2004年4月12日/7月9日

 京都における牛若丸ゆかりの地といえば何はさておき鞍馬山ですが、意外と知られていないのが京都市街に点在するささやかな史跡たち。牛若丸が生まれた源義朝別邸跡、奥州行きを決意させた金売り吉次との交流、そして弁慶との運命の出会い…。観光客が押し寄せる人気スポットばかりではありませんが、路傍にひっそりたたずむさりげない石碑やつつましい寺社には、自由自在に源平の昔に思いを馳せられる魅力的な“余地”があります。

バス停「牛若」
 九郎の父である源義朝の別邸があったといわれる北区紫竹には、「牛若」という地名が残されています。常盤御前はこの地に住まい、牛若を生み育てたとのこと。
 「牛若」バス停は四条大宮バス停から市バス46号で約20分。近くには京都三大奇祭のひとつ「やすらい祭」で有名な
今宮神社、一休禅師ゆかりの大徳寺などがあります。


常徳寺
 バス停「牛若」から北山通を少し東に進むと、常盤御前ゆかりの「常徳寺」があります。ここには牛若丸の安産を願って御前が寄進したという「常盤地蔵」がおさめられています。

光念寺
 常徳寺から少し南にさがった路地の中、こちらも常盤御前と牛若誕生にまつわる「腹帯地蔵」が鎮座している光念寺があります。

牛若丸誕生井
 光念寺へ向かう細い路地の脇には、「牛若丸誕生井」と書かれた碑が立っています。牛若丸が誕生した折に使った産湯の井戸の跡だとか。この近くには牛若丸のへその緒と胞衣が埋められたという「胞衣塚」もあります。

源義経産湯井ノ遺址
 牛若丸誕生井から5分ばかり歩いた場所にも牛若丸誕生にまつわる碑があります。この周辺にかつて源義朝の別邸があったらしい。今は車が行き交う道路の脇に、この石碑のためにわずかなスペースが空けられているのみ…。

首途(かどで)八幡宮
 「牛若」生誕の地をあとにして、次は奥州下りのキーマンである金売り吉次ゆかりの史跡をめざします。市バス46号で千本今出川バス停を下車、東に歩いて10分もかからない場所に「首途八幡宮」という鳥居がみえてきます。
 大内裏の東北に位置するため王城鎮護の神とされ、もとの名を「内野八幡宮」という。宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(応神天皇)・比淘蜷_・息長帯姫命(神宮皇后)を祀る。かつてこの地に金売吉次の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して出立したといわれる。「首途」とは、「出発」の意味で、以来この由緒により、「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。この故事により、特に旅立ち、旅行安全の信仰を集める。
 

義経かどで地蔵
 首途八幡宮から西へ、枯山水の庭園で名高い
妙心寺まで足をのばすと、妙心寺近くの木辻通沿いに、吉次と牛若奥州下りゆかりの祠があります。首途八幡宮同様、こちらも吉次の別邸があったといわれる場所です。
 この辺り一帯は木辻と呼ばれ、平安京の木辻大路に由来する地名のところです。「木辻」の音が「吉次」に通じて、金売り吉次の別宅がこの地にあったと言われ、牛若丸(源義経の幼名)が身を寄せたと伝えられています。(中略)牛若丸は奥州への旅立ちに際して、その長途の安全を守り給い宿願を叶えさせたまえと祈り、宿願成就の暁にこの地に一寺を建立せんことを誓ったと言われています。
 「木辻(きつじ)」だから「吉次(きちじ)」って…。昔の人はホントにもう、ダジャレでいろいろ勝手に決めつけちゃうんだから。この写真の案内札の先にお堂があったのですが、外観はごく普通の民家で、格子扉も閉まっており、中までうかがうことはできませんでした。


左女牛井(さめがい)之跡(源氏堀川館跡)
 妙心寺からJR花園駅〜丹波口駅で下車、次は源氏代々の館があった六条堀川に向かいます。
 京都東急ホテルの近く(
西本願寺の北側)の歩道沿いに、石碑と案内札が立っています。左女牛井とは源氏堀川邸の敷地内にあった井戸のこと。京都にて源義朝もその子頼朝もこの六条堀川で暮らしており、平治の乱でいったん平家に京を追われるものの、時は流れて源平合戦、われらが九郎義経がこの地をふたたび源氏の拠点として奪還するのです。

五条天神宮
 六条堀川を出て、今度は五条通を東に向かいます。ここからは牛若丸と弁慶ゆかりの史跡が点在しています。
 平安京の頃の五条通は、現在の京都のメインストリートである五条通よりふたつ北の、松原通にあたります。その松原通と西洞院通の交差する場所に五条天神のお社があります。ここは牛若丸が陰陽師鬼一法眼の弟子・湛海との決闘のため必勝祈願するなど『義経記』で幾度か登場する重要スポット。
 太刀千本狩りの宿願のため五条天神に参詣していた武蔵坊弁慶は、あと一振りで千本となる6月17日の晩、黄金の太刀を佩いた牛若丸と出会います。弁慶と牛若丸・宿命のゴングは鳴りひびいた!ここで第一ラウンド、翌18日場所を移して五条橋(現・松原橋)を渡った先の清水坂で第二ラウンド、そして清水寺にて最終決戦がおこなわれたのであります。

五条大橋・牛若丸と弁慶の像
 「義経記」では三度も対戦している牛若丸と弁慶ですが、文部省唱歌「牛若丸」では舞台を五条大橋に設定し、より象徴的に両者の戦いが歌われています。橋の手前の中央分離帯の植え込みの中(なので遠くからしか見ることができず・あげくピンボケ写真)には、丸々としたカワイイ牛若丸・弁慶像(京都の御所人形のイメージだとか)が建てられています。なだらかな東山の稜線を背景に、たしかにこれは一枚の絵のように決まるワンシーン。

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
 五条大橋を渡ると六波羅、この周辺はかつて平家の本拠地でした。六波羅の目と鼻の先の五条橋で効率よく平家武者をとっつかまえてはギッタギタにこらしめてたアンチ平家の弁慶さん、さすがたいした度胸であります。
 六波羅蜜寺は天暦五年(951年)空也上人により建立された寺院で、歴史の教科書などで誰もが一度は見たことがあるはずの平清盛像や空也上人像(いずれも重要文化財)などが展示されています。

 拝観料・大人\500 時間・8〜17時

清水寺
 五条天神から始まった弁慶と牛若丸の対決、最終ラウンドは清水寺の「舞台」。清水坂での小競り合いのあと、参詣客にまぎれそしらぬ顔して堂内で読経していた牛若のもとに弁慶乱入!牛若少しもさわがず「まあ座ってお前も経を読め」。弁慶、なぜかおとなしくとなりに座って一緒に読経(このへん弁慶の大らかさが感じられていいなあ)。それがすむと「さあ勝負」と手合わせがはじまります。参詣客も修行者も勤行を忘れてこのミョーなバトルをヤンヤと観戦。弁慶は牛若丸の妙技に翻弄され、感服し、はれて主従の契りを結ぶのです。
 写真はあえて有名な清水の舞台ではなく(舞台はちょうど改修工事中!ありゃ〜)、青葉に映える鮮やかな仁王門。背後は三重塔、いずれも重要文化財です。
 ※07年旅日記に清水寺の弁慶ゆかりの史跡常盤ゆかりの子安の塔追加!
 拝観料・大人\300(本堂)  時間・6〜18時

三十三間堂
 清水寺からほど近い三十三間堂(正式名・蓮華王院)にも立ち寄りました。この一帯はかつて後白河法皇の院政庁「法住寺殿」が置かれていた地域で、三十三間堂は権勢を誇っていた平清盛が長寛二年(1164年)に造進したもの。日本最長(約125m)の木造建築である本堂(国宝)と、その中にズラリと並んだ千体の千手観音立像(重要文化財)、雷神と風神像(国宝)は一見の価値あり!
 拝観料・大人\600  時間・8〜17時(11月中旬から3月は9〜16時)

弁慶石
 三十三間堂から今度は北へ、三条通まであがります。三条通と麩屋町通の交差する場所のビル前に、縦長の岩が唐突にポンと立ってます。
 この石は弁慶が熱愛したと謂はれ弁慶は幼少の頃三条京極に住み死後この石は奥州高館の辺にありましたが発声鳴動して「三条京極に往かむ」といひその在所には熱病が蔓延したので土地の人が恐怖し享徳三年(約五百年前)三条京極寺に移し以来当町を弁慶石町と称するに至りました その後市内誓願寺方丈の庭に移りましたが明治二十六年三月町内有志者により当町へ引取られ昭和四年七月十二日この場所に建立されたものであります
 …「熱愛」って何?弁慶さん、石マニア!? 上記の説のほかにも弁慶が腰掛に使っていたものだとか、比叡山から投げ飛ばしたのだとか、平泉で命を落とした弁慶が岩と化したものだとか、諸説ふんぷん。個人的には比叡山からブン投げた説を支持したい。彼ならできる!かも。

義経大日如来
 三条通と御池通を貫く地下鉄東西線で蹴上(けあげ)駅へ。この駅の横には琵琶湖疎水のインクラインが通っております。この「蹴上」といういっぷう変わった地名は、一説に、奥州へ旅立つ九郎がこの地で平家武者の一行に水たまりの水を蹴上げられたことにカッとなり、行きがけの駄賃とばかりに斬り殺したことに由来する、とか…。牛若ちゃん!あんたは今はやりの「すぐキレる若者」ですか!
 インクラインのレール脇には「義経大日如来」と標されたお地蔵さまの祠があります。九郎に斬られた武者の菩提を弔うためのものとされていますが、この地域はむかし刑場で、刑死者の供養のため安置された石仏を後世の人々が義経伝説になぞらえたのが真相のよう。ともあれそんな殺伐とした伝説を何ら感じさせない、このお地蔵さまは実に素朴で柔和なお顔立ち。
 この付近にはほかにも京を発つ牛若が源氏再興を祈願したという出世恵美須神社(粟田神社)があります。

蹴上インクライン
 義経大日如来から眺めるインクライン。私が訪れたのは四月の中旬、桜は盛りをすぎたとはいえ、ラインに沿って延々つづく並木はみごとなもの。平日だったこともありますが人影も少なく、見晴らしもよく、隠れた名所といえましょう。ここからさらに足を伸ばすと最近よく観光雑誌などで紹介されるモダンな疎水アーチが姿を見せ、さらに進むと「絶景かな絶景かな」の
南禅寺にたどりつきます。

義経の腰掛石
 地下鉄東西線・蹴上からひと駅、御陵(みささぎ)駅で下車。そこから県道143号線を東に向けて歩くこと1Km弱、右手(県道西側)に京都薬科大学のグラウンドが見えてきます。そのグラウンドの西のはずれに、周囲の喧騒から忘れられたようにポツンとたたずむ「義経の腰掛石」。04年現在、この周辺には工事用のネットやポールがはりめぐらされていて何やら不穏な雰囲気。工事が済んでもこの史跡、ちゃんと残してて…くれますよね!?
 昔、牛若丸(源義経幼少名)が金商人・吉次に連れられ京都から奥州平泉へ下る途中、盗賊におそわれた。当時、この一帯は竹藪であった。牛若丸は一行を切って、かたわらの小さな池で刀を洗った後(現在の町名『血洗町』の由来)、この石に腰かけて休息したので『義経の腰掛石』と呼ばれるようになった。
 まだおのれに課せられたすさまじい運命を知るべくもないピカピカのティーンネイジャー九郎義経は、いざはるかな旅路へと劇的な一歩(いきなり盗賊退治なんて劇的以外の何ものでもない)を踏み出したのでした…。

オミヤゲ情報
弁慶の土鈴(\300)
 京都のオミヤゲ物屋さんに源平モノはまずめったにありません。どこへいっても誠・誠・誠「もうええっちゅうねん」と叫びたくなるほど新撰組の雨あられ。そんななかで掘り出した源平モノにはいとしさも倍増です。清水坂の途中のオミヤゲ物屋さん「京人形・木村桜士堂」で見つけたこの土鈴は、ちょっと小首をかしげた弁慶がとにかく可愛い。この感じで牛若ヴァージョンもぜひつくってほしい!

MAP@(バス停牛若周辺) MAPA(京都広域)
自作マップ


正確な地図はこちら

自作マップ


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 今回の京都の旅は、当初の計画では桜の咲きはじめる三月下旬〜四月上旬ごろに訪れたかったのですが(個人的に九郎義経は桜=春生まれのイメージがあるので)、お花見めあての観光客とがっぷり四つになることを怖れて、桜の終わりかけた四月中旬に出かけ、牛若バス停周辺、吉次邸跡、堀川館跡、蹴上駅周辺を訪れました。のち七月の炎天下にもう一度補足の旅へ、清水寺・三十三間堂などを探訪しました。いずれも人影ちらほら状態で、狙いどおりゆっくりマイペースに回れました(清水寺・三十三間堂はさすがににぎわってましたが)。ラッキー!でもちょっとサビシイ(笑)。やはり京都でも源平史跡はまだまだマイナーなのですね。