初等科国語 五


          ス レ ン バ ン の少女

     一

  マライの英軍を急追し、所在に撃破しながら南下する
皇軍が、スレンバンの町にはいった時のことです。
 「皇軍来たる。」の報を聞くと、付近の密林やゴム園の中
にかくれていた住民たちも、安心して町へ帰ってきました。
 マライ人・支那人・インド人たちは、勇ましい日本の
兵隊さんを喜んで迎へました。
 その中にたった一人、色のあまり黒くない、十歳ぐらい
のかはいい少女が、日の丸の旗を振りながら、
 「萬歳。萬歳。」といっているのが、兵隊さんたちの目を
引きました。
 「あ、日本人がいる。」
 「日本の女の子だ。」
  兵隊さんたちはさう思ふと、これもうれしそうに、にこ
にこしながら、
 「萬歳。萬歳。」
といひました。
 「日本人は、あなた一人か。」
と、聞く兵隊さんもありました。
 


    二

少女は、この町の雑貨商の娘で、父はインド人でしたが、
母は日本人でした。土地の学校へかよっているかたはら、
母親から日本語を教へられ、日本には天皇陛下がいらっ
しゃること、日本人は陛下の赤子であること、日本には
富士山といふりっぱなお山があることなどを、いつも聞
かされていました。さうして、毎朝母といつしよに、
お写真を拝むことにしていました。
「日本の子どもは、みんなお行儀がいいのです。富士山の
やうにりっぱです。あなたもお行儀をよくしないと、日
本の子どもにわらわれますよ。」
と、母はよくかういひました。

     三

大東亜戦争が始まると、母は日本人であるといふので、敵
の官憲からにらまれ、ある日、突然インド人の巡査が来
て、母に同行を求めました。娘のいるのを見て、巡査は、
「この子もいつしよだ。」




といひます。母はきっぱりと、
「この子は、日本人ではありません。」
といひました。
「あなたの子なら、日本人ではないか。」
「いいえ、違います。私の子ではありません。この子
は、父も母もインド人です。私は、この子の継母です。」
インド人の子と聞くと、インド人の巡査はやうすを変へ
ました。さうして母親に、
「さあ、行こう。」
とせきたてました。
「ちょつと待ってください。」
母はさういひながら、巡査を拝むやうにして、娘を一間
へ呼びました。
母は、子をだきしめました。
「おかあさん。」
母は子にほほずりをしました。この子を今手ばなして、
またいつあへるでせう。
    


もうそこまで敗戦の日が近づいて来ているある日、学校に駐屯している兵隊さん達の慰問もかねて学芸会が催された。私達の学級は「まりと殿様」の踊りと、この「スレンバンの少女」の朗読をすることになった。教科書の物語に登場するインド人の巡査、日本人の母親と少女、ナレーターなど数人が舞台に横一列に並んだ。私は少女の役だった。観客は講堂の真中に兵隊さんたちが大勢床に腰をおろし、その後方に生徒の父兄や村人に混じって母や叔母達が立っているのが真正面に見えた。私の「少女」の役は「おかあさん!」と2度叫ぶだけだった。
練習のときは「もっと大きな声を出して!」と先生からご注意をうけた。殆ど着る事がなかった白地に小花を散らした半袖のワンピースを着たことがちょっぴり嬉しく、気恥ずかしかった。みんないつも黒っぽいモンペ姿だったから。
このお話は長く、さらに 四 まで続くので、朗読劇は短く省略されて、インドの巡査が母親を連行して行き、その後姿に私が「お母さん!」と叫ぶところで終わった。

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              ■■ 「スレンバンの少女」 ■■

                         
 大東亜戦争は、一面に言葉の戦です。一たび占領地へはいれば、言葉が通じないかぎり、手も足も出ません。
 たった十一歳、内地なら国民学校四年生のこの少女は、その後、皇軍のある隊の通訳を命じられました。
 その隊は、この地方の鉄道の復旧工事に当りました。隊長以下何百の将兵と、マライ人・インド人の鉄道従業員たちの先頭にたって、少女は、たくみに日本語・英語・マライ語・インド語を使ひわけながら、りすのやうに活動しました。
隊長は、自分の子のやうにかはいがりました。兵隊さんたちともみんな、仲よしになりました。
「おかあさんに分かれて、さびしいかね。」と、兵隊さんが肩をたたくと、「天皇陛下がいらっしゃるから、さびしくありません。兵隊さんと一緒に仕事をすることは、お国のために孝行です。」
といひます。「お国のために忠義です。」と教えても、「いや、孝行です。」といって、なかなか聞かないさうです。

【注】スレンバンは現在のマレーシアの最南端の町