其の七

 


バシンッ。


氷の頬に炸裂した見事な平手打ち。

俗に言う『男と女の修羅場』を前にして、犬の姿のままコマは和也の部屋のドアの後ろに隠れていた。

「最低ね」

眦を吊り上げその人はもう一度手を振り上げる。

「ああ、最低だな」

頬に手型の後を残し氷は極上の笑顔で応じた。
運悪く目撃したコマが、思わず『初代様はその気があるのか!?』と真剣に悩む位にである。

その人は顔を赤くして振り上げた手を下ろした。

「わたしは『わたしのやり方』で和也君を助けるわ。もう貴方なんかに頼らない」

目じりに浮かぶ涙を零さないように指で掬い、胡蝶は目の前のだらけた男をもう一度睨んだ。

『あれ?』

驚愕したコマは思わず口を開いてしまう。

幸い、修羅場中の男女にコマの呟きが聞こえるはずも無く、事なきを得ているのだが。

 

明石 胡蝶。

 

和也の通う海央の教師。
和也のクラスの担任の先生で、和也も美人だと褒めていた和風美人。
その彼女が何の脈絡も無く和也の家に押しかけ。
あまつさえ氷と面識があり彼を『最低』呼ばわりした挙句に、ビンタ。


二人の間を流れる空気からも、二人は旧知の間柄といって問題はないだろう。
氷も彼女を明石 胡蝶として認識しているようだから。


「なんか胡蝶は勘違いしてない?」

親の敵のように、氷を睨み続ける胡蝶に氷は至極真面目な顔で問い返す。

「勘違い?」

地を這うような低い声音で胡蝶は疑問系で氷に言葉を返した。

「勘違い?冗談じゃないわ。和也君が自分から希蝶達と一緒に言ったと思うの?自分の前世の記憶に苛まれ、自分を見失った和也君を言葉巧みに連れ出しただけじゃない」


火に油。


怒り爆発で感情も顕に氷へ怒鳴りつける胡蝶の姿。
妖撃者でもない彼女が、対先ほど起きた誘拐劇の内容まで知っていようとは尋常じゃない。コマは耳をピンと立てて二人の声を注意深く拾い上げる。

「アイツは××××じゃない。影を重ねて見てるんなら、手を引いてくれ」

胡蝶の両肩をそっと掴んで氷は静かに告げた。
見開かれる胡蝶の瞳。
気まずい沈黙が二人を包む。

「分からないもの!ええ、わたしになんか分からないでしょうね」

自棄を起こして胡蝶は自嘲的に言った。

「どうせわたしは人じゃない。どんなに仕草や言葉を真似ても。気持ちを傾けても。どんなに頑張ったって・・・人にはなれないもの!!」

瞬間。

胡蝶の身体は氷の腕の中。

「頼むから・・・頼むから、さ。そんな言い方はするな。たとえ胡蝶が猫になったとしても俺は胡蝶を好きになる。俺の唯一と決めた女(ひと)だから」

目の前で繰り広げられる愛の劇場。

憂うべきは和也の行方なのだがコマは固唾をのんでコトの成り行きを見守る。
卑怯にもドアの影から。

「ドラマの見すぎよっ!」


 ゴッ。


鈍い音がする。
身体を震わせ蹲る氷と、氷から離れファイティングポーズをとる胡蝶。

「そうやって甘い言葉を囁けば、わたしが納得すると思ってるの?伊達に貴方の幼馴染をやっていたわけじゃないわ」

十数年のブランクさえ除けば、この二人。
実は接点がある。


氷の常套手段など見抜いている胡蝶は鼻を鳴らして憤慨した。


「・・・やっぱ、駄目か」

鳩尾に拳を打ち込まれた氷は弱々しく呟く。
心なしか悲しそうで背中には哀愁が漂っている。

「もう知らないわ。こんな風に貴方とふざけている暇は無いの」

煮え切らない態度の氷に業を煮やし、胡蝶は部屋から出て行ってしまった。


 バタンッッ。


まずは居間へと続くドアが乱暴に閉められる。


 ガタンッ。


次に玄関の扉が八つ当たりの対象となって悲鳴を上げる。
女性の細腕であそこまで力強く扉を閉められるものかと、コマが驚くくらいに。

 

三流のドラマのような一場面・汗。あはははは・・・。笑って誤魔化せ!
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