額が冷たい。
背筋に走る寒気と手足に篭る熱。
風邪を引いたみたいに気だるい身体。
「ううううう〜」
渇ききった喉がヒリヒリして痛い。
和也は乾いた唇を舌で舐め、口を大きく開けて呼吸を繰り返す。
鼻が詰まって鼻での呼吸が困難な為だ。
「大丈夫か?」
あまり心配してくれていない調子の、氷。
「大丈夫じゃない」
和也の焦点の定まらない瞳がやっと映像を結ぶ。
自宅の見慣れた居間の天井が視界に入り、和也はのどの痛みを無視して言葉を繋ぐ。
居間のソファーに寝かされた和也のお腹に、タオルケットがかかっていた。
「蜂蜜花梨湯です」
独特のクセのある花梨の匂いと、蜂蜜の甘い香り。
氷が無言でクッションを和也の背中に押し込み、和也の上半身を起こす。
人型姿のコマがマグカップをしっかり和也の両手に持たせた。
「あう〜」
ガラガラ声のまま呻き、和也はマグカップの液体を口に含んだ。
強い渋みのある花梨の味は正直嫌いだが『良薬口苦し』。
コマは全てを飲み干すまで許してくれそうにもない。
現に和也の目の前で両手を腰に当ててじっと観察している。
「和也様、夏風邪でしょうか?」
気だるげにマグカップの蜂蜜花梨湯をチビチビ飲む覇気のない和也。
一頻り主を観察したコマが氷に言った。
「風邪? コマが体調管理してんのに、そりゃないだろ。知恵熱ではないだろーしな。一晩様子を見て判断したほうがいい」
氷はあくまでも、さして和也を心配していない態度を変えない。
無論それは態度の上だけであってコマに向ける目線は剣呑。
なにかを警戒するように鋭い光を帯びている。
「特別に今日は訓練無しだ。兎に角食べて寝て、体調を元に戻せ」
反応の薄い和也の髪をグシャグシャに崩し、氷は居間を出て行く。
『要注意だ』
去り際、コマに目線で注意を促すことを忘れずに……。
バタン。
数十秒後に聞こえた玄関が閉まる音で、氷が去ったことを和也は理解した。
マグカップの液体は後三分の一ほど。
コマが見守る中、根性で一気。
「コマ、飲んだ」
身体はフワフワした感覚がしてどこか落ち着かない。
幾分、舌っ足らずな口調で和也は告げてコマにマグカップを返した。
「食事にしますか? それとも、もう少し寝ますか?」
額に触れるコマの、やや冷たい手のひらの感触が快い。
和也はうっとりとした表情を浮かべ目を閉じた。
「ん〜、少し寝る。お腹空いてるような気もするけど……眠い」
大欠伸をしたら、喉の筋肉が大きく広がり(欠伸中なので当然だが)痛かった。
全身を襲う倦怠感を頭の隅に追いやり、眠気だけに意識を集中。
変なところで器用さを発揮する和也は眠りの中へ落ちていった。
ダルイ? というより、動けてない???
勢いで目を見開いたものの身体は動かない。
和也は焦って全身に力を込めた。……つもりだった。
《人の心は移ろい易く、また脆くて儚いもの。
だからこそ、その『個』が体感する一生は何事にも代えがたい》
ピクリとも動かない肢体。
頭に直接入り込む、少女と少年の二重の声。
誰なんだ?
《全ての始まりと終わりを見続ける者》
目をギョロギョロ動かしても見えるのは真っ暗闇。
光すら包み込んでしまいそうな闇。にも拘らず心強い安心感を覚える。
《遠い昔。汝の願いを聞き届け、輪廻の輪を巡らした者。
尤も汝にはサッパリわからないだろう》
ええ、ええ。分かりませんとも!
ってゆーか、身に覚えもないし。
和也は半ば自暴自棄に悪態をついた。
《思い出さずともよい。しかし汝の身内が騒いでならぬ。
在りし日の汝を取り戻そうと足掻きおる》
は?
《汝が常々己に問うておろう? 自己存在の意義を。
答えは全て汝の内に存在するが、知りたいか?》
……。
《真実が常に正しいとは限らぬ。常に甘美とも限らぬ。選択権は汝にある》
つまり、アンタは僕の秘密を知っている。
知りたければ教えるけど、その答えが僕に都合がいいかどうかは限らない。
だから、どうするって僕に意思確認してるわけ?
否》
え!? 教えてくれないの〜??
《元々汝が勝手にこちら側に入り込んだだけ。これは忠告》
一気に視界が広がる。
漆黒の闇を押し退け暖かな黄金色の光が空間を塗りつぶす。
和也の目前に輝く空間が飛び込んだ。
様々な色を持つ球体がひしめき、とても暖かで母親の胎内に居るような気分に陥る淡い金色の霞が漂う不思議な場所。
無宗教な和也にさえ荘厳と感じさせる空間が広がっていた。
《勝手に魂魄をこちら側に飛ばし、且、意識を保ったまま存在する汝が異なる存在。
早く帰るがいい》
……うわ。ついに幽体離脱だよ、これって臨死体験???
《仕事に私情は挟まぬ主義ゆえ、恨んではならぬぞ》
私情って……仕事って……??
《綻び始めた自身の記憶。最後に線を引くのは己自身じゃ》
この声を最後に落下する感覚を覚える和也の身体。
「和也様っ!」
和也の鼓膜を引き裂かんばかりの大音響。
声に反応して、和也の身体が無意識に何度か痙攣した。
「ほえ?」
目を覚まして天井を眺めれば、やっぱりそれは自分の家の天井で。
「完全に脈拍まで止めて、何処へいってたんですかぁ〜っ!!」
完全に血の気の引いた和也の手を握り締めたコマが、泣き崩れる。
「ちょっと、あの世の一歩手前みたいなトコ……かな」
冗談抜きで。
危くあの世へ行くところであった和也には、こう答えるのが精一杯だった。
「コマの何処が不満なんですか」
和也は、まるで浮気現場を押さえられた二股の男のような心境を味わい……。
詰め寄るコマの迫力に、日が沈むまで懸命に弁解させられ続けたのである。