ある季節の終り -4-

激しい愛国者だった祖母を中心に回っていた我が家の、女だけの家庭を覆っていた或る狂熱の風が突然止んだのだ。行進をしながら作業場へ向かっていた私達子供達、「欲しがりません、勝つまでは!」 もうお菓子などは無かった、もう甘い物も無かった、私達は少し飢え始めていた。それでも元気溌剌と行進していた。あの片田舎にいながら、防火訓練をして大声を出していた大人達。健気であくまで無私の奉仕をして、もう二度とそのように輝くことのないほど素敵だった、働き者の私の高等科のお姉さん達、すべては消えてしまった。狂騒の季節に終わりが来た。
あれほど元気だった慶応3年生まれの祖母は、その日を境に弱っていった。 ただ一つ祖母の願いは、出征した末っ子の尭叔父が無事に帰って来てくれることだった。 敗戦時、軍楽隊としてマニラにいた叔父は、予期せぬはやさで帰って来た。大喜びしたものの、祖母は元のように元気にはならなかった。

叔父が出征した時、四国の「こんぴらさん」へ無事を祈って願掛にお参りしたという祖母は、「お礼参り」にいかなければならないと言いつつ、床に伏せる日が多くなり、私は初めて祖母の部屋から母と妹達の部屋へ移った。叔母と母は尭叔父のお嫁さん探しにやっきとなっていた。何枚も写真が集まって、第一候補は私が四年の時習った沖先生だった。でもすぐに「婚約者」がいてだめだったと聴いた。もっともその前、最初の候補者は私は聞いていなかったけれども、やはり私の先生だった岡村先生だったと母から聞いた。岡村先生の場合はすでに決まった方がいて、問題外だったとのことだった。沖先生にはお仲人さんをたてて、お話が向こうへ伝わってすぐ「婚約者」がいますとお断りが来たのが本当だったらしい。祖母の存命中に叔父にお嫁さんが来るようにと周囲は急いだのにちがいない。叔父はやはり小学校の先生をしていた人とお見合いをし、その年の暮れ近く結婚式を挙げた。祖母は肯くだけだったそうである。翌年、一月にはかなくなった。敗戦からたった五ヶ月しか生きなかった。
ずーと後になって、私の祖母は漱石や露伴と同世代の人だったことに気付いた。

神風連に参加すると言った彼女の父を止めさせるため、周りの大人は十歳の祖母に「父さんにしがみ付いて離さぬようにしなさい」と言ったそうである。祖母は父親にしっかりとしがみついて決して離さなかった。その時、父親は「男泣きに泣きなはった」と祖母は私に話していた。神風連や十年戦争に馳せ参じた兵士達の多くは、私の曽祖父のように変革の時代を受け入れることが出来ないでいた、しかも旧制度の崩壊で為す術もなく貧窮にあえいでいた下級武士の末裔だった。敗れた者達の怨念は祖母の中にも残っていて、私の家はそのまま大戦の狂熱へ向かっていったのだろうか?

高い雲間に小さい銀色の小鳥のように見えたB29、悠然と日本の空を飛んでいた。あそこまで届く高射砲は日本には無い、、、ワシントンまで一足飛びに届く弾丸のような飛行機を何故日本の科学者は発明出来ないのだろう?私はそんなことを思っていたのだった。或る夜、一方の空が真っ赤な夕焼けのように綺麗に燃えているのを見た。太刀洗飛行場とその周辺が燃えているのだと聴いた。「本土決戦が近い」と誰かが言った。その頃の子供の気持ちが、簡単にシャツを裏返すように変わるはずもない。私はかなりの間「ちゅうぶらりん」だったと思う。




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