いくさのあとさき
  

 最初の記憶 
大きな靴脱ぎ石で履物を脱いで上がると4畳半の畳の玄関があった。開け放たれた白い光の表庭を背にして女の人が畳に両手を付いて頭を下げながらぼろぼろと大粒の涙を零しているのを、その人と向かい合って座っている母の背中越しに、何か不安な気持ちで幼い私が見つめていた。その女の人が我が家を辞する寸前の記憶である。私は5歳であった。

母は色白のふっくらした顔立ちで、外出には必ず時間をとって鏡の前に座った。先によそ行きに着替えさせられた私は、母の支度が終るまで時間を持て余し退屈で仕方がなかったが、もう遊び道具を広げたり、庭に降りて土いじりしたりすることは許されなかった。お化粧が済むと母は先ずコテを火鉢に突っ込むと次に古い新聞紙を持ってきて鏡台の傍に広げる。髪を束ねて髷にしているUピンを全て抜き出すと梳き毛をはさんだ柘植の櫛で髪を梳きはじめる。フケ性の母は一枚目の新聞紙を折り畳んで捨てると六四ぐらいに分けた髪の毛を広い額から右の耳を蓋うように形作ると後ろの生え際に髷を結う。それから火鉢に差し込んであったコテを掴んで数枚の新聞紙で熱し具合を見る。インクの匂いと紙の焦げる匂いが一瞬あたりに漂う。何度も焦げ跡を付けながら冷ましたコテで額を隠した髪をきゅっきゅっと3箇所ほど捻ってウエーブをつける。今度は椿油の匂いが立ち昇る。いつの間にか一連の流れ作業を見るのが何か楽しく、べったりと鏡台の傍に座り込んで見ていた。そんな母は中々お洒落であった。
中でも着物の好みは当時としては垢抜けた感覚であったように思われる。この後は四条の大丸の食堂でホットケーキを食べ、その隣の小路を入った所にある母の伯母が勤めているM医院に立ち寄り、帰りは新京極で林長ニ郎の映画を見て、「さくらや」で花柄の便箋や封筒を買ってもらうのがお決まりのコースだった。

そんなお洒落な母に比べて、大粒の涙を畳に零していた女の人は地味な着物で髪は後ろにひっ詰めて束ね、化粧気ひとつなく、記憶に残る印象は何もなかったがどこかで見たことのある顏だった。客が帰った後、緊張が取れてホッとすると、「なんで泣いてはったん?」「何しに来はったん?」と矢継ぎ早に聞いた。母の返事を聞いた記憶はなかった。私が両親の子供でないと知った19歳の春から何故かあのときの女のひとが自分の母だったと確信した。