この湯屋の設定で興味深いのは、私の職場である児童福祉施設を重ねてみることにあった。湯婆婆は、名前を奪って相手を支配する能力を持っているのだが、先の「贅沢な名だねぇ」の台詞の次は「今からおまえの名は千だ。いいかい千だよ。解ったら返事をするんだ! 千!」というものである。児童福祉施設でも同じようなことが行われている。「今日からおまえは入所児童だよ。解ったら返事をするんだ」というようなことである。名前に代表されるIDを奪い、そして次にくるのは、機能を求めるということだ。つまり、入所児童として指導に従い、機能を向上させるということなのである。 その前に「見るからにグズで甘ったれで泣き虫で頭の悪い小娘」という判定と分類も忘れていない。「イヤだとか 帰りたい」といったらここでは子豚に変えられてしまうという条件も付く。施設では、逆らったところで仔豚にされたり、石炭に変えられたりということはないが「出て行きなさい」ということがある。元々、行き場がなくて施設に入所しているのだから、出てゆくところがあるのならとっくに出て行っているのだろう。 この後に、千尋はやがて自分の名前を忘れ入所児童と変化してゆくということになるのである。 施設は集団生活を基本にしていると信じている人たちはこの映画を観てどのように思うのだろうか。きっと、何も感じないのであろう。湯婆婆のしていることがそのまま児童施設に当てはまるとは思わないが、似たようなもの、五十歩百歩というところなのである。湯婆婆のように異常性に気がつかないだけなのだ。 特に施設では名前を奪われる。私の施設では、障害分類では二種類の子どもたちが生活してるが、今まで、ごく普通に ○○(障害)の人こっち、△△(障害)の人こっちとなどと誘導されていたのである。これは今も他の施設では行われていると思う。 たとえ個別に名前を呼んでいたとしても、○○障害の誰それさんなどといっている訳であるから、理不尽な話である。勿論、反論もあろうが施設に入所したというだけで○○障害とか入所児童という看板を持たされてしまうのである |