《・・・やっぱり、貴方って馬鹿よ》


女の気配が消えた。


「あーあ。本命には中々振り向いてもらえないのな、俺って」

氷は残念そうに腕を下へ下ろす。
壁に背もたれしたまま、ズルズル落ちて畳の上に座り込んだ。

「さて。死んでないよな、あいつ等」

今更のようだが。


和也とコマは何者かによって支配された擬似空間で戦闘中のはず。
氷の意識が彼女へ向き擬似空間を維持していなかったからだ。
普通、空間を維持する者がいなければ二人は空間から放り出される。


「二人が戻ってきてないしなぁ。それに、昔の顔馴染み『其のニ』の気配も感じるってことは」


おそらく『其のニ』に支配権を奪われた空間。
ひとまず二人を救出しよう。
色々、気になることは山盛りだが今は人命尊重。

「解除!」


パンパン!


拍手二回。


ぱっくりと開いた大きな生物の口、らしき場所から吐き出される和也とコマ。


「あううう・・・」

和也は呂律の回らない言葉を発しグッタリと横たわり、

『卑怯者〜』

片やコマはグルグル唸りながら・・・やはりグッタリ横たわっていた。
それぞれのコメント(?)を発する弟子とその相方。


氷は素早く二人の状態を確かめる。
多少の外傷はあるが、致命傷は負っていない。
放置しても平気だろう。この間の思考時間0.3秒。


「部屋汚いけど、眩暈が治まるまでゆっくり休んでおけよ?」

マンションから高速で離脱する気配が一つ。
氷が術を解除したと同時に飛び出したもの。

「俺は外に出かけるから、戻ってくるまでここから動くな」

果たして和也に聞こえているか不明だが、釘は一応刺しておくに限る。
氷は言い捨ててベランダに出た。

真下の道路を見下ろす。
それらしき人影はない。
上を見れば、マンションとなりの雑居ビルの屋上を駆け抜ける小さい影。
氷はベランダから反射的に飛び出した。


極力気配を殺し最小限の風の力で影を追う。
人目に付かないための防護策である。

「自分の目で確かめないとな〜」

苦労の耐えない師匠。
和也に近づく存在の出所をついつい確かめてしまう。

害がなければそれでよし。
害があるなら少しばかりの圧力を。
利害関係で動いてしまう大人の性分。


「あーあ。俺もしっかり大人だよ」

普段の外見が子供な分、染み付いた性悪の大人の部分が疎ましい。
駆け引きにギブ&テイクの冷めた連帯感。
奇麗事ばかり並べていられない、弱者が淘汰される世界。
頭を振り目の前の小さな影を追う。


気持ちを切り替え意識を現実に戻す。
感傷に浸っているわけにはいかない。


追跡すること数分。


少年はビル密集地帯から馬車道通りへまっしぐら。
大通りに出てさらにどこかに向かう進路をとっているようだ。

「そこの不審な少年!」

見も蓋もない呼びかけだが、取り敢えず声をかけた。
このまま追いかけ続けても埒が明かない。
確かめたいのは彼の素性。

潜伏場所じゃない。


「聞こえてるか?」

少年が止まるそぶりはない。
ひたすら雑居ビルや、マンション等の上を飛んでいる。
氷も仕方なく追いかけ続けた。


ちらりと顔だけ振り向いた少年が露骨に顔を歪める。
氷の出現を快く思っていないようだ。
少年の速度が一気に加速する。

「逃がさないって」

わざと少年に聞こえるよう、氷は大きめの声で呟く。


オレンジ色が薄まる夕闇。
様々な高さのビル群の屋上を二つの陰が駆け抜ける。
この夕刻に、のんびり空を見上げるのが子供くらいだというのがせめてもの救い。
眼下の大通りを通行する人々が二人に気がつく様子はない。


少年は関内駅へ逃げている。
人に紛れ、プラットホームへ逃げられてしまえば捕まえるのは困難だ。

人目についてしまう。


「素人相手に攻撃するのは大人気ない。だけど、不審な輩を見過ごせるほど子供でもないぞ〜」

最終警告。
氷は少年の小さな背に警告を放った瞬間、仕掛けた。


数枚の呪符を取り出し空間を閉鎖。
少年が白銀を煌かせ、氷の呪符に切りかかる。
暗くてよく見えなかったが、年は武器を持っているようだ。
呪符は見事に真っ二つ。
空間が不安定な状態に陥り、空気が揺れる。


顔を見せない少年が小さく笑った気配がした。


空間から抜け出し少年は馬車道に出た。
そこからひたすら駅目指し逃げる。
駅近くの自転車置き場上空をジャンプ。
プラットホームの屋根に着地。

「お見事、といいたいけど。ゲームオーバーだ」

少年が追跡者の姿を探し、キョロキョロしている所に氷が背後から忍び寄った。

驚いて身体をビクリと震わせる少年。


「お前の背中に、俺の呪符が張り付いてる。さっき付けたやつだ。この意味、分かるな?」

肩を落とし不審少年はゆっくりと振り返った。

「やっぱ無理か。アンタ相手じゃ、俺、逃げきれねぇーな」

切れ切れに告げられるか擦れ声。

暗闇の中目を凝らせば、少年は野球帽を目深に被っている。
帽子の影で表情の読みにくい少年は両腕を挙げ降参のポーズをとった。


「俺は誰の味方でも敵でもない。俺自身の為に動いているだけだ」

走りづめだったせいで少年の呼吸は荒い。
深呼吸してから少年がこともなげに答えた。

「・・・本心みたいだな」

両腰に手をあて氷は大きく息を吐き出した。


少年の言葉に偽りはない。
瞳をみれば大概分かる。
長年の経験からいっても、間違いはなさそうだ。

氷は確信した。


「本当に邪魔するつもりはないんだけどさ〜。俺の都合とかあって、紛らわしい感じすると思うんだよね。あ、でも俺は平和主義だから」

火照った顔を、手のひらで扇いで少年は話を続けた。


プラットホームに滑り込んだ列車が発車する。
レールの上を走る騒音に、話し合いは少しばかり中断。
列車が見えなくなってから氷は口を開いた。

「紛らわしい、か。お前の都合がどうあれ、不肖の弟子が世話になった。感謝する」

氷は軽く頭を下げた。


生暖かい蒸した熱風が二人の間を通り抜ける。
むせ返るような熱帯夜に見舞われた横浜の夜は、不可思議な狂気を孕んでいた。


「それから。お前の言い分を信頼しよう」

真っ直ぐにその瞳を射抜き言い放つ。
氷の言葉に少年の表情が和らいだ。
一瞬だけ、少年は歳相応の子供らしい安堵した微笑を浮かべる。

「もし利害がぶつかるなら。アンタは遠慮なく俺を葬ればいい」

すぐに少年の顔つきが変わった。
他者を受け入れない冷徹な仮面を被る。


少年がもつ、精神の微妙な均衡に気がつくが氷は顔には出さない。
彼はれっきとした人間で妖撃者でもない。
少年から退魔の力の片鱗は感じるものの、氷が術で詳しく探るのは難しい。
相手に悟られてしまうだろう。


「ずいぶんと大きくでるもんだな?」

さも驚いた風に氷が少年に告げる。


相手が戦いを望まない以上、会話によって相手を探るのが一番妥当だ。
しかも相手は『こちらの不利益になるなら、自分を殺せ』と公言している。
嘘を見抜く子供相手だからこそ、中途半端にあしらうことができない。


「アンタと違って、俺は子供だからな」


だから考え無しに無茶ができるんだよ。

言外に含みを持たせ、少年は不遜な態度で薄笑いを浮かべた。


(ヤレヤレ。俺の周りのお子様は、熱いのばっかだな)


意外な切り口で返された皮肉。
暑いさなかの全力疾走に、まだ、心臓は落ち着かない。
ドクドク波打つ。
再度、大きく息を吐きだし氷はニコリと笑った。

「同感だな。だが覚えておけよ?大人だって考えなしだ、子供が思っているほど冷静じゃないさ」

少年はあからさまにムッとして眉間に皺を寄せる。
自分の挑発に乗ろうとしない氷に不信感を抱いたのだ。
警戒の色を濃くした表情で、氷の顔色を窺がう。

「喰えないな・・・アンタ」

実感の篭った少年の感想。

「褒め言葉として受け取っておこう」

いつぞや、弟子が呟いた言葉と見事に同じだ。
苦笑を禁じえずについつい氷の口許が緩む。

「今日は帰る。なんか・・・俺の方が分が悪そうだし」

決まり悪そうに少年は帽子の上から自分の頭を撫でた。
所在なさげな少年の動作。

「そうか」

身を翻しもと来たルートを戻りだす氷。
軽々と飛翔して手近なビルの屋上に飛び移る。
人目を気にするそぶりが無いのは気配を消して行動する自信の現われ。
大胆というか不敵というか。


少年の背に張り付いた呪符が剥がれ、足元に落ちる。
屋根に落ちるか落ちないかの高さでそれは燃え上がり、跡形もなく消えた。

「た、助かった・・・」

心底安堵して少年は屋根の上に座り込む。
眠っていた数羽の鳩が、少年が座り込んだ振動に驚いて飛び立つ。


自分を詰問するつもりもなければ、深追いする気もないらしい。
余裕を見せているわけではない。
単に彼の信条を信用しただけだ。


邪魔をするつもりはない。どちらの味方でもない。


言い切った瞬間の己の瞳に宿った強い光を。
ただそれだけを信用しただけ。
礼を述べたことも考えると、弟子を助けてもらった負い目もありそうだ。


今回、は。


大人しく身を引く。次からは互いの都合で動けばいい。


氷なりの、忠告を込めた行動である。
聡い少年にはわかりやすいだろうが。

「はぁ〜。こわっ」

 自身の身体を抱きしめ少年は背中を見送る。
変に殺気立たれるよりかは遥かに圧力を感じる。
巨大なプレッシャーをかけてきた氷。

「マジ敵にしたくないって。俺としちゃーさ」

鼻の頭を擦り、少年は見えなくなった氷へ向け深々とお辞儀。
姿を闇の中へ溶け込ませる。先ほど宣言したとおり帰路に着いたのだ。


ホームには家路を急ぐ人々がごった返していたものの、氷と少年の姿に気がつく者はいなかった。

 

氷は振り返らず、足早に夜の空間を通り過ぎる。

 

夜に相応しく、ネオンが瞬く路地裏。
すっかり暗くなった空から路地裏へ落下。
誰にも見咎められず、悠々と大きめの通りへ抜ける。
仕事帰りのスーツ姿が途切れる事無く駅へ流れていく。
そんな大人の群れに逆らい、氷はマンションの方へ歩を進めた。


夏の夜。


熱気に誘われた若者たちの歓声が何処からか響く。
やや離れた場所から、ロケット花火が打ち上げられたポンという音が聞こえた。

「・・・帽子小僧に、三妖姫に、弟子。俺一人で面倒見させようってのは、酷だと思って欲しいね」

昼間に熱せられた道路のコンクリートが熱を放射。
夜だというのに湿度も高く、不快指数は上がるばかり。


外気に煽られて体温が上がる。
額や首筋・背中に汗を掻き掻き、苦労症のお師匠は空を見上げた。
夏の夜空は少し濁り気味で星の瞬きも冴えない。
蝉が夜でも鳴いていたりして結構五月蝿い。
温度が高いと鳴いていたりするのだ。


「大人も楽じゃねーんだけどな。子供が思うほど」

疲弊しきった二人の世話もある。今晩はまだまだ忙しい。

「あー、しんど」

首を左右に振る。

関節が軋んでポキポキ音が鳴った。
日本の夏は高温多湿。過ごしにくさはピカ一で。
夏の暑さに寄る年波を感じずにはいられない、氷のある一日であった。

 

一応大人もフォローしてるんですよ〜って部分を。
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