&2005年大河の旅〜神戸編
2005年3月〜6月
2005年イベント/中央区(生田神社)/長田区・兵庫区(平家敗走)/兵庫区(福原京)

 平清盛の独断によりたった半年間だけ日本の首都となった街、それが神戸(福原京)。祖父の代から西国の水軍を掌握し海上を自由に行き来していた清盛は日宋貿易に力を注ぎ、天然の良港・大輪田泊(おおわだのとまり)の修復や人工島築造など、福原ウォーターフロント計画に着手しました。平家の権勢を後ろ盾に、この工事は国家事業として大々的に押し進められました。しかしその完成を待つことなく、清盛は病に斃れて帰らぬ人となります。そして清盛亡きあと平家は急速に零落してゆき、“夢のあと”福原は一ノ谷合戦の凄惨な舞台となり、平家一門は清盛の夢とともにあえなく歴史の表舞台から姿を消すこととなるのです。
 しかしこの夢の跡地はやがて世界に開かれた美しく豊かな「国際都市・神戸」として甦ります。清盛の夢は七百年の時を経てようやく叶えられたのです。

2005年大河「義経」関連イベント
義経展〜源氏・平氏・奥州藤原氏の至宝〜…兵庫県立歴史博物館
 大河「義経」と連動して、義経(源平)にまつわる国宝級の絵画・工芸品などが一同に集められた一大イベント「義経展」。千葉(4〜5月)、兵庫(5〜7月)、岩手(7〜8月)と巡回しています。
 楽しいオマケつきの図録(\2200)やレア物グッズ(写真は牛若&弁慶キーホルダー\800)も販売してます。近隣の源平ファンはぜひ足を運ぶべし!
NHK大河ドラマ「義経」展…NHK神戸放送局
 NHK神戸放送局では3月に大河ドラマ「義経」展が催されました。ドラマで使用された衣装や小道具、また出演者のサイン色紙などが多数展示されてます。
 今年いっぱい全国各地のNHK放送局を巡回中です。
山陽電車2005年限定ラッピング電車「源平号」
 神戸・三宮〜姫路間を往復する山陽ラッピング電車「源平号」。ド派手でダイナミックな絵柄もさることながら(駅ホームの人々の注目のまと!)、ポイント高いのが車内の吊り広告。すべてタッキー義経!どこにいても義経さまの熱視線がとんできて大変です。
源平ゆかりの地・神戸オリジナルのぼり旗
 大河「義経」放送にあわせてこんなかわいいノボリが神戸の各所にはためいてます。これ以外のタイプもありますが、いずれも源氏の白、平家の赤が基調カラーとして使われてます。でもやっぱり神戸は平家の街、全体的には「赤」ノボリのほうが優勢かな?

中央区・生田神社 一ノ谷合戦・源平の明暗
中央区/生田神社
 にぎやかな神戸の中心地・三宮に鎮座する生田神社。源氏の大手軍(大将源範頼)と平家軍(大将平知盛)が激闘を繰り広げた一ノ谷合戦の舞台でもあります。
 平家はこの近くを流れる生田川に柵を設けて源氏軍を迎えうちました。源氏の河原高直・盛直兄弟が先陣を切って討死したのを皮切りに、激しい戦闘がはじまりました。
 三宮センター街筋の三宮神社には河原兄弟を祀る「河原霊社」が、また中央区追谷墓園には河原兄弟墓碑があります。

生田神社・箙の梅(えびらのうめ)
 源氏軍の若武者・梶原景季は咲き誇る梅の枝を箙にさして戦いました。父景時と同じく坂東武者にはめずらしい雅好みの彼。でもそんなことして目立ちまくったせいか、たちまち敵勢に囲まれ大苦戦を強いられます。カッコつけるにも命がけです。

生田神社・梶原の井(かじわらのい)
 境内には「梶原の井」なる史跡も。別名「かがみの井」といわれ、梶原景時が生田の神に勝利を祈願し水を汲んだとか、景季の箙の梅の花影を水面に映した等と伝わっています。
 梶原景時・景季父子は河原兄弟討死のあと五百騎を率いて突撃しますがみるみるうちに五十騎に減ってしまいいったん退却します。しかし景時ははぐれた息子を探して再び戦場に駆け戻り、孤軍奮闘している景季を救いました。「梶原の二度の魁」といわれる美談です。しかしそれほどの親子愛をみせる彼が義経のひたむきな兄弟愛をふみにじるのですから、愛というもののエゴイスティックな側面について考えさせられてしまいます。

生田神社・弁慶の竹
 義経関連の史跡がひとつも見当たらないなか、かろうじて関連のあろうかと思われるのがこちら「弁慶の竹」。武蔵坊弁慶が義経のかわりに生田に詣でて竹を奉納したと伝わっています。
 また境内には平敦盛の子が父の霊に会うために生田を訪れるという謡曲「生田敦盛」にちなむ「敦盛萩」の碑もあります。弱冠十六歳でいっぱしに子を成してたという設定、果たして美少年敦盛のイメージ的にはいいのか悪いのか。

生田神社・生田の森
 かつてこの一帯は「生田の森」と呼ばれる広大な森でしたが、いまは生田神社の裏手に鎮守の森としてわずかに残されているばかり。青々と茂る立派な楠の大木に当時の面影をしのぶよりほかありません。

長田区〜兵庫区 一ノ谷合戦・平家の敗走
長田区/源平勇士の碑 平知章(たいらのともあきら)之碑
 膠着状態だった一ノ谷合戦の戦局は源氏の搦手軍・義経の奇襲攻撃によって大きく動き、劣勢となった平家は我先に敗走を始めます。その途で名だたる平家の公達らが次々に討ち取られてゆきました。
 平家の大将・平知盛は源氏勢に追いつかれてしまいますが、同行していた知盛の息子知章が父を逃がすため家臣の監物太郎頼賢とともに源氏勢と戦い討たれました。新湊川沿い(村野工高グランド西側)にはこの知章をはじめ、この地で戦い果てた源平両雄の武将らのための「源平勇士の碑」が建てられています。
 またこれより山手側の明泉寺にも平知章の墓碑があります。

長田区/監物太郎(けんもつたろう)の碑
 源平勇士の碑から少し離れた場所(村野工高の東側)には、平知章を最期まで守って討死した忠臣・監物太郎頼賢の碑がひっそり建っています。
 また同区内には平盛俊(平家の侍大将・越中前司)の墓と碑平忠度(清盛の末弟)の胴塚・腕塚もあります。
※明石市にも忠度関連の史跡があります

兵庫区/平経俊(たいらのつねとし)塚
 国道2号線ぞいの鎮守稲荷神社境内には、平経俊の塚があります。経俊は清盛の弟・経盛の子。兄の経正(琵琶の名手)、弟敦盛(笛の名手)ともども、この一ノ谷合戦で討たれてしまいました。
 また同区内には平通盛の五輪塔(願成寺境内)、平業盛の塚と碑(善光寺境内)があります。通盛は平教経の兄、業盛はその弟です。通盛は湊川で討死し、その報を聞いた妻小宰相局は悲しみのあまり入水自殺してしまいます。業盛は兄教経に劣らぬ勇猛果敢な若武者でしたが奮戦むなしく討ち取られてしまいました。吾妻鏡では平教経すらこの合戦で討死したことになっているので悲惨です。

 本当に多くの平家武将がこの地で果てています。一ノ谷合戦が平家にとっていかに壊滅的な敗戦だったか痛感させられます。

兵庫区 清盛の夢のあと
兵庫区/厳島神社(兵庫弁天)
 さてここからは気を取り直してバイタリティあふれる清盛のまちづくりの足跡をたどります。
 清盛は福原遷都のさい、七ヶ所に安芸国の厳島神社を勧請して弁天を祀りました。そのうちのひとつがこちら。新開地駅近くの路地のなか、赤い鳥居がひときわ目を引きます。厳島神社は航海安全の神であり、貿易に力を注いだ清盛はこの神社を深く信仰していました。

兵庫区/来迎寺※通称築島寺・松王丸の塚
 福原京の最大事業である経ヶ島(人工島)築造工事は難航を極めました。そのため人柱を立てることになり、選ばれたのが松王丸という十七歳の清盛小姓。彼の犠牲により無事経ヶ島は完成しました。
 しかし平家物語では人柱のかわりに経を書いた石を沈めたので「経ヶ島」と呼ばれるようになったという話。個人的にはこっちのほうが慣習にとらわれない清盛らしいエピソードで好き。
 市営地下鉄海岸線・中央市場前駅のすぐそば、来迎寺境内にこの松王丸の塚(供養塔)があります。その隣にはなぜか清盛の愛人だった妓王・妓女の碑もあります。清盛が寂しくないようにとの配慮、かな…?

兵庫区/能福寺(のうふくじ)・平相国廟
 平家全盛の頃に一門の帰依を集めたという能福寺は露座の兵庫大仏が目印です。仁安三年(1168年)2月11日、清盛はこの寺で出家し「浄海」と名を改めました。清盛の死後、その遺骨は清盛の遺言によりこの寺に治められたといわれています。かつては敷地内に清盛の供養塔がありましたが今はなく、かわりに清盛の八百回大遠忌記念に平相国廟が造られました。


兵庫区/清盛橋と兵庫運河
 清盛の夢の跡地は近代に入ってめざましい発展をとげ、活気に満ちた国際港になりました。日本最大規模の運河・兵庫運河に架けられた橋は清盛への敬愛の念をこめて「清盛橋」と名づけられました。

兵庫区/萱御所(かやのごしょ)石碑
 清盛橋を渡ると後醍醐天皇ゆかりの薬仙寺があり、その境内に清盛の別荘「萱御所」跡の碑があります。清盛は一時ここに後白河法皇を幽閉したといわれ、別名「籠(ろう=牢)の御所」とも呼ばれています。しかし実際の幽閉場所は山手の平教盛邸であろうとのこと。どこに閉じ込められてようと、あの法皇さまならいつでも不敵にニヤリと笑ってたにちがいない。

 同区内の山手には平頼盛(清盛の弟)の山荘跡である荒田八幡神社(荒田町)、清盛の別荘があった雪の御所跡(雪御所町)など、平家の神戸ライフをしのばせる史跡が数多く点在しています。

兵庫区/清盛塚(十三重塔)
 清盛橋のある交差点の一角に、見あげるとひっくり返ってしまいそうなほど高い(八.五メートル)十三重の石塔がそびえています。一説には北条貞時が清盛の冥福を祈って建てたものだとか。清盛を愛する神戸の人々は、昔からこの供養塔を格別の思いを込めて祀ってきました。


兵庫区/琵琶塚
 清盛塚の十三重塔とならぶように、一ノ谷合戦で戦死した平経正(平敦盛の兄)ゆかりの琵琶塚の碑が建っています。この地にあった古墳(前方後円墳)がたまたま琵琶の形をしていたから琵琶の名手である経正の墓とされました。なんてイイカゲンな…。でも史跡の大半はそんなものかも。
 明石市には経正の馬を埋めたという「馬塚」の碑があります。

兵庫区/清盛像
 清盛塚の敷地内には清盛の銅像が立っています。後世の人々がみごとかなえてくれた夢の都の繁栄をひとり静かに見守っているかのような、穏やかながら威厳に満ちた清盛像です。

兵庫区/新川運河の清盛人形
 兵庫運河から続く新川運河の遊歩道(キャナルプロムナード)近くにはつい最近設置された清盛人形が。あら〜カワイッ!上のシリアス清盛像とのギャップをお楽しみください。プレートには「平清盛のまち」との文字が。神戸は清盛さまのもの!? なるほど市政をまかせても汚職なんてしなさそうな善意あふれるえびす顔の清盛さま。豊かなまちづくりに尽力した敬愛すべき偉人として、清盛は今も神戸の人々の胸に生きています。
MAP LINK
自作MAP(※かなり適当)

兵庫区長田区
義経「神戸源平物語」HP

生田神社HP

 神戸はショッピング等で何度も訪れる街ですが、これまできちんと史跡めぐりをしたことはありませんでした。平家(と源氏大手軍)の史跡しかないので義経ファンとしてはいささかツマランのです。しかしこの度ようやく重い腰を上げ街角のささやかな史跡を探して歩いてみると、この地で暮らしこの地で果てた平家の人々がどんどん身近に感じられ、ぐっと愛着がわいてきました。
 そして、神戸の街の魅力と可能性にも改めて気づかされました。もし平家が清盛の夢を引き継いでもっとがんばってたら、鎌倉に先んじて神戸が日本最初の武士の都市になっていたかもしれません。神戸と鎌倉、いずれも海に面して背後を山に囲まれた自然の要害です。軍事的にも最良の立地条件である神戸を国際港湾都市かつ武家都市として機能させていたら、東の鎌倉、西の福原、源平ふたつの武家社会が中世日本に並び立っていたかも。もしそうだったら義経はどっちについたかな?彼には鎌倉よりは案外神戸の水が合うんじゃないかな〜(オイデオイデ)…なんてばかげた空想を馳せるのも楽しい。
 何にせよ遣唐使が廃止されて以来鎖国状態だった平安末期にあえて日宋貿易をおこなった清盛には先見の明があったといえましょう。清盛が没して平家が滅びたのち、源頼朝は新しき武士の都・鎌倉に宋船を入港させます。清盛の着目した貿易の重要性を頼朝も理解していたのでしょう。場所を替えかたちを変えても、立派な夢は継がれてゆきます。