其の五



ジリジリジリ……。


けたたましく鳴り響く目覚まし時計。
和也はあの機械の音が苦手で、常々、別の目覚ましにしようか真剣に悩む。

ジリジリジリジリジリ……。

完全にスイッチを止めなければ、再度鳴り響く優れものの目覚まし時計。
布団の中から手だけを出して、畳の上を目覚しさがして彷徨う。

ジリジリジリジリジリジリ。

「あー。うっせーぞ」

ガチン。
苛苛した氷の声と共に和也の目覚まし時計は止まった。

「起きろよっ、ねぼすけ」
布団を引き剥がされて和也は目を細める。
部屋の雨戸は全開で、夏の太陽が強い日差しを送り込む。
正直眩しい。中学生姿の氷が逆光を浴びて黒く見えた。
「師匠〜、あと、五分……」
鳴り止んだ時計を見る。

ただ今の時刻、朝の六時。

「ラジオ体操に遅刻するぞ」
お決まりの文句を口にする和也に、氷はラジオ体操のカードをちらつかせる。
和也は寝惚けた顔のまま露骨に嫌な顔をした。
「めんどくさーい。暑いし、日に焼けるし」
和也は布団の上で丸まり、うだうだ呟く。
「面倒なのと、暑いのは分かる。日焼けなんか、男の和也が気にしてもなぁ?」
弟子の不可解な言い訳に氷は首をひねる。
「駄目ですよ、初代様! 若いうちから日焼けを予防して、美しい肌を保つ。常識です」
フルーツジュース片手にコマが熱弁を振るう。
朝食の準備をしていた彼女は人の姿をとっていた。

思わず噴き出しそうになった氷は、口許を震わせたところで踏みとどまる。

「将来の『いい男』になるべく、小さい努力からコツコツと積み重ねて! 頑張りましょうね、和也様」
コマがお手製のフルーツジュースのグラスを、起き上がらない和也に突きつけた。
氷としては乾いた笑いを浮かべるしかない。
「ビタミン豊富なフレッシュジュースです」
笑顔のコマ。
「はーい」
冴えない顔の和也がノロノロと起き上がりグラスを受け取る。
「どうかしましたか?」
和也は夜型。
朝の寝起きはすこぶる悪い。今も無意識にグラスの中身を飲み下している。
だがいつもと違う様子がして、コマは尋ねた。
「……んー? なんか、変な夢見てた……気がする」
寝癖炸裂の髪を左右に振り和也はゆっくり喋った。
「夢見が悪い……」
和也は大欠伸を一つ。
唇についたジュースを舌で舐めとり、グラスをコマへ渡した。
「ほら、小学生のうちはラジオ体操が必須なんですから。顔を洗って、歯を磨いてきてください」
コマに腕を掴まれて、部屋から連れ出された。
居間を通り過ぎ風呂場へ。洗濯機横の洗面台。
棚から取り出したタオルを持たされ洗面台に押しやられる。

いつもの朝の風景だ。

「ふぅー」
蛇口を捻り水を出す。
コマが用意した洗顔専用のオリーブオイル石鹸(高級品)を手に、泡立て開始。

バシャバシャ水をはね散らかし、顔を湿らせてから丁寧に洗顔。
洗顔ごときにここまで拘る理由は分からないが、コマの自分に対する思い入れを無視できない。
コマに教わったとおりに指先で丁寧に顔をマッサージ。


目の奥。フラッシュバックが巻き起こる。



見渡す限りの緑の森。
素足に当たる下草の柔らかい感触と、胸いっぱいに広がる緑の香り。
巨木は連なって生い茂り、空を覆い隠すように緑の葉を伸ばす。

「大丈夫?」
美しい青い瞳。透けるような白い肌。
着物のような蒼い衣装を身につけた、二十代前半くらいの美女がしゃがみ込んだ。

心配そうに瞳を曇らせる。

「ああ……」
彼女の目の前の青年は、傷む肩を押さえたまま小さな声で答える。
華奢な肩は無残に抉られ、とめどなく真っ赤な血液が流れ落ちていた。

青年は二十五歳前後。
濃紺の浴衣のような衣装で長い銀色の髪が背中で揺れる。

「それにしても、キヨイの奴! 手加減無しね」
少し先の、ちゃぶ台ほどの切り株に立つ幼い少女は言い捨てた。
幼い少女の萌黄色の衣装が風に揺れる。
「ううん。違うんだよ、華蝶。キヨイは手加減してくれた」
萌黄色の衣の裾。
泥に汚れた裾を睨んでから、少女は……華蝶は呆れた顔で青年を見据える。
青年はばつが悪そうに俯いた。

「ちょっと××××?
さっきの接触で、部下は全滅だし、庵は焼かれたし、キヨイには切り殺されそうになるし。それが手加減!?」
「だって。この前の接触で、キヨイのお姉さんを殺したのはボク達だよ?」
青年は力無く肩を落とした。

「はぁ? エンを殺したからって、なんなのよ?
敵同士なのに、相手に情けをかけてどうするわけ? ××××はお人よしなんだから」
華蝶は眦を吊り上げ、怒りに燃える顔で青年に詰め寄る。

「言いすぎよ、華蝶。エンの死は、キヨイを追い込むのに十分な効果を生んだわ。
カナタを失い、次はエン」
蒼い衣の美女が青年の肩に布を当てた。
手馴れた手つきで青年の傷口を縛り上げる。

「あとはフウ? よね。でもさ〜、なんでキヨイを残すの? ××××は知ってる?」
華蝶は鬱陶しそうに、額当ての布を外した。

「兄上はキヨイが一番幼いからだって。確か……まだ九つだよね、彼」
兄の言葉を思い出し、青年が美女を見上げる。

「ええ。あの兄弟のなかで一番年下。兄姉がまず躊躇わずに護るであろう存在。
キヨイは護られることに耐えられないでしょうね。自滅するのがオチよ」
美女は淡々とした口調で説明した。

「ふーん。一応戦略ってゆーのはあるんだね。ウチにも」
感慨深くも無く。華蝶は形だけ感心したように感想を言う。

風に乗って舞い降りる緑の葉が、とても綺麗だった。



激しく身体を揺すられて、身体を痙攣させる。
「和也様! なにやってるんですか?」
「え……?」
我に返る。自分を心配そうに見ているコマと流れっぱなしの水。
泡まみれの手。
洗面台の上についた鏡には、鼻の頭に泡をつけた自分の姿が映っていた。
「洗面台の前で二度寝なんか危険ですよ?」
コマは苦笑して濡れタオルで和也の顔を拭く。
「あ……うん」
生返事を反し、鏡の中の自分を見る。
いつもの見慣れた母親譲りのやや女顔。
髪の色も目の色も、特に変わった様子はない。

「?」

幻というには鮮明すぎる。
頭の中に眠っていた何かが、いや、魂の奥底に秘められていた『想い』が溢れ出した様な。不思議な感覚。
身体が落ち着かず、フワフワした感じがして地に足が着いていない錯覚を覚える。

「ねー? 僕って和也に見える?」
我ながら愚問であったが、和也はコマに尋ねてみる。
彼女は丁度、洗濯機の蓋を開け中にタオルを放り込む最中であった。
「……はい?」
コマは一瞬だけ固まる。
和也が鏡を覗き込んでいるのを見て、思わずその額に手を伸ばす。
心持冷たいコマの手のひらの感触に和也は目を閉じた。
「熱はないですねぇ。和也様、寒気とかしますか? 暑気あたりじゃないですよね? 夜は眠れています?」
矢継ぎ早に質問を繰り出し和也の顔色を確かめるコマ。
目の下の皮膚を引っ張り目のふちが腫れていないかも確認。
果ては手首を掴んで脈を取る始末。

そして、最後に
「鬼のような訓練からくるストレスでは……ないですよね?」
と、コマは小さな声で和也に囁いた。
「違うと思う」
三年間もあの師匠にしごかれてきて、今更ストレスを感じる。
も、なにもない。

和也はきっぱり否定した。

「なら取り敢えず、頑張れる範囲で挑戦してきてくださいね」
コマは手早く着替えを渡し、和也の髪を整え出す。
モヤモヤした気持ちを抱えつつも子供の仕事『朝のラジオ体操』に参加すべく慌てる和也。


サンドイッチ一切れを口に押し込まれ、コマにエレベーターまで見送ってもらう。
ぼんやりする弟子を心配した氷(二十八歳バージョン)も今日は一緒で、マンション裏手の公園まで移動した。



朝七時とはいえ夏は夏。
日差しは痛いし・暑いし・眩しいし。
湿度もムンムン。
気温に煽られて体温も上昇する。


「おはよう、和也君」
マンションの自治組合の婦人会の奥様が、公園に出てきた和也に声をかけた。
「おはようございます」
和也は礼儀正しくお辞儀。
氷も少し間をおいて「オハヨウゴザイマス」と、棒読みに近い挨拶を返す。
奥様は少しばかり頬を赤くした。
「……タラシ」
氷に聞こえないように和也はそっと呟く。
実際は十分に聞こえていたのだが、氷は聞こえないフリをしておいた。

「皆さん、ぶつからないように間隔をあけて下さい」
子供会の役員が、大声を張り上げた。
思い思いに散らばっていた子供達は、適度に間隔を開け強い日差しにダラケきる。
元気がよくとも酷暑に近い今年の夏の暑さは堪えるのだ。

チャンチャラ、チャチャチャチャ〜

耳に馴染んだラジオ体操のテーマが、ミニラジカセから流れる。
子供たちと向き合う形で体操をする子供会のおじさんの顔を、和也はぼんやり見た。



だらけきった和也の視界一杯に広がる、青。



思い出しますね〜。ラジオ体操。当時は夜型だったので辛かった思い出が。
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