名前 3 
私は春休みに、一人であの滋賀県の山奥にある田舎に行って見たいというのが夢であった。京都にいる時は何度も母に連れられ、幼い足で長い田舎道をお米を貰いに行ったものである。父の兄の家であった。おばさんやおじさん、それにおばあさん、沢山の従姉弟たちはみんな優しかった。草津駅にはその家の長女が迎えにきてくれた。「よう来たなぁ!」挨拶もそこそこに二人はバスに乗り込んだ。そのバスの中で晴天の霹靂の事実を聞かされたのである。「よう叔母さんが Fちゃんを一人で出さはったなぁ・・・」感心したように彼女は言った。それから、おじさんおばさんと思っていた人が私の両親であることや、私が貰われて行った経緯を聞かされたのである。バスに乗っている時間が長かったこと、揺れるたび涙がこぼれるのではないかと、なぜか一度も瞬きをしなかったこと。乗客は子供をねんねこで負ぶった女の人一人きりで、ちょうど真向かいに座って私たちの話を一言も聞き漏らすまいと身動きもせず聞いていたのを覚えている。「うちらみんなきょうだいやで。Fちゃんは独りと違うえ」と姉は言った。私の19歳の春であった。

今から2年程前、姉と二人きりになったとき思い切って名前のことをきりだした。黙って自分の胸に閉っておくより、オープンにして笑い飛ばす方が気持ちよく忘れられるような気がした。「あのねぇ、私の名前ねぇ、すて子て言う・・・」姉はちょっと緊張したかに見えたが微笑みながら頷いた。やっぱり姉も知っていたのである。「いつも何であんな名前付けはったんやろうとず〜っと思うてたんやけど、お父ちゃんの文箱を整理して、初めて判ったわ。私が知らん間に改名届けがでててん。若い娘さんの字やったわ。代書屋さんの娘さんが書かはったみたいな。それに理由が書いてあったわ。迷信からやってんね。」と、届け出に書かかれていた内容を話した。
姉は黙って聞いていたが、しばらく逡巡したあと口ごもりながら答えた。「それなぁ、違うわ。」「えっ?」思いもかけぬ言葉が返ってきた。「あのなぁ、あんたが生まれた頃、うっとこの近所にすて子さんて言う、そ〜ら賢い愛らしい娘さんが居はってん。あんたがその娘さんみたいになりますようにて名前貰らわはったんやなぁ。役所の改名届けにはそう書かないと通らなかったんやねぇ。」「・・・・・」しばし声が出なかった。なんだ、そんなことだったのかとすっかり拍子抜けしてしまった。続けて姉は少し声を潜めて言った。「そのすて子さんて言う人、まだ生きてはんねんでぇ。ものすごいお婆さんやわ。」