第一部  第 6 番 の 周 辺

第一部では、基礎知識や関連領域について考えを深め、交響曲第6番の輪 郭を描こうとする。


T グスタフ・マーラー

1.ユダヤ人の作曲家

 グスタフ・マーラー Gustuv Mahler は1860年、ボヘミア(チェコスロバキア領)の小村カリシュトでユダヤ人商人の子として生まれた。幼少より音楽教育を受けその才能を現わし、ウィーンで学び指揮者として活躍するとともに、作曲家として大成した。彼の残した作品中、特に9曲(10番は未完)の交響曲、 「大地の歌」、「亡き子をしのぶ歌」は、音楽史上極めて高い価値を持っている。その音楽は、彼の死後まもなく始まった第一次世界大戦や、人類史上 類例を見ないユダヤ人の惨劇を招いた第二次世界大戦、更には環境破壊や人間性の喪失に苦しむ現代までをも、まるで予感しているかのようである。

 マーラーは「やがて私の時代が来る」と言い残した。今、この言葉が意味を持つ。戦後復興の後の好況の一時期を終えて、予測困難な不安の只中に置かれた現代は、彼の音楽を渇望しているように私には思える。テレビではマ ーラーの作品が、やたらにコマーシャルとして使われ、レコード店によっては彼のCDが棚を幾段も使って並べられている。

 しかし、そうした世の中の現象にかかわらず、マーラーの音楽は依然として難解であり、その門は片側が少し開いている程度と思える。ボヘミアの土壌が培ったユダヤの民謡を幼き影として、魅惑的なロマンに袂別し、純粋で芸術的な高みに成長した音楽は、必ずしも分かりやすいとはいいがたい。今なお彼の音楽は、つじつまの合わないこともやむなしとする範囲で、許容され受け止められているのかもしれない。過去の偉大な作曲家に対する忠実な信奉もあいまって、「マーラー嫌い」はいつ始まっても不思議ではない。

 マーラーの音楽は、時間の新しい概念を我々に教える。私は、マーラーの音楽こそ現代人の心を癒すものと信じている。交響的宇宙ともいわれるその音楽には、ユダヤ4000年の文化が息づいている。何より、私はマーラー の音楽に対する誤解を少しでも解きたいと思う。「混乱と諧謔」 「脈絡の欠 如」 「作為と暗鬱」 「世紀末的頽廃」 「厭世的耽美」等の、彼の音楽に浴びせられた非難が、いかに誤ったものであるかを指摘しようする。現代人の生きる知恵ともいえるこの音楽の、必要とされる時代が今まさに来ている 。

2.マーラーの略歴

1860年  ボヘミアのカリシュトに生まれる。
1865年 05歳  ピアノを習い始める。
1875年 15歳  ウィーン音楽院に入学する。
1878年 18歳  ウィーン音楽院を卒業する。ウィーン大学の聴講生となり、哲学や歴史を学ぶ。
1888年 28歳  交響曲第1番を完成する。ブタペスト王立歌劇場の音楽監督に就任する。
1889年 29歳  交響曲第1番を初演する。父母が死去する。
1891年 31歳  ハンブルグ市立歌劇場の指揮者に就任する。
1894年 34歳  交響曲第2番を完成する。
1896年 36歳  交響曲第3番を完成する。
1897年 37歳  ユダヤ教からキリスト教に改宗する。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任する。
1898年 38歳  ウィーン・フィルハーモニー交響楽団の指揮者となる。
1900年 40歳  交響曲第4番を完成し、パリ万国博覧会で演奏する。
1902年 42歳  交響曲第5番を完成する。アルマ・シントラーと結婚する。マリア・アンナが誕生する。
1904年 44歳  交響曲第6番を完成する。「亡き子をしのぶ歌」を完成する。アンナ・ユスティーナが誕生する。
1905年 45歳  交響曲第7番を完成する。
1907年 47歳  交響曲第8番を完成する。マリア・アンナが病気のため死去する。
 ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督を辞任しニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の指揮者となる。
1908年 48歳  「大地の歌」を完成する。
1910年 50歳  交響曲第9番を完成する。
1911年 51歳  5月18日、病気のため死去する。交響曲第10番は未完となる。
 弟子のブルーノ・ワルターが「大地の歌」をミュンヘンで初演する。
1912年  ワルターが交響曲第9番をウィーンで初演する。


U 音楽と民族性

1.国民楽派

 民族性を色濃く表現した音楽はまず民謡であろう。民謡は民族独自の音階や節回し、かけことば等に由来している。したがって民謡を進んで取り入れたり、そこまでいかなくとも民謡を連想させるような音楽は、器楽曲であっても、民族的な音楽といえる。民話を題材にした音楽も同様である。

 こうした作曲家を、音楽史では「国民楽派」と呼んでいる。 シベリウスやグリーグ、スメタナやムソルグスキーが有名である。シベリ ウスの業績は「交響曲第2番」をはじめとして、高く評価されている。グリー グとスメタナは幅広い層に人気がある。しかしロシアのムソルグスキーに いたっては、当時のヨーロッパのアカデミィズムによって一蹴されてしま った。ムソルグスキーが、農奴解放に象徴されるロシア民衆の苦難と希望 を「展覧会の絵」という作品で表現し訴えたことは、意外と知られていない。もともとはピアノ曲であるが、オーケストレーションの達人ラベルによって管弦楽曲に編曲され、現在では多くの支持を集めている。

2.国民性の影響

 民族的な伝統を重んじる際に忘れてならないものは、結局はそこに生まれそこに生きてきた人々への人間愛である。これを見失えば、事態はあらぬ方向へ向かってしまうだろう。広い意味ではあらゆる音楽が、国民性の影響を受けている。バッハやモーツァルト、ベートーベンやブラームスも、その意味では例外ではない。しかし、こうした大作曲家の音楽は、芸術的に極めて高い段階に到達しているために、人類的な普遍性を実現している。このことは第一に彼らの天分や努力によるが、民族の伝統(人間愛)に支えられている、ともいえる。

3.マーラーの音楽とユダヤの民族性

 マーラーは国民楽派には含まれない。後期ロマン派最後の作曲家と見ることもできるが、全て該当するわけではない。ベートーベンがロマン派への橋渡しをしたように、マーラーが現代音楽への橋渡しをしているからである。もともと「楽派」という概念は絶対的なものではない。しいていえば「近代の楽派」とでもいえる。マーラーの音楽、特に交響曲は、その音楽的完成度が普遍的な段階に達 していて、これを民族性という観点だけで推しはかるべきではない。しかし、ボヘミア(スラブ)の風土とユダヤの民族性の理解なくして、マーラーの音楽の理解もありえない、このことも事実である。交響曲第6番にボヘミア風の旋律が多用されることや、第1番・第3楽章に、ボヘミア民謡が陰欝に演奏されることの意義を考えるとき、このことは明らかである。

 V ユダヤの人々

1.ユダヤ民族の歴史の略年表

紀元前  2000年頃  カナンの地(パレスチナ山地とネゲブ砂漠)で遊牧生活
 1700年頃  飢餓のためエジプトへ移住
 1300年頃  エジプトを出て(追われ)荒野を流浪(出エジプト記)
 1020年頃  カナンに戻る、王国の時代(サウル、ダビデ、ソロモン)
 0920年頃  イスラエル王国とユダ王国に分裂
 0721年  アッシリアの攻撃によりイスラエル王国が滅亡
 0587年  バビロニアの攻撃によりユダ王国が滅亡(バビロニア捕囚)
 0539年〜 0537年  ペルシアがバビロニアを征服、ユダヤ捕囚の釈放
 0333年〜 0170年  マケドニアの支配、エジプトの支配、シリアの支配
 0063年以後  ローマ帝国による支配、圧政の時代
紀元後  0001年〜 0030年頃  キリストの生誕、布教、十字架刑
 0067年〜 0068年頃  ユダヤ教とキリスト教の分離
 0066年〜 0070年  第一次ユダヤ戦争(敗北)、ローマ軍による殺戮、ユダヤの死者約110万
 0132年〜 0135年  第二次ユダヤ戦争(敗北)、ユダヤの死者約8万
 0135年以後  ディアスポラ(離散、祖国なき民)の時代→世界各地へ流浪
 0637年  サラセン帝国軍がエルサレムを占領
 1000年〜 1099年  十字軍が、ユダヤ人に対する掠奪と虐殺を繰り返す
 1290年〜 1492年  イギリス、フランス、ドイツ、スペインがユダヤ人追放
 1500年頃  ユダヤ人は、ポーランド、ボヘミア、オランダ等に移住
 1658年  ポーランドでユダヤ人の700の集落をコサックが破壊
 ポグロム … ユダヤ人に対する襲撃のこと
 1700年頃  啓蒙運動とユダヤ人の開放(ルソー、ボルテール)
 1789年  フランス革命、人権宣言、ユダヤ人のフランス国籍取得
 1860年  グスタフ・マーラー誕生
 1880年頃  反ユダヤ運動、全ヨーロッパに広がる→アメリカへ移住する者多し
 1900年  ロシアで5万人のユダヤ人が虐殺される
 1911年  グスタフ・マーラー死去
 1914年〜 1918年  第一次世界大戦、ウクライナで25万人のユダヤ人が虐殺される
   反ユダヤ運動が激化する。→アメリカへ移住する者多し
 1939年  第二次世界大戦、始まる
 1933年〜 1945年  ナチス・ドイツのヒットラー、ユダヤ人を虐殺する。その数、約600万
 1945年  第二次世界大戦、終る
 1947年〜 1948年  国連の決議でイスラエル共和国が独立するが、現在になお問題を残す

2.ユダヤ人が迫害された理由

 歴史年表に示した通り、ユダヤ人は4000年にわたって迫害され、流浪をつづけた。抑圧や迫害を受けた民族は多々あるが、歴史全体が迫害であるような民族は、他に類例を見ない。現在ユダヤ人の人口は1400万人ほどだそうである。いったいなぜ、ユダヤ人はこのように迫害されつづ けたのであろうか。その理由はおそらく簡単ではあるまいが、できるだけ次に掲げてみた。

No.      理 由 と さ れ た こ と        備  考
「神によって選ばれた民」であるとするユダヤ思想
「キリストを十字架刑にした、神に仇なす民」  キリスト教はユダヤ教から分離した
「高利で金を貸し財を成す」という非難  ユダヤ人に許されていた限られた職業
「社会の各分野で群を抜く活躍をする」  
「文化を持たない人種」  ヒットラーの掲げた非難
「聖書を至上の価値とし、かたくなに守る」
「一種の共同社会を営む」
「時間や空間を大きく把握する感性」

 いずれにしても、上記年表に示した数々の虐殺を肯定する根拠は全く存在しない。メソポタミア文明を築いた古代オリエントの身分社会や、インドのカースト制度、日本の士農工商を例に引くまでもなく、ついこないだまで人類の歴史は封建的な社会制度の連続であった。差別は社会構造そのものに深 く巣食い、ナチスドイツに至って残虐の限りを尽くすこととなる。人間を差別することが、いかに人の道にはずれ社会に害をなすかについては、古来、心ある多くの人々が指摘したところである。釈迦は「慈悲」という言葉を使ってそのことを説いた。キリストは「博愛」という言葉を使ってそのことを説いた。古代中国の孔子は「仁・敬愛」という言葉を、同じく諸子百家のひとり墨子は、「兼愛」という言葉を使って説いた。にもかかわらず、目を覆うような不幸がこれでもかと繰り返される。ユダヤの歴史を振り返るとき、私は、差別における心の病巣、罪を生き罪に焼かれる人間の深い「業(ごう)」とでもいうべきものに、突き当たらざ るをえない。

W マーラーの音楽のふるさと


1.マーラーの幼少年時代

 マーラーが生まれてまもなく、一家はカリシュトからイーフラブァの町に転居した。ここで父親のベルンハルトは、酒造工場と居酒屋を営んだ。父親は仕事もほぼ順調で、町のユダヤ人会の役員を勤めていた。居酒屋には、土地の流しのバンドが来ていたとも伝えられる。同年代の子どもたちからは、いじめられていたようである。幼年時代のマーラーは一人で遊ぶことが多く、近くにあった陸軍の施設を訪ねては、 数多くの行進曲や兵士の歌を覚えたという。また、家で働いていた家政婦から200曲を越えるボヘミア民謡を習い、口ずさんだりアコーディオンで弾いたりした。幼年時代のこうした体験が、後のマーラーの作品になお息づいている。

2.西洋音楽の流れ

 西洋音楽の源は一概には論じられない。ただ、教会の祈りとともに音楽の芽が育っていったことは事実である。声と声を歌い合わせる試みがつづけられ、楽譜も進歩していった。教会調という音階によってゆったりとした旋律が作られ、旋律と旋律の組み合せが工夫され、和音の発見に結びついていった。そのためには中世からルネッサンスにかけての、長い時間が必要であった。世俗的な音楽も当然影響したであろう。やがて教会では、祈りとともに合唱曲が歌われるようになった。ここに西洋音楽の始まりがあったという考えには、大きな異論はないであろう。
 合唱曲は更にカノン(先行した旋律を模倣して歌う輪唱)や、カノンを一層複雑にしたフーガに発展し、楽器だけで演奏されるようになった。およそ17世紀から18世紀にかかるこの時代を、音楽史ではバロック音楽の時代と呼ぶ。バロック音楽はJ.S.バッハによって頂点に達することとなる。
 器楽の発達とともに、オクターブを12等分する平均律という音律と、平均律による長調・短調の音階が重要視されるようになり、教会調はすたれていった。このころから、教会音楽と芸術音楽は分離することと なる。和音に関する理論が整備され、作曲技法も進歩し楽器も発達した。そこにモーツァルトやベートーベンという希有の天才が出現して、交響曲を始めとする幾多の名曲が生み出された。この頃を古典派の時代と呼ぶ。 クラッシック(古典的)音楽という言葉は、ここから出ている。その後に ロマン派の時代がつづき、よく名前を知られた作曲家が大勢活躍することとなる。以上が、ごくごく簡単な西洋音楽の流れである。 

3.マーラーの音楽のふるさと

 (1) 作曲技法上のよりどころ

 マーラーの場合も、作曲技法的には、上記(2)の西洋音楽の流れの上にのっている。西洋音楽の歴史的発展に支えられて、マーラーの音楽も成り立っている。交響曲第6番とて例外ではない。ただそれは、もっぱら技術面の話である。音楽は、ただ単に音符が規則にのっとって動けばよいというものではなく、人間の精神と深い関わりを持っている。マーラーの音楽が表現する精神的な内容は、独自のルーツを持っている。結論としてそれは、ユダヤ教的な精神世界とキリスト教的な精神世界がそこで融合した、ボヘミアの風土から生まれてきた音楽なのである。

 (2) 祈りと音楽

 ユダヤの人々の間では、毎週金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日とされ、家庭内で祈りが捧げられる。出エジプト記をその起源とする幾つかの祝祭日には、各家庭ごとの交流もあるという。シナゴーグと呼ばれる施設があったが、教会と集会所が一緒になったようなもので、キリスト教の教会とはまた違っていた。シナゴーグは数が限られていたが、マーラーの住んでいたイーフラブァの町には設置されていた。名前をヤコブ教会といった。そこでは、正統なユダヤ教音楽としてラビ(僧)の祈りの朗唱が歌われていたが、それ以外にキリスト教の合唱曲や東ヨーロッパの大衆音楽も歌われ、入り混じった状態だったようである。これがボヘミアらしさということであろう。マーラーはヤコブ教会の少年合唱団に所属していた。この体験はマーラーの精神的な成長に少なか らぬ影響を与えるとともに、合唱への関心を高めたものと考えられる。彼が交響曲に合唱を多用した一因は、この辺にあったのであろう。

 (3) ボヘミアの旅芸人

 しかし、マーラーの音楽の精神的なよりどころを、シナゴーグの音楽だけに求めるのには無理がある。それだけがボヘミアの風土ではないからである。もっと奥深い原体験というようなものがあったのではないかと、私は考える。前にマーラーの幼少年時代を紹介したが、その中で次
の二点が大切である。

@ 近くにあった陸軍の施設を訪ねては、数多くの行進曲や兵士の歌 を覚えた。  
A 家政婦から、200曲を越えるボヘミア民謡を習い、口ずさんだりアコーディオンで弾いたりした。

 交響曲第6番をはじめとして、速めのテンポの、はぎれよい行進曲風のリズムが、マーラーの音楽では多用されている。それは@の体験が影響しているものと考えられる。@はもちろん大切である。しかし@だけでは音楽は発展しない。曲のそこかしこに現れるボヘミア風の旋律が重要な役割を担っている。それは主題として音楽全体を構築する。 したがって私は、Aが一層大切であると考える。ただし、家政婦その人自身ではない。家政婦に200曲を越える民謡をそらんじさせたボヘミアの伝統や音楽文化の中に、マーラーの音楽の精神的な原点がある。 それが私の言おうとするところである。

 およそ伝統文化というものは、守り育てることがなければやがては消 滅してしまうものである。では、ボヘミアの音楽や伝統を守り伝え広めたのは誰なのか。それは「ジプシー」と呼ばれる人達であった。ユダヤ人もいたし、そうでない人もいた。彼らボヘミアンの内の幾人かは、楽器を片手に各地を放浪する旅芸人となり、祈りと民謡を魂とした。19世紀、戦争の足音が近づき、己と国の利益にだれしも目の色を変えるとき、彼らは差別に耐え、奏で歌い踊った。貧しいが、人間として自由であった。こうしたボヘミア音楽の旅芸人達に、「クレズモリーム」や「レザン」や「バダン」と呼ばれる、さまざまな音楽グループを作った人々がいた。

 ここでは、代表して「クレズモリーム」の人達について述べていくこととする。その音楽を「クレズメル音楽」と呼ぶ。「クレズメル音楽」は、ユダヤの民謡であり、東ヨーロッパの民謡であり、それらが混ざったもの、要するにボヘミアの民謡であり、伝統であり、風土であった。太棹三味線で旅して回り、津軽の民謡を広めた方達のことが、なぜか頭をよぎる。伝統を守り伝え広める人に、洋の東西の区別はないのかもしれない。

 太平洋戦争後に、日本の街で「ウシュクダラ」という歌がはやった。 あれはボヘミア(スラブ)の民謡である。ボヘミアの民謡は概して暗い歌が多いが、中には陽気な歌もある。歌の内何曲かは、「イディッシュ語」という、ユダヤ人の言語で歌われた。イディッシュ語は、16世紀ドイツを追われボヘミアに逃れたユダヤの人々が、話していた言語である。あまり正確な説明ではないが、中世ドイツ語がボヘミア地方でユダヤ風に(ヘブライ語風に)訛った言葉で、残念ながら現在ではもう使われていない。

 ところで「ジプシー」という言葉は、あまりよい言葉とはいえない。ユダヤ人の流浪は、遠く「出エジプト」に遡る。そのことから、ヨーロッパの人々は流浪する人を見ると、ユダヤ人であれ、そうでない人であれ、「エジプトの方から来た者」という意味で「エジプシー」「エジプ シー」と呼んだ。この「エジプシー」を更に縮めた言葉が「ジプシー」なのである。「ロマ」−彼らはこう呼ばれることを願っている。ここではやむなく「ジプシー」という言葉を使っている。

 (4) 器楽合奏としてのクレズメル音楽

 さて、クレズモリームの人達は歌を歌うことが多かったが、踊ることもあった。また、楽器だけで演奏(器楽合奏)することもあった。使れた楽器は、バイオリンやギター、クラリネットやチューバ、それとアコーディオン等の庶民的な楽器であった。

 歌謡風の曲や、単純なリズムをくりかえすフォークダンスのような曲などが演奏されたが、その中で特に注目されるのはラプソディー(狂詩曲)と呼ばれる様式の音楽である。 

 ラプソディーは、暗く陰欝なアダージョの第一部に始まり、これがしばらくつづいた後、一転して熱狂的に踊るようなアレグロの第二部に入り、激しく上下する細かい音符を、断ち切るように終る様式の音楽である。第一部は、おそらくは抑圧を耐え忍ぶのか、多くの場合バイオリンが担当して、ゆったりとむせび泣くように弾いていく。第二部は、多くの場合クラリネットが担当し、他の楽器も随時加わって、速いテンポで生き生きと演奏する。まるで、日が変わりユダヤの祝祭日が来たかのように。

 ここで重要なのは、第一部から第二部への変化である。この変化には二通りの解釈の可能性がある。 

@ 第一部から第二部へ「唐突」に変化する。
A 第一部から第二部を導けない。

  @は旧来からの古い考え方である。自然な発展ではないが、ラプソディーとはそういうスタイルの音楽である、とする一般的な解釈である。一方Aは、マーラーの音楽を理解する上で欠かせない、新しい考え方である。「抑圧を耐え忍ぶ生活」を「自然に発展させる」ことなど、理解不能である。後で述べるが、このような互いに関連性の薄い第一部や第二部を、ここでは「要素」と呼ぶ。

 (5) マーラーとクレズメル音楽の接点

 マーラーが、ボヘミアの音楽を何かの機会に耳にしたということは、充分に考えられる。しかし残念ながら、マーラーがクレズメル音楽に直接的に接したという記録を、現在までのところ私は確認していない。ただ、接していないという記録もない。それが事実である。ケン・ラッセル監督の映画「マーラー」では、少年時代のマーラーが、ライエル(鍵盤のない小さなアコーディオン)を弾く放浪者から、影響を受ける場面が美しく象徴的に描かれている。客観的にはフィクションであろうが、このライエルマンはボヘミアの文化のことと想像される。

 私がここで述べたいことは……

@ ボヘミアの音楽的な伝統の継承に、クレズモリームの人達が大きな役割を果たしたこと。
A ボヘミアの音楽的な伝統の環境下で、マーラーがその幼少年期を過ごしたこと。

 ……の二点である。

4.マーラーにおけるボヘミア民謡の影響

 マーラーは、ボヘミアの伝統文化から強い影響を受け、自らの楽曲の中にボヘミア民謡、もしくはボヘミア風の旋律を頻繁に用いている。その使い方は、およそ次の三通りに分類できる。

@ 直接的に用いた例…交響曲第1番「巨人」第3楽章・第1主題ボヘミア民謡「兄弟ヤコブ」他
A 間接的に用いた例…ボヘミア風の旋律。第6番・第4楽章第1主題、第7番・第4楽章第1主題、他
B 暗示的に用いた例…独自の旋律であるがボヘミア風でもある。第6番・第1楽章第1主題、他
※ 主題…その曲を作る元となる大切なメロディー(旋律)のことで、テーマともいう。
  

 作曲家が自分の作品の中に、@のように民謡を直接用いる場合(よほど特殊な意図がない限り)自分の作品が、その民謡や伝統文化の強い影響を受けていることを、認めているものと解釈できる。また、Bはマーラーらしい用い方で暗示的な表現となるが、同時に彼の音楽を分かりにくいものにしている。この点については、後で詳しく述べる。

 マーラーの音楽は、たとえそれが楽器のためのものであっても、本質的に歌としての性格を持っている。その証拠にマーラーの交響曲には、ベートーベンの第九のように、歌詞を伴ったものがある。第2番、第3番、第4番、第8番である。傑作「大地の歌」は、古い中国の詩によっている。マーラーは、たとえ器楽曲であっても、意識してかしないか、作品に歌の性格を織り込んでいったと考えられる。特に交響曲第6番・第3楽章や、第1番・第1楽章と第3楽章は、そのことが端的に現れた例である。ボヘミアの民謡が影響していることはいうまでもない。

5.ドビュッシーの批評

 ドビュッシーは、描写音楽(風景を絵のように、詩的に描く音楽)を得意としたフランスの作曲家である。マーラーの交響曲がパリで演奏されたときのこと、聴衆の一人であったドビュッシーは、次のように批評した。「スラブ的である。交響曲はもはや無用の長物である。」

 マーラーの交響曲にスラブ(ボヘミア)の風土を聞き取ることは、ドビュッシーにとっては容易であったろう。ただし誉めているのではない。「田舎くさい」といっているのである。交響曲が必要か無用かは、何を表現しようとするかで違ってくることである。次は、その交響曲について述べる。

X 交 響 曲


1.約束ごと

 そもそも交響曲とはどのような音楽であろうか。交響曲とは、西洋音楽において最も発達した器楽合奏曲である。ふつう4〜5楽章より成り、その内少なくも1つの楽章がソナタ形式をもって作られたオーケストラのための音楽、といえる。これが古典的な交響曲の約束ごと(定義)である。ソナタ形式によるべきことは、全体が緻密に、有機的に発展しなければならないことを意味する。少なくも1つの楽章がソナタ形式によるから交響曲なのであって、そうでないとしたら、交響詩や組曲との区分が極めて曖昧なものとなってしまう。

2.ソナタ形式

 音楽は時間の流れの中で、ある形をもって構築される。ソナタ形式とは提示部、展開部、再現部よりなる、大きく発達した三部形式である。古典派の作曲家によって基本的な姿が確立され、ベートーベンによって頂点に達し、ロマン派の作曲家によって一層発展して、自由な形となっていく。

 (1) ソナタ形式の基本的な略図

 古典的なソナタ形式は、およそ次のような形をしている。ベートーベンは、序奏部や終結部を拡大していったことで知られている。

序奏部 < た と え >
提示部 第1主題と第2主題が示される これから作る料理の材料がはっきり示される部分
接続句
展開部 第1主題と第2主題が発展する 食材を切ったり、熱を加えたりして料理する部分
接続句
再現部 第1主題と第2主題が再び示される できあがった料理を、皿に盛り食卓に並べる部分
終結部

 (2) ソナタ

 ソナタ形式を用いて作られた(ふつう第1楽章がソナタ形式)器楽曲をソナタ(奏鳴曲)という。

@ 独奏楽器のためのソナタ(3〜4楽章)…… ピアノソナタ、バイオリンソナタ、フルートソナタ等
A 小規模の器楽合奏(室内楽)のためのソナタ… 弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、クラリネット五重奏曲等
B 独奏楽器とオーケストラためのソナタ …… ピアノ協奏曲(コンチェルト)、バイオリン協奏曲等
C オーケストラのためのソナタ ……………… これを 交響曲 という。

 (3) 後期ロマン派のソナタ形式

 19世紀、ブルックナーやR.シュトラウスを始めとする後期ロマン派の作曲家は、ソナタ形式を極限にまで拡大し、非常に複雑なものとした。大編成のオーケストラを用い、演奏時間が1時間を優に越える交響曲を好んで作曲した。ハンスリックに代表される新古典派の批評家は、それらの長大な作品を「大蛇がとぐろを巻いたようなもの」といって酷評した。この批評の是非は意見の分かれるところである。ともあれ後期ロマン派のソナタ形式は、マーラーに大きな影響を与えることとなる。

 (4) マーラーのソナタ形式

 マーラーのソナタ形式は、交響曲第6番以降、複雑さを極め形式の限界に達する。ソナタ形式といえなくもない、とすべきところであろう。マーラーの音楽を形式学的に分析する試みは幾つか行われているが、分析者泣かせといわざるをえない。そもそも提示部、展開部、再現部の境目がはっきりしない。たとえば第6番・第1楽章では、再現部における主題が変化しているために、まだ展開部がつづいているように聞こえる。提示部の途中のはずなのに展開が始まったり、展開部がまだ終っていないのに再現が始まったり、というぐあいである。マーラーの交響曲の複雑さ(ソナタ形式の限界的な拡張)については第二部で詳しく述べる。

3.第1楽章の重み

 古典的な交響曲にあっては、第1楽章が極めて重要な意味を持つ。序奏(イントロダクション)があれば主部の冒頭で、なければ曲の冒頭でいきなり、かつ明確に作曲家の意図するところが表明され、その楽想が曲全体を支配する。

 こういった方法には、日本的な感性ではなかなかなじめないかもしれない。伝統的な日本人は、人に向かっていきなり自分の意見を発表したり、要求をつきつけたりすることを恥とし、おくゆかしさを大切にしてきた。

 しかし西洋的なこの表現方法は分かりやすい。何より最初からはっきりとものをいうことは、表現の基本である。特に国際社会にあっては、発言がなければ考えがない、明確でなければ信頼がない、とされかねない。ともあれ古典的な交響曲の第1楽章は決定的な意味を持ち、ほとんどの場合ソナタ形式によって作られている。

 これに比べて、後に述べるが、マーラーの音楽では一般的に最終楽章が重要な意味を持つ。

4.構成面からの把握

 音楽は必ずしも整然とした構成をもつとは限らないが、歌詞を持たない器楽曲にとって、形式(構成)は訴えるところを語る言葉といえる。その意味で、必ずしも正確にはいかないが、ソナタ形式を形式論理学的に見ると次のようにいえる。 

 (1) 古典的なソナタ形式における第1主題と第2主題は「対照」の関係にある。「対照」の関係とは、シンメトリックということではない。それぞれ異なる性質ではあるが、互いに共通の部分を持ちあうことを意味する。(たとえ=男⇔女〜人が共通、峰⇔谷〜山が共通、白鳥⇔黒鳥〜鳥が共通)

 これに比べて、後に述べる「対の楽想」は全く違う意味を持つ。

 (2) 大きな三部形式としては、三段論法につながる。三段論法は、特に時間を意識しない条件下で、シンプルに成立する論理の発展である。(たとえ=私は日本人である。→日本人は人間である。→私は人間である。) 

 (3) 提示部の第1主題を「起」、提示部の第2主題を「承」、展開部を「転」、再現部を「結」と見做すと、「起承転結」の形をしている。起承転結は、一定の時間の流れの中の条件下で、因果律から導かれる経験的・形式論理的な美学である。(たとえ=雪が降ってきた。→子どもが雪だるまを作りだした。→ところが坂道だったので、雪玉と子どもがころがってしまった。→坂道の下で、雪玉と子どもが一緒になって雪だるまになった。)

5.各楽章間の関連

 (1) 室内楽等の比較的小さな楽曲では、3楽章構成のものが多かった。 典型的な楽曲は次のような形をしている。第2楽章はゆるやかな速度で演奏され、緩徐楽章と呼ばれる。

   ◇ この場合は「対照性による楽章構成」として把握される。

第1楽章  ソナタ形式  快速に
第2楽章  歌うような三部形式、または変奏曲  ゆるやかに
第3楽章  ロンド形式  快速に

  ※ ロンド形式 …… 主題が何度もくりかえされる音楽のスタイル、もとは輪になって踊る古い踊りに由来する。

              (A)をロンド主題とすると 、(A)→(B)→(A)→(C)→(A)→(B)→(A)の形をとる。

  ※ 変奏曲 ……… 主題を変化させながら何度もくりかえす音楽、 主題→変奏1→変奏2→変奏3→変奏4→

 (2) 交響曲のような大きな楽曲は、上記にもう一つ楽章を加えて4楽章にしたものと考えられる。

  @ 緩徐楽章(緩)の後に置く場合 … 急→緩→急→急

   ◇ 「対照性による楽章構成」として把握される。

   ◇ 「起承転結による楽章構成」としても把握可能。この把握は、「承」が緩徐楽章である分、やや難点がある。

  A 緩徐楽章(緩)の前に置く場合 … 急→急→緩→急

   ◇ 「起承転結による楽章構成」として把握される。「転」が緩徐楽章である分、一層すぐれている。

   ◇ 「対照性による楽章構成」としても把握される。

 (3) 5楽章以上の場合は、各楽章をシンメトリックに配置したり、物語によったり、さまざま工夫する必要がある。シンメトリックに配置した例としては、バルトーク作曲「弦楽四重奏曲・第5番」が有名である。

 いずれにしても、交響曲の各楽章は密接に関連しあい、曲全体を通して有機的に発展するといえる。 

6.マーラーの考え方

 記録によると、マーラーは交響曲に対して次のような考え方を持っていた。「私にとって交響曲を作曲することは、可能な作曲技法の全てを使い、 一つの新しい世界を創造することである。常に変化する内容が、交響曲の形式を決定する。」

 第6番は、この考え方の典型的な実践例といえる。後半は、音楽の生成発展が形式に優先することを述べたものと考えられる。たとえていえば、履歴書を作るようなものである。簡単な履歴内容であれば、既成の履歴書を買ってきてそれに書き込めば用が足りるであろう。しかし内容が複雑になれば、それにあわせて様式を変えなければならなくなる。「常に変化する内容が、交響曲の形式を決定する。」とは、そのよう なことをいっている。作曲にあたり、マーラーの意識に「交響的変容」と いう概念があったことの証拠といえる。

 ところで、変奏と展開と変容とはどう違うのであろうか。変奏とは、元となる主題を、基本的な形を守った上で、かつその主題の 本質を損なわない範囲で変化させて、何回も繰り返すことをいう。時間の流れの中で、原因から結果を導くことといえる。展開とは、変奏を一層発展させて、主題の本質はかろうじて残されるものの、主題を短縮したり、分解したり、別の形にしたりすることをいう。変容とは、極限に達した展開をいう。その際、複数の「要素」が影響しあう展開を、「交響的変容」という。