第二部  マーラー・交響曲第6番


第二部では、実際の楽曲に基づいて解説を行い、核心に迫ろうとする。日頃、音符などには

あまり縁のない方にもお読みいただきたいので、解説にあ たり楽譜は一切用いていない。 



グスタフ・マーラー作曲/交響曲第6番・イ短調 「悲劇的」


♪ 完成年代 … 1904年、1905年(オーケストラ用の楽譜の完成) 

♪ 初   演 … 1906年5月27日、場所・エッセン、指揮・作曲者  

♪ 演奏時間 … 約80分                           

♪ 編成規模 … 4〜5管編成、弦楽5部、ハープ、チェレスタ、打楽器群


 第6番は、マーラーにおいて画期的な作品であるばかりでなく、現代にまで影響を及ぼす注目すべき交響曲である。 拡張された形式の中で行われる表現は、驚くべき創造性を含んでいる。

  標題「悲劇的」については、初演のとき作曲者自身がこの言葉を使って曲の紹介をしたため、そう名づけられたとされている。なぜマーラーが「悲劇 的」と紹介をしたのか、その理由ははっきりとは伝わっていない。当時、マ ーラーはウィーン宮廷歌劇場の芸術監督を勤め、大きな権限を持っていた。ヨーロッパ音楽界の重鎮だったのである。初演前のリハーサルに実に1週間 を費やしたことが、それを物語る。その作品が「悲劇的」というのであるから、ある意味で不思議である。そのため、いろいろな説が出された。その中で、将来に対する不安を表現したという説は、かなり説得力を持つ。事実、 初演から約3年後、長女マリアを病で失い、自らの心臓病も発見され、宮廷歌劇場の芸術監督を辞任することとなる。また、曲の色調(和音)の変化について明暗が激しく交替するからとの説も興味深い。それらは正しいが、なお、いまひとつ核心をついているように思えない。


T 第 1 楽 章


 ソナタ形式、イ短調、4分の4拍子アレグロ エネルジコ・マ ノン トロッポ (快速に、力強く、しかし節度をもって)

1.構 造 図

 第1楽章は、あえて示せば、およそ次のように構成されている。
 提 示 部  展 開 部  再 現 部  終 結 部
小序奏 1 第1主題の展開 1 第1主題の変化再現 小序奏 2
第1主題 第1主題の展開 2 (1主変化確保) 終結楽想 A
(1主確保) 第1主題の展開 3 推 移 終結楽想 B
推 移 展開楽想 A1 変化経過句 終結楽想 C
経過句 展開楽想 A2 第2主題の変化再現 終 結
第2主題 第2主題の展開 1 (2主変化確保)
(2主確保) 第1主題の展開 4
小終結 展開楽想 B
(反 復) 展開楽想 C
第2主題の展開 2
第2主題の展開 3

2.構造図の補足

 (1) 提示部

  @ 提示部は反復(くりかえし)して演奏するよう指定されている。
  A 経過句は推移から導かれたものと考えられる。

 (2) 展開部

  @ 第1主題の展開1・2・3・4は、おもに主題の発展部分を展開している。(中心部分ではない。)
  A 展開楽想Aは、第1主題と経過句が発展したものと考えられる。 
  B 第2主題の展開1は、主題の中心部分を展開している。    
  C 展開楽想Bは、経過句が発展したものと考えられる。     
  D 展開楽想Cは、経過句と第2主題が発展したものと考えられる。 
  E 第2主題の展開2・3は、主題の発展部分を展開している。(中心部分ではない。) 
                                  
 (3) 再現部

  @ 第1主題は変化して再現され変化して確保される。      
  A 経過句も変化して再現される。               
  B 第2主題も変化して部分的に再現される。          

 (4) 終結部

  @ 終結楽想Aは、展開楽想Aが発展したものと考えられる。   
  A 終結楽想Bは、展開楽想Cが発展したものと考えられる。   
  B 終結楽想Cは、第1主題と第2主題の更なる展開と考えられる。
  C 終結は、終結楽想Cが発展したものと考えられる。     

3.特筆すべきこと

 (1) ソナタ形式としての限界

   第1楽章はソナタ形式としての限界に達している。

提 示 部 展 開 部 再 現 部 終 結 部
? ? ?


   古典的なソナタ形式の輪郭をなんとか見てとれるが、再現部に問題が集中している。

  @ 第1主題が変化し、イ長調の性格を帯びて再現する。
  A 経過句も、リズムが細かく変奏されて再現する。
  B 第2主題は分解され、展開されながら再現する。

   このようなことはいずれも、古典的なソナタ形式では到底考えられない。第1主題も第2主題も、再現部においては元通りの姿で再現されなければならない、それが伝統的なソナタ形式である。ただその場合でも音の大きさが変わったり、担当する楽器が変わったり、ということは昔からあった。マーラーは、それを極限まで拡張したのである。その結果どういうことが起きるであろうか。

 (2) 再現部のないソナタ形式

   その結果、とりあえず再現部としたが、本当に再現部かどうか怪しいという事態が生じる。即ち、展開部の後に第2の展開部があることになる。

第 2 展 開 部 変化的な再現部 展開的な終結部


   もし、そうなら……

提 示 部 第1展開部 第2展開部


   …… という把握が可能となる。しかしこれでは各部のバランスが悪いことは一目瞭然である。                 

 (3) 提示部の反復

  昔から、ソナタの第1楽章の提示部は反復記号で挟まれていた。しかしそれは習慣的な意味あいが強く、演奏に際して守られることもあれば守られないこともあった。マーラーは、このような長い小節にまたがる反復記号をめったに使わなかった。交響曲第6番・第1楽章の提示部の反復指定はめずらしい例である。この反復指定は必ず守らなければならない。守らなければこの曲を演奏したことにならない。反復しなければならない理由は、幾つかあげることができる。

  @ 初演の際、作曲者自らが指揮して反復を行い範を示した。
  A 上に述べたように希少価値がある。
  B 反復し提示部を2回演奏することで、1楽章全体のバランスが保てる。
  C 再現部とは要するに提示部をもう一度くりかえすことに他ならない。そこで、あらかじめ提示部を2回演奏しておけば、展開部の後の再現部を省略できる。

  ここで重要なのはBとCであり、@とAは必然の結果といえる。提示部を反復することで……

第1提示部 第2提示部 第1展開部 第2展開部 終結部


  マーラーの求めた拡張されたソナタ形式が実現する。展開部が連続することが重要である。マーラーはこの中で、対立する第1・第2主題の要素的葛藤、変容と止揚を表現したのである。         
                   
 (4) 他の拡張されたソナタ形式の例

  この時代には、マーラーが行ったように、ソナタ形式を拡張する試みが幾つかあった。その中で特に注目されるのはシベリウスである。シベリウスの傑作、交響曲第2番はやはり拡張されたソナタ形式で作られていて、それは「展開部→提示部→展開部」という倒置形をしている。

 (5) 第1主題

  第1主題は、マーラーらしい極めて暗示的な主題である。まず低音弦と小太鼓が、行進曲風のリズムをフォルテ(大きく)で打ちつづける。短調の主和音の連打ではあるが、一見して力強い印象を受ける。ほどなく第1バイオリンに現れる第1主題も、付点音符のリズムを伴って、音量も大きく、いかにも勇ましい雰囲気である。しかし本当にそうであろうか。それほど威勢のいい第1主題なのであろうか。試しに次の作業をしてみてほしい。

  @ 和音の連打を取り去り、第1主題だけを抜き出す。
  A 第1主題の付点音符を普通のリズムに直す。
  B ゆっくりめの速度で、ピアノで弾くなり、歌うなり、イ短調だから学校の縦笛で吹くなり、してみる。

  上記の作業を忠実に行うと、この第1主題が極めてボヘミア風の旋律であることが分かる。暗く深い悲しみを切々と歌うような旋律である。たとえていえば(飛躍するが)、日本なら「五木の子守歌」のような旋律である。即ちこの第1主題は、もの悲しいボヘミア的な情緒を、大きな音量や、はやめの速度や、付点音符や、和音の連打で隠して成り立っている、といえる。ここではこれを、マーラーの暗示的表現、もしくは象徴的表現と呼ぶ。

  では、なぜそのような表現方法をとるのであろうか。なぜボヘミア風の旋律をすなおに演奏しないのであろうか。

 (6) 暗示的表現を行う理由

  分かりやすくするため、「五木の子守歌」を例にとって説明をつづける。もし、「五木の子守歌」をそのまま(ごく基本的な編曲はやむなしとして)オーケストラで演奏したらどうなるであろうか。おそらく、この歌の情緒を醸し出して、オーケストラの美しい響きが奏でられることであろう。民謡版・NHK名曲アルバムというところである。しかし、そこまでである。それ以上にはならない。この方法では交響曲は実現しないのである。マーラーがこのような暗示的表現を行う理由は幾つか考えられる。

  @ 交響曲という極めて発達した音楽様式を用いて、自分の主張を表現しようとした。
  A 主題の複合性を追求した。                
  B 暗示によって、聞く者に自由なイメージの発想を期待した。  
  C ユダヤの歴史、スラブの風土を直接的に表現することを、あえて避けた。第1番・第3楽章で「告白済」である。
  D 秘めて(奥深いところに)こそ価値がある、という美意識を持っていた。

 (7) 主題の複合性・単一性

  単一性とは、ただひとつの性質を有することであり、複合性とは、複数の性質を合わせ持つことを意味する。音楽史上、楽曲の核となる主題が複合性を持つという例を、マーラー以外に捜すことは、おそらく簡単ではないだろう。主題とはそもそも単一性をもって成り立つべきものなのである。

  分かりやすく、主題に修飾語をつけて説明する。たとえばベートーベンの交響曲において、「英雄の主題」は英雄に徹し、「苦悩の主題」は苦悩に徹し、「喜びの主題」は喜びに徹し、即ちこれらの主題は純粋性もしくは単一性に徹底している。バッハやモーツァルトの純音楽的な(修飾語のつけようがない)主題においても、その純粋性もしくは単一性は徹底されている。ひとつのもの、主なるものであればこそ、「主題」なのである。だから、起承転結を伴って整然と発展する音楽が実現するのである。

  主題の単一性は、後期ロマン派のワーグナーの楽劇においてさえも指摘できる。「ジークフリートの主題」は、これこそ主人公ジークフリートという疑いない単一性描写をもって表現される。

  しかしである。ひるがえって考えるに、人間の精神はそう簡単に一色で色分けできるものであろうか。おそらく、精神における単一性は特殊であり、複合性は一般であろう。たとえば、立直れないほどの悲嘆に沈み込んだり、逆に溢れるばかりの歓喜に満ち満ちたり、ゆるぎない信念に燃え上がったり、あるいは博愛の高い心境に立ったり、安心立命の境地に至ったりして、精神が強い純粋性・単一性を発揮することは確かにある。ただ、それは特殊な状況である。  

  人間を見つめてみよう。不遇の連続に日々悩んでも、虚ろな明るさを演じ、もがくように何とか道を切り開こうと努めるのが、人間ではないか。今日というめでたい日にも、見えない明日への不安がぼんやりと影を落とす、それが人間の暮らしではないか。それが一般で、何が悪かろう。疲れた、でももうひとがんばりしなければ。これはプラスあれはマイナス。きりがない。

  ひとつのことに集約できるとは限らない、これが精神における複合性である。「人間は信念のままに生きられるとは限らない。」 … これが人間の精神を取巻く実情である。究極の信念ともいえる信仰でさえ、改めざるをえないぎりぎりの選択もありうる。

  ここで、マーラーに向けられた最も鋭い非難についてふれておこう。既にマーラーの略歴に示した通り、ブラームスの推薦によりウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任する際、彼はユダヤ教からキリスト教に改宗している。マーラー37歳のときのことである。「名誉欲のために何ということを、あまたの殉教者が史上にいるのに」 … そう非難するのはたやすいし、厳しくもっともでもある。

  しかし私は、彼を批判する気には到底なれない。第一に、ユダヤ人が宮廷歌劇場の芸術監督に就任することは認められない、という当時の差別があった。ユダヤ人に許されていたのは、金貸し業をはじめとするキリスト教徒の嫌がる仕事ばかりであった。アインシュタインは学校の先生に成りたかったが、これもユダヤ人に許された職業ではないために、技師の道へ進まざるをえなかった。マーラーは自己の存在意義を音楽以外に見出だせる人ではない。音楽家にとって、活動の場を奪われることは、ほとんど絶望である。

  第二に、彼をあてにする家族がいた。14人の子どもの内7人は幼くして亡くなり、両親は既に他界していた。残された7人の家族の内4人をマーラーは世話していた。生活が成り立たなければ、音楽どころではない。指揮棒を振ることなしに、彼の音楽は実現しなかった。

  第三に、オーケストラはマーラーの音楽の、代替のない表現手段であった。彼の作品には、ピアノ伴奏の歌曲や未完の室内楽曲も幾つかあるが、主要な作品はそのほとんどがオーケストラで演奏される音楽である。指揮者として常にオーケストラと関わることが、マーラーにはどうしても必要であった。

  ユダヤ人の著名な作曲家としては、メンデルスゾーンがいる。裕福な銀行家の家庭に育ったメンデルスゾーンの音楽は、ユダヤ文化が香るものではなく、ロマン的な西洋音楽であった。西洋音楽を演奏するユダヤ人の演奏家は音楽史上多数いた。しかし19世紀以前において、ユダヤ文化の伝統を自らの音楽で表現し、その楽譜を残したユダヤ人の作曲家は、ただひとりマーラーだけである。4000年の歴史のまにまに幾度となく現れた恐ろしい深淵に、訳も分からぬまま飲み込まれたユダヤの民の叫びや願い、思いや望みを、後世の世界に届けることがマーラーに与えられた天の使命であった。殉教者はマーラーを責めないであろう。

  ここまで書いてきて、ようやく私はマーラーの苦悩の一端を知ることができる。しかしそれは所詮、頭で理解した一部分でしかない。改宗などということを誰が望んでしようか。マーラーこそ一番苦しんだその人なのである。彼の心には、決して癒えることのない傷跡が深く残ったに違いない。それはマーラーにしか分からない。彼の妻アルマはどうだったろう。何不自由ない家庭に育ち、ウィーン社交界の花であった才女は、精一杯マーラーを支え、理解に努めたのである。アルマの著した「マーラー、愛と苦悩の回想」の最終章「終焉」は、マーラーを聖者と讃えて結ばれている。しかしマーラーの苦悩は、いかんともしがたかった。ユダヤの人々の苦しみが本当に分かるのが、ユダヤの人々だけであるとするなら、「悲劇的」としかいいようがない。

 (8) 暗示的な第1主題

  第1主題の複合性は、暗示的なイメージによって分かりやすく説明することができる。

  その前に、暗示的なイメージについて述べなければならない。音楽、特に器楽曲は、もともと抽象的な表現である。これを何
らかの事物や現象に結びつけることは、ある意味で危険である。しかし抽象とは、個々の具象から抽出された共通の性質のことである。とすれば、ある抽象からさかのぼって個々の具象を捜すことは、条件さえ整えば不可能ではない。ただしこのような条件は限られた場合がほとんどである。いきおい、想像(イメージ)をもってさかのぼり、具象をできるだけしぼりこむしかない。したがって信憑性という点では限度がある。どの程度の支持が得られるか、という確率的な評価になる。音楽である以上、やむをえない。結論として、主題が暗示的であるということは、暗くぼんやりではあるが、その条件が幾らか多く示されていることを意味する。

  ここからは、必ずしも客観的に確かなことではない。その点ご承知おき願いたい。 

  @ 第1主題を[迫害・闇・蠢くもの]とイメージする。これは、ユダヤの歴史やマーラーの人生という条件から導いたイメージで、抽象的領域を出ていないので、支持される率は高いと考える。

  A 第1主題を[マーラーその人]とイメージする。これは、隠されたもの悲しいボヘミア的な情緒と、音量・速度・行進曲風・和音の連打、という条件から導いたイメージである。即ち、ボヘミア風の旋律をマーラーの心の奥と捉え、行進曲風の伴奏をマーラー の社会的活動と捉える。生い立ちや境遇に悩みつつ、指揮者や作曲家として活動しつづける、マーラーの複合的な実像が見えてくる。マーラーは第2主題を[アルマの主題]と呼んだ。(へ長調のメロディーだといってしまえば、それまでのことである。)し かしもしアルマだとすれば、第1主題が[マーラーの主題]であっても悪くはない。このイメージも、かなり支持されるのではなかろうか。

  第1主題の暗示するところ、あるいは複合性は、上記@とAによって説明した。ここからは興味は高まるが信憑性は下がる。

   B 第1主題を[民衆と戦争の足音]とイメージする。おりしも第一次世界大戦が近づいていた。

  第1主題のイメージを辿ることはここで中止する。
         
 (9) 美しい第2主題

  マーラーは、妻の名をとって第2主題を「アルマの主題」と呼んだ。作曲者自身のイメージであるゆえに、支持される率は高いであろう。抽象的に[希望・光]と捉えれば、更に無難である。第1楽章において、第2主題に関連した部分は長大で、大きなウェイトを占める。ただし、第2主題が原形のまま現れるのは、提示部において2回くりかえされるときだけである。

 (10) 展開楽想A1、A2

  展開部が始まり、第1主題の展開が三たび行われた後現れる展開楽想A1は、第1主題と第2主題の葛藤から派生した楽想で、これを発展させたのが展開楽想A2である。ここではA1、A2を「悲劇的楽想」と呼ぶ。内部に秘められていたものが、状況の変化で、表舞台に出てきた感がある。ただし、いたずらに感情を高ぶらせるものではなく、抑制された表現である。周辺を充実し中心を抑制することで、一層象徴的な表現が可能となる。

 (11) 展開楽想B、C

  展開部の中ほどが過ぎて展開楽想BつづいてCが現れる。BとCに共通している特徴は、チェレスタとヘルデン・グロッケンが使われていることである。ヘルデン・グロッケン(カウベル)とは、アルプス山麓に放牧された牛の首につけられた鈴のことである。これを舞台の遠くでふるわすよう指定されている。めったなことでオーケストラに使われる楽器(?)ではない。不思議な音楽である。

  何かの機会に、この部分を解説した文章を読んだことがある。「アルプス山麓の、のどかな様子がよく表されている。」……そうかもしれないし、聞いてどう感じるかも自由ではあろう。

  しかし私は、このようないいかげんな解説に承服することはできない。ヨーロッパでは、ユダヤ人を差別して「牛」とか「家畜」とかいって人間扱いしなかったのである。牛の鈴は、差別・迫害された者の従順のしるしなのである。この部分の音楽は、虐げられた者の心に開いた穴のようである。へんに明るい。その虚ろな明るさが事態の深刻さを暗示している。

  Cでは、マーラー独特の複音楽的な対位法が、ホルンと独奏バイオリンとの間でくりひろげられ、一種独特の「状況」が設定される。

  以上で第1楽章の解説を終わる。第1楽章の集結は大変見事である。