Y 創 意 の 跡 |
概して、オーケスラの作品には大味なものが多いが、第6番をはじめ、マーラーは極めて精緻な仕上げを行っている。まずオーケストレーションについてそれがいえる。大変巧みである。これは彼が指揮者をしていて、オーケスラのことをよく知っていたためである。何より、それぞれの楽器の個性が充分に生かされている。色彩豊かな音色が鮮やかに変化する。表情記号の指定なども大変細かい。形式や音楽の発展についても、実に精緻な仕上げが行われている。ただ、そうした細やかな創意の跡を聞き分けたり、演奏したりするのは容易ではない。
更に、マーラーの作品には長大なもの(たとえば、第6番は約80分・4管編成)が多い。楽曲のこうした長大な傾向には、後期ロマン派の影響があるものと思われる。純音楽的で抽象性の高い音楽が長時間延々とつづ くということが、聞く者の理解を困難なものとしている。
※ オーケストレーション(管弦楽法) …… オーケスラのさまざまな楽器をいかに駆使するかという技法
2.創造的で複雑な形式
このことについては、6−2−C「マーラーのソナタ形式」で述べた通りである。第1・第2主題に基づく「交響的変容」という受けとめ方もありうる。即ち、第1・第2主題が葛藤をくりかえすなかで、互いに影響しあい、最終的に渾然一体となって高まり溶け合っていく、即ち止揚していく変化の過程を表現しているものと理解することが可能である。極めて注目すべき創造といえる。ただ、その複雑な意図を聞き分けたり、演奏したりするのは容易ではない。(例〜第6番・第7番)
3.最終楽章の位置づけ
マーラーの交響曲では、最終楽章に創意が凝らされ、重要な意味を持たされることが多い。また、総じて各楽章の独立性が強い。このことが、楽章の関連性の弱さという無理解な批判の対象となった。マーラーの意図は違う。独立性が強い各楽章は、葛藤し互いに影響しあい、最終楽章で渾然一体となっていく。したがってマーラーの交響曲では、最終楽章が解決の位置づけを持つこととなる。(例〜第6番・第1番・第9番)
4.起承転結にとらわれない表現
このことは、第6番、第7番において特に顕著である。
(1) 「起承転結」は、一定の時間の流れの中の条件下で、因果律から導かれる経験的・形式論理的な美学である、と前に述べた。それは洋の東西を問わず、古来より尊重され信じられてきた論理的な表現法である。これが意識されないとなれば、ふつうは理解されない。批判の対象となろう。しかしもし、それでいてあるまとまりをもって美をなし、訴えをなすならば、それは「稀に見る表現」ということになる。なぜなら ……
@ そのような「美」の状態では、時間の流れ方が常識的ではない。
A そのような「美」の状態では、因果律が常識的ではない。 …… からである。
音楽は時間とともに表現される芸術である。したがって、このような美がもし実現したとするなら、「希有な表現」といえる。マーラーの音楽の真価は、この辺にあるのであろう。
※ 因果律 …… この世界のできごとには、原因があって結果が導かれるということ。経験的に確かなことで、常識的には疑う人はいない。
(2) 起承転結にとらわれないことには理由がある。どうしても、始めの楽想(第1主題)から、次の楽想(第2主題)を導けないことがある。 たとえば ……
(例) | 迫 害 | → | ??? |
迫害(という楽想)の後に何があるのだろうか。迫害を越えても迫害がある。即ち越えられない。それがマーラーにとって、決して偽ることのできない事実であった。従って、「承」「転」「結」が描けない。
(3) では、どうしたらよいのか。マーラーのとった方法はこうである。始めの楽想の次に、「対の楽想」を示す。「対の楽想」はおうおうにして「反対概念」として示され、時にはほぼ同時に表現される。これが楽想の飛躍、脈絡の欠如という無理解にあった。マーラーの意図は違う。
「対の楽想」が互いに葛藤し発展する彼方に、未来を見据えようとしたのである。私が、マーラーの音楽について、「時空を貫く直感から生まれた」と考えるのはこの故である。
(例) | 迫 害 | * | 希 望 | → | 展開(葛藤を通しての発展) |
※ ここでは「対の楽想」のそれぞれを「要素」と呼ぶ。また葛藤を通しての有機的発展を「交響」と捉える。
マーラーの音楽に対し、「暗鬱や厭世」と一方的に決めつけ、よって「頽廃」だとした批判がなされたが、誤りである。第1の楽想が「暗鬱や厭世」であれば、第2の楽想は「反対概念」として提示され、未来を追い求める格闘がつづく。冷静に考えてみれば、それが人生の真実の姿である。幸福だけに満たされた人生は、考えにくい。
Z 要 素 |
以下のことは、第6番、第7番において特に顕著である。
1.「要素」で構成された組曲
(1) ふつう組曲といえば、幾つかの小曲を並列的に並べ、これを束ねて一曲とした音楽をいう。サンサーンスの「動物の謝肉祭」等がよく知られている。
(2) これに対し、全体として強い主張があり、その個別の「要素」としての幾つかの小曲を、意図的に配置したような組曲がある。たとえば、ムソルグスキーの「展覧会の絵」がこれにあたる。この曲が、ストラビンスキーを始め近代・現代の作曲家に与えた影響には、見過ごすことのできないものがある。
(3) 「展覧会の絵」とマーラーの交響曲とは、「進化の樹」が枝分かれしたものの、まだ互いに共通点を持ち合っているような、そんな関係にある。生まれたままの主張は原始的な状態にある。このままではどうにもならず、第三者に理解ができるような「形」をとらねばならない。
ムソルグスキーは、主張を構成する「要素」をそれぞれ小曲とし、 組曲の形で訴えた。鉄を熱いうちに打ったようなものである。この方法の長所は、主張の原始的なエネルギーがすなおに残されているために、聞く者にとって分かりやすいことである。彼は「絵に対応させる」ことで組曲に束ねた。逆に短所は、音楽的発展が限られることである。
マーラーは、主張を構成する「要素」を楽章の中で有機的に発展させ、各楽章をまた大きな「要素」として、交響曲の形で訴えた。よく根回しして懇々と説得するようなものである。この方法の長所は、音楽的に豊かな発展性があり、それが精神的な成長に結びつくことである。マーラーが対位法や主題展開法の達人だったから、できたことである。逆に短所は、何のことか聞く者にとって分かりにくいことである。
2.「進化の樹」
「進化の樹」は枝分かれした。それは元に戻ることはない。しかしマーラーの交響曲には、表からは見えない「進化の痕跡」のようなある種の特徴が残されている。それは、もしかしたら組曲になったかもしれない、あるいは逆に、交響曲の道を進まざるをえなかった、という痕跡である。
「進化の痕跡」は、提示部の第1主題と第2主題のさかいめに隠れている。そこには、第1主題から第2主題へスムーズに導くための、工夫された「つなぎの楽句」が置かれる。歴史的に、これには次の三つの形が考えられる。
(1) 推 移 … 古典派のソナタ形式に用いられることの多い手法である。まず第1主題を2度登場させる。この2度登場させることを確保(主題を強く印象づけること)という。その上で確保の尾(終り近く)を発展させてつなぎの楽句とし、第2主題へ導いていく。楽想としてのまとまりはなく、基本的な手法といえる。第1主題と第2主題が「対照の関係」なら、これで必要充分である。
(2) 経過句 … ロマン派のソナタ形式に用いられることの多い手法である。推移を発展させたもので、楽想としてのまとまりをある程度持っている。第1主題と第2主題が「縁遠い関係」のとき、この手法が用いられる。
(3) 副主題 … 後期ロマン派のソナタ形式に用いられることの多い手法である。経過句を発展させたもので、楽想としてのまとまりを持ち、(第1・第2主題ほどには目立たないものの)もはや主題としてふるまう。第1主題と第2主題が「極めて希薄な関係」のとき、この手法が用いられる。ぎりぎりソナタ形式といえるためには、「つなぎの楽句」としてはここまでが限度である。これを越えれば、どれが第1主題でどれが第2主題なのか、分からなくなってしまう。
マーラーの交響曲では、第1主題と第2主題の間に経過句もしくは副主題が置かれていることがある。第1主題と第2主題の関係が希薄であれば、これを欠くことはできない。経過句もしくは副主題は、展開部や再現部で重要な役割を果たすこととなる。その重要な役割とは対立する第1・第2主題の発展を関連づける仲介役である。この仲介役のおかげで音楽が有機的に発展し、結果、長大な第1楽章が成立するのである。逆にいえば、長大であればこそ、対立する第1・第2主題の発展を内包できるのである。マーラーの交響曲が長大である根拠がここにある。
この工夫もしくは必死の努力が、「進化の樹」を枝分かれさせた。ただし「進化の痕跡」とは、経過句や副主題そのものをいっているのではない。対立する第1主題と第2主題の間には、深い溝が横たわっている。経過句や副主題がこの溝を埋めているのだが、よく見ると、なおうっすらと溝の跡が残っている。それを「進化の痕跡」といっている。
3.要素の交響
(1) たとえば「星座」のようである。各星座は個別であるが、天空全体を形作る。
(2) たとえば古来より伝えられる「土・水・火・風」のようである。また、絵柄の異なる屏風絵のようである。また東洋的な庭園のようにもたとえられるかもしれない。
(3) したがって、交響する各要素は、矢が一筋に進むような、同一時間の流れとして把握すべきではない。また、古典的な因果律に固執して、音楽的発展を把握すべきではない。
(4) たとえば交響曲第6番・第1楽章は、迫害・闇という「要素」と希望・光という「要素」が、交響して発展する音楽、といえる。
それぞれの「要素」は「対の楽想」として把握され、「反対概念」を形成している。音楽の進行にともなって、次第に響きあい溶けあってついには一つのものとなる。これが、マーラーの音楽の交響的発展である。この楽章の終結は大変見事である。各楽章はこのように作られ、交響曲全体も同様に構築される
迫 害・闇 | * | 希 望・光 | → | 交 響 的 発 展 |
(要素1) | 対の楽想 | (要素2) |
(5) 即ち、マーラーの音楽は弁証法的な摂理を内包している。ウィーン大学でユダヤ史や弁証法を学んだかどうかについては、定かでない。いずれにしても、彼は自己の直感に基づいて音楽を構築していったように私には思える。この音楽は、もともと砂漠の民であるユダヤ人の感性によるところが大きいと考えられる。砂漠の昼は容赦ない太陽の照りつける光の世界であり、その夜は静寂の暗黒に星の光が降る。彼の最も理解されなかった作品、交響曲第7番の世界である。「昼−夜」「渇き−潤い」「神−民」「迫害−希望」等は、ユダヤの人々にとって、「生−死」に関わる対をなす概念であり、これを忘れることは不可能であり、彼らの生活と歴史そのものであった。
4.対の楽想がもたらすもの
対立する要素が対となって発展する音楽は、その表現において古典的な音楽と異ならざるをえない。
(1) 暗示的・象徴的な表現
マーラーの音楽には、その意図するところをはっきり直接的に表明しない傾向がある。これを暗示的・象徴的な表現という。それが極めて抽象的な音楽効果をもたらすと同時に、分かりにくくもしている。第6番・第1楽章第1主題はその典型である。前に、古典的な交響曲の第1楽章は、曲全体に対し決定的な意味を持つことを述べた。しかしマーラーの音楽はそうとは限らない。最終楽章こそ重要である、という場合が少なくない。つまり最後まで聞かないと、本当にいわんとするところがつかめない、ということになる。
(2) ロマン的な情緒の抑制
一般的に、ロマンチックなメロディーは音楽の代名詞のように思われている。情操教育に音楽は有効とされるが、この場合の情操という言葉の意味も、ロマン的な情緒と無関係ではありえない。音楽とロマン的な情緒とは、時に同意義でさえある。これを抑制したとなれば、いきおいその音楽は分かりにくいものになろう。
マーラーの音楽(特に中後期)では、このロマン的な情緒が極力抑制されている。旋律をはじめ、さまざまな音の組合せの工夫によってそれを実現している。後期ロマン派(ワーグナーやブルックナー)の音楽については、影響を受けながらも、最終的に振り切って決別している。それがマーラーの選んだ道であった。ユダヤ民族の歴史をふりかえるとき、彼にはそれ以外の道はなかった。情動(ロマン的な心の揺れ)は人を幸福に導くこともあるし、いき過ぎれば不幸に導くこともある。マーラーはそれを知っ
ていたに違いない。ワーグナーの音楽がドイツ・ナチズムに与えた影響を考えれば、そのことは明白である。
感情豊かなボヘミア民謡の影響を強く受けながら、あえて情緒を抑制することで人間を見つめ、マーラーが自らの音楽の純粋性をモーツァルト的な高さにまで高めたことは驚異的である。
音楽から情動を削減すること、これは価値観の大きな転換を意味する。人間的なものは要注意ということである。場合によっては、人間は世界の中心ではない、ヒューマニズムに限界がある、という問題を提起することになりかねない。その先に何があるのだろうか。その先に音楽があるのだろうか。否、そうしない限り描きようのない世界があるはずである。それこそがマーラーの音楽であり、マーラーの音楽の現代性である。
それを「精神分析的な音楽」という人もいる。マーラーが、当時の精神分析学から何らかの影響を受けたことは想像できる。しかしこの言葉は、彼の音楽を形容するものとして必ずしも適切でない。「精神世界の奥深い旅路としての音楽」とでも、いうべきところであろう。ヒューマニズムの限界を見据えつつも、なお心の奥深いところで、人間存在のけだかさに迫ろうとするのが、グスタフ・マーラーの音楽の真実の姿なのである。
以上、第6番を中心にマーラーの創意の跡を追った。それは同時に分かりにくさについての説明でもあった。しかし、それにもかかわらずマーラーの音楽は確固としている。何度聞いても飽きることもない。それはマーラーだからできたのである。常人の及ぶところではない。
ヒットラーはマーラーの音楽を非難し、演奏を禁止してしまった。しかしそのことは、マーラーにとってむしろ栄誉であった。彼の成したことは、スラブの名もない人々の声なき声を、芸術を通して世界に届けたことであり、ユダヤ4000年の文化を音楽に結実させたことであった。
[ マーラーの音楽の現代性 |
1.マーラーとシェーンベルク
上記のマーラーの音楽の特徴は、音楽の現代性に通じている。思うに、何が古典で何が現代かは、時代によって相対的に変化する概念である。現代音楽の祖と仰がれるシェーンベルクでさえ、「既に過去の音楽であり、古典である。」といわれかねない。ここでは、シェーンベルク(マーラーの弟子であった。)が起こした十二音音楽をもって、現代音楽の始まりとする。
ところで、シェーンベルクは自らの作曲技法について、ワーグナーの音楽からヒントを得たとしている。(楽劇「トリスタンとイゾルデ」に現れるいわゆる「トリスタン和声」を意味する。)それはそうかもしれないが、そこにはシェーンベルクの「二つ思い」があるような気がする。
(1) ドイツ音楽の伝統にこだわる、思い
(2) 授業で生徒の興味を高めたい、思い (作曲法を教えていた。)
シェーンベルクは認めないかもしれないが、彼が一番影響を受けたのは、実はマーラーではなかったかと、私は思っている。シェーンベルクが残した次の言葉が、どうしてもそう思わせるのである。
「創造は必要から生まれる。」
これはシェーンベルクの実践的創作観に違いない。しかし同時に、マーラーの創作態度から、弟子として学びとった体感としての言葉ではなかったか。そう思えてならない。マーラーの創造は、必要から生まれた。そのゆえに、シェーンベルクが一番影響を受けたのは、マーラーであったと考える。特に交響曲第7番については、それがいえると私は考える。
さて、マーラーは現代音楽にその方向を示した作曲家といえる。方向を示したのであるから、現代音楽そのものではない。マーラーは、古典的または近代的な手法によって作曲を進めた。しかしその音楽には、以下に示すように現代音楽の驚くべき萌芽が見てとれる。
ここで現代音楽そのものについて詳細に述べるつもりはない。ただ、以下に示す「マーラーの音楽の現代性」が、現代音楽に与えた影響の計り知れないことを記しておく。
2.マーラーの音楽の現代性
(1) 複雑な形式と起承転結の不明確
(2) 要素の交響による音楽構築
(3) ロマン的な情緒の削減
(4) 半音階の多用と不明確な調性
マーラーの音楽には、好んで半音階が用いられる部分(ワーグナーの影響といわれる。)があり、性格の曖昧な和音の中でしばしば半音階が連続するため、調性が不明確となる。即ち、何長調なのか何短調なのか判然としなくなる。また、交響曲の始めと終りで異なる調子を用いる「発展的調性」や、縁遠い調子に向けてたびたび行われる「自由な転調」が、それを助長している。この方向を極限まで延長し、音階上の十二の音を完全に平等に扱うことで、無調による新しい音楽世界が開けることを主張し、作品を作ることで実践したのが、シェーンベルクである。
(5) 音色旋律
ふつうの旋律は、音の高低長短の変化で音楽表現を行うが、音色旋律は楽器の音色の変化で音楽表現を行う。音の動きは少ない。弱音器と呼ばれる音色を変化させるものを楽器にとり付けたり、楽器の演奏に特殊な奏法を要求したり、古典音楽では考えられない楽器(マンドリン等)や打楽器(ムチ、牛の鈴等)を用いたりする。
音色旋律は、注意していないと聞き逃してしまう。そのため、小さな音に耳をそばだてるような場面で、使用されることが意外と多い。ストラビンスキーやその影響を受けた作曲家の作品に、音色旋律が多く現れる。音色旋律は、理論的にも実践的にも、確立した手法とは依然いえない。しかし、シンセサイザー等の電子楽器やコンピューターの驚異的な進歩・普及とともに、今後発展するかもしれない。
(6) 複音楽的な対位法
対位法とは、複数の旋律を組み合わせて同時に演奏させるための作曲技法をいう。その際、それぞれの旋律は共通の領域を持ち合いつつも、個性的であらねばならないとされる。個性とはリズムや音域、音色等を意味する。共通の領域とは、使われる調子(音階)や拍子、同時に演奏されたと きに形成される和音等を意味し、カノン(輪唱)等の追い掛け合う部分もこれにあたる。即ち、ここでいう「対照の関係」にある。これが普通の対位法である。
ところが、マーラーの駆使する熟達した対位法は、ときに互いの旋律の関連性がほとんど薄れ、完全に別個の旋律が自由に動くような「状態」を作り出す。このような「状態」の延長線上に、複音楽という現代音楽の手法がある。よい例ではないが、ラジオからはラジオ体操の音楽が流れ、同時にテレビからはグリーグ作曲の「朝」が流れるようなものである。複音楽において重要なのは「状態」である。評価は定まっていないが、邦楽と洋楽を同時に演奏して、どのような「状態」が作り出されるか、というような試みがなされている。
「状態」とは不思議な緊張感に満ちた均衡(バランス)をいう。たとえていえば、命綱なしで行う高く長い綱渡りのようなものである。容易なことでは実現しない。前に述べた「要素の交響」も、ほとんど綱渡りの技である。