自分が自分の体で経験したことは、頭で百回考えたことよりも納得しやすい。『人は何故生まれ、生き、そして死んでいくのか』と云う命題は、男にとってはまさに永遠の問題だが、女には直ぐさま答の出る簡単な(問題にもならぬ)事だったのかもしれない。

●ダビンチの苦悩  1995・6

  ダビンチはモナリザの作者、飛行機械の原型を考えた人として有名。彼は15世紀後半から16世紀初頭にかけてイタリア、主にミラノで活動。よすがとして軍事技術者、土木工事請負などをし、また宮廷画家として絵をかいていた。
  前に王選手は生まれた時代が違ったら只の腕力お兄さんだっただろうと云う事を書いた。時代が人を発掘する・造るという話だったが、ダビンチは生まれた時代は違ったがそれでも只の腕力お兄さんでは終わらなかった程凄い人。
ただ、生まれた時が違ったばかりに大変な苦労をし、ストレスの固まりになった。

  前々からダビンチには興味が有り、彼の書き残した手記を何回も読んだ。読む度に新しい発見があり、面白い。ただ、最近少し読み方が変わってきた。
  若い頃はなんだそんなことも分かっていなかったんだ・へーこんな風に考えていたのか・こんな事しか分かっていなかったんだという風に思いながら読んでいた。
  最近は、こんな事もわかり始めているじゃないか・惜しい!もう少し考えれば、もう少し関連分野が進歩していれば、もっと凄いのにと思いながら読むようになってきた。

  ダビンチの咲かせた花だけではなく、その茎、根、生えている地面まで少しは見られるようになったのかも知れない。彼の残したものを見ていると、15世紀まで1000年以上に渉って怒涛のように荒れ狂って、ヨーロッパを暗黒状態に陥れていたキリスト教会の作り上げた広大な荒れ地のところどころに、春の前ぶれのふきのとうのように、ぽつぽつと緑が見えるような温かい感じがするのだ。
  長くなりそうな書き出しなので、ひとまず中断。

キーワードメモ:
  藤子藤雄、エジソン、モナリザ・神にも出来ぬ事。
モナリザ・神にも出来ぬ事:ダビンチは何故、絵を夢中に成って書いたのか?絵は春と夏を一枚の中に同時に存在させる等、神にも出来ない不可能を可能にする手段。ダビンチは絵で神をも乗り越えようとしていたのではないか?

●待つ --時空に棲む--  1995.6

  メロンの季節になった。いつものイチゴ爺さんがメロン爺さんに変身して、その朝採ったのを積んでくるトラックから6個入りの段ボール箱をありったけ買い占めて、お世話になっている人達に送る、早めのお中元だ。
  案内文を書きながら気が付いた。『夏のご挨拶には少々早いですが、茨城特産のメロンは今が旬。… 地面で熟れたモノなので、着いら直ぐお召し上がりを』と云った文章だ。
  そういえば、以前はメロン等の果物の多くは産地からの運送方法が発達していなかったからか『暫く寝かせて』から食べるものだった。今食べたいのをじっと我慢して、熟すまで待ったのだ。

  待てよ、待つとは何か? 時間とは何か? 現在・過去・未来とは何か?数学的に考えてみると、現在とは過去から未来に向けて引かれた時間という一次元世界の一点。位置は有るが、拡がりを持たないものだ。
  別の任意の一点と区別されるほかは何の特殊性を持たない。この点は過去から未来方向に移動している。そうしてみると、未来とは現在(現時点)は現在では無いが、いずれ或る時間経過の後には必ず"現在"になるもの。
  この考えを進めると、未来は必ず定まっていると云う運命論に発展しそうな雲行きだが、どっこい物理現象だけを捉えてもこの世は3次元の距離と時間から成る4次元時空だから、そうは問屋が卸さない。

  話を戻そう。こうしてみると、待つとは、未来を見通し、それが未来の現時点では必ずこうなると予見し、それに至る迄の時間経過を制御、或いは放置するという事らしい。
  云ってみれば、未来の現在化だ。運命論と言うモノが慣性の法則の発見だとすれば、運動物体の(物理的)性質、環境、その他に依って定まる運動方程式を即座に解いてじっとメロンが熟すのを待つ。
  恐らくは単純な条件反射から始まったであろう生物の進化の過程で、人類は、いや生物はいかにして時間の観念を手に入れたのか。現在とは何か、過去とは何か、そして未来とは何か? 一度良く考えてみることにしよう。

付録:
  そういえば、前に何かの本で中世前期の航海者達が頼りになる地図を作るために、時刻と位置の関係を統括的に把握するのに苦労した過程を読んだのを思い出した。磁鉄鉱に毛の生えた程度に磁石、遠くまで何カ月も掛けて運んでも使える丈夫で精度のいい時計の無い時代の話だ。
  処で、イスラム教の経典は時間・位置の包括的観念が出来る前に出来ているので、信者はメッカの方向を割り出すのには随分と気を使うが、お祈りをする時刻は現地時間を平気で使っているようだ。
  これも面白い。上に書いたのとは別に、時空の観念とその実感についても考えてみよう。多分、日や月の出入りやを眼で確認して儀式を始めよという教えの文章(そのもの)が影響しているのだと思うのだが。

●父の日 -- 長女殿からのプレゼント -- 1995・6

  親の心、子知らずという言葉がある。今日・父の日、子の心を父の日のプレゼントで垣間見た。就職して給料を稼ぐようになった長女殿が呉れたのは、ゴルフ用のポロシャツ、モスグリーンの半袖。
  長女殿の中にある父親像はこんな感じなのか。娘から見た父という自分。じっと貰ったポロシャツを見つめながら、不思議な思いを味わった父の日。


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