其の三

 

横浜の夏は暑い。

多湿な日本の気候に加え、ヒートアイランド現象で熱せられた熱波が都市部を襲う。
関内も多分に漏れずコンクリートで暑くなった空気が牙をむいていた。


発売当時は『最新鋭のセキュリティー』が売りであった中古マンション。
和也がコマと共に暮らす最上階。
お隣の部屋に。


和也の師匠、氷が自室で冊子を広げていた。
Tシャツに短パンの軽装姿。
何時ぞや和也を迎えにいったときの大人姿、ではなく、現在は中学生くらいの容姿を取っている。

「火山の幻覚ね〜。夏らしく、暑いので頑張ってもらおうか」

自室は畳の部屋。
フローリングの洋室や居間等がある3LDK。
一人暮らしには贅沢なつくりだ。

だが、弟子のおかれた立場を慮って。

氷は新横浜のワンルームマンションから関内へと引っ越してきた。


引っ越してから三ヶ月。
なんとか部屋を片付け和也を思う存分扱ける環境を整えた。


怠け癖のある弟子とその相棒を送り出した後。


氷は自室で幻術をコントロールしていた。
己の作り出した空間に二人が到達したのを確認。
早速、過去のデータに基づく戦闘パターンを作り出す。


冊子のページをめくりあるページで指を止める。


戦った状況。
戦闘場所の詳細な説明。
実際に仕事をした妖撃者の行動及び、使用術一覧が表になったものだ。


「・・・今回はコレか」

出現した妖の欄を指で弾き、氷は首を左右に振る。
首の骨がポキポキ鳴った。

座禅を組んで両目を閉じる。

手を組み印を形成。
氷は精神を集中し和也とコマが立つ場に妖の幻影を送り込んだ。


氷の支配する擬似空間で和也とコマが戦闘を開始する。

「?」

全身で感じる。
体中の肌がピリピリした気配を捉えた。
氷の部屋が瞬時に水で溢れかえる。


ごぽっ。


水攻めに、氷は慌てて口を噤んだ。


部屋にある本棚やクッション・机・ライト等が水中に浮かぶ。
無残に水でふやけ千切れた冊子を手放し嘆息。


(おいおい。私物が水浸しなんて洒落にならないってーの)


水に気を取られた隙に、擬似空間の支配が別の存在に取って代わられたことを確認。
苦々しい気分で水中を見つめる。


《出来ることなら・・・》


か細い女の声。


《出来ることなら。二度と》


呼応するように水が振動し水中のものを切り刻む。
本棚は真っ二つ。
冊子と同じく千切れるハードカバーの本。
クッションも綿を放出し、弾け飛ぶ。


(・・・。遅かれ早かれだな)


敵の意図。
目星はついている。
向こうがその気である以上、戦いを避けることは出来ない。


氷は目を閉じ愛用品の敵をとるべく反撃を開始した。


水中に無数の泡が出来上がる。
氷を中心として大小形様々の泡が水を押しのける。
額に意識を集中し詠唱無しで術を展開。


氷の身体から赤い光が放出される。
氷を覆うように瞬く光は水に触れ合ったとたん水分を蒸発した。
想像を凌駕する熱量。
氷がその身に宿した炎の力が、部屋一杯に溢れた水を水蒸気へ気化させた。


数分もしないうちに部屋の水分は蒸発。
氷は更に部屋まで乾燥した。

「はー。水滴りすぎだ」

自分は乾かせず、濡れ鼠。
気が滅入るが交渉が先だ。

「俺はな。正直言えば、あんた達と戦う理由なんかねーんだ。前世の因縁とか持ち出されたら別だけど」

女の気配が身近にあるのを感じ氷は口を開いた。

「って。三年前までは思ってた」

部屋の壁に寄りかかり氷は自嘲気味に笑う。
部屋に響く空調器具の作動音。微かなモータ音すら聞き取れる静寂。

「あいつ。どういういきさつかは知らないが、望みをかなえたんだな。すごく楽しそうだ。やっと手に入れた場所で、心底楽しそうなんだ」

氷の目線の先にはふやけきった先ほどの冊子。
『妖撃者育成マニュアル』の歪んだ文字が視界に入る。

「だから、悪い。今は譲れない。俺自身の信条に懸けて、身を引くことはできない」


《それは・・・》


女はどこか怯えた風に声を発する。

「知ってるさ。あんた達も同じだ。引けるわけがない、元々の権利はそっちにあるからな」

氷の頬を痛みが掠める。
強力な水圧で押し出された小さな水滴が、氷の頬に傷をつけた。


《あの子は物じゃないわ。そんな言い方やめて》


憤った様子の女の口調に氷は目を細める。
見えない相手をいとおしむ様に瞳が優しく揺らいだ。

「失礼、失言だ。

ただ・・・。あいつなら、きちんと自分で決めると思うぜ。自分自身の道を。外野がどうこう騒いで惑わしちゃいけないな。あいつの身の振り方を」

氷は頬の傷を指先でなぞる。
皮膚一枚切られたそこからは、かすかに血が滲んでいた。
指先に赤い血がつく。

「あいつが決めるまでは、俺がビシビシ鍛えてやりたい。けれど、お前になら俺を殺す権利がある。いや・・・違うな」

柔らかく氷は微笑んだ。

「俺はお前を傷つけることなんか出来ない。俺にとって只一人の女だから。望むなら俺の全てをおまえに捧げよう」

指先の血をペロリと舐め氷は真っ直ぐに正面を見詰めた。
女が息を飲む。

「あれは、まだ有効だろ?」

氷は左手を前にさし伸ばす。
水滴が伸ばした指先に零れ落ちた。

姿を見せない彼女の涙だ。


「俺って泣かせることしかできないのな。本当は・・・だけど」

涙つきの指を唇に押し当てる。


《あの御方の意志は絶対だわ》


幾分固い口調で女が言葉を発した。

「昔からそーだったな」


《貴方といえども勝ち目はない》


「うーん。五分五分?」

氷は肩をすくめる。


《わたしは・・・わたしには選べない》


女の悲鳴。


「追い詰めるつもりはない、待って欲しいだけだ。あいつが道を選ぶまで。そうしたら俺は用済みだから死んでも問題ないだろ」


《簡単に言わないで》


「ああ。簡単に命を捨てるなんて言うもんじゃないな。しかし、忘れないでくれよ?お前を救うために使えるなら、俺は命でも使う」

氷の本気に女は黙るしかない。

「悪い、悪い。ついつい熱くなる。俺の悪い癖だな」

指先でこめかみを押さえ氷は深呼吸を数回。
先走る感情を落ち着かせる。

「なあ?どんなに願っても『あの時』は戻ってこない。戻せやしない。あいつの小さな幸せを壊して、手に入れるほどの価値があるのか?」


《あの御方が仰るのなら・・・価値があるわ。かけがえのない存在だから、取り戻したいと願うの。その想いはわたしにも分かるから》


囁く女の声を氷は黙って聞く。


内心、面白くはない。
アレが時効でないのなら彼女は自分の嫁だ。
最も大切に思う女が他人の心配ばかりするのは気に入らない。
焼もちまではやかないけれど、せめて目の前の自分に集中して欲しいと思う。


《このままいけば、貴方と利害がぶつかる。敵同士になってしまう。正直怖い。だって・・・》


表情を変えず拗ねる氷を他所に女は懸命に氷を説得する。
問答無用の攻撃を仕掛けてきた割に彼女は温和だ。
言葉の端端に相手を思いやる優しさが滲んでいる。


《だって、貴方は自分の命よりも、わたしを優先するんだもの》


「俺の中では当然だぜ?俺が護りたいのはお前。付属があいつ」


《茶化さないで》


他人事のように笑う氷に女の声が尖る。
氷が何処までも気楽なので苛立ちを隠せない。

「嬉しいから、さ。こうして話しなんて、できないと思ってた。死にそうなほど幸せで舞い上がってる」


ポタッ。


氷の瞼に水滴が零れる。

「ごめんな。俺はお前に笑顔をあげたいのに、泣かしてばりかだ」

見えない誰かを抱きしめるように腕を持ち上げる氷。

彼の芝居がかった仕草に、
《・・・馬鹿》

と、女の小さな、嗚咽交じりの声が突っ込みを入れた。

「あー。頭は悪いかもな。考え無しで無茶するのは、ちょっと前まで俺の専売特許だったし。まぁ、最近は不肖の弟子にその特許を譲ったけど」


《・・・どうしても、引いてはくれないのね》


女は考え込むように少し沈黙したが、落ち着きを取り戻した調子で話を本来のものに戻した。

「ああ。俺には護るべきモノがある。それはお前といえど譲れない」


《でも、わたしの為には死んでもいいのね》


「俺の命はお前のものだ。惜しかねーよ」


《わたしは決められない》


「いざとなれば決断できるさ、惑わす真似はしないよ」


《貴方は残酷だわ。自分では何一つ選ばない》


「選んでるぜ?お前を」


《わたしはあの御方に忠誠を誓っているの。裏切れないわ》


「裏切らなければいい。信じた道を走れ。俺を殺すことになっても」

ああ言えば、こう言う。
埒があかない会話が続く。


《・・・やっぱり、貴方って馬鹿よ》


女の気配が消えた。


うわ〜!!ラブコメ(恥っ!)しかも一昔前のような調子だし(涙)
妖撃者目次へ 次へ