-祈り-

 

 軽やかな旋律を響かせて、雨粒が窓を叩いていた。
 正午を過ぎた辺りから降りだした雨は、一時の烈しさは収まったものの一向に止む気配を見せない。
 双子の月も半ばに差しかかり、いよいよイヴァリースに本格的な雨季が訪れたようだ。ここ数日は断続的に雨が降り続いている。
 時刻はそろそろ夕食の準備に取りかかろうかという頃だが、厚く垂れこめた雨雲が宵の訪れを急がせたらしく、外は既に薄暗い。
 卓上に置かれた小さな燭台に点された灯りが、少年の端整な横顔を照らし出していた。翡翠色の瞳が左手に持った海草紙の束と手元の羊皮紙との間を行き交い、白磁を思わせる細い指がペンを操って几帳面に整えられた文字を並べていく。
 少年――クレティアン・ドロワは仕事の手を休めて伸びをすると、窓の外に目を向けた。
 ここに来てから、そろそろ一年になる。
 一年前、ガリランド士官アカデミーを卒業した後、周囲の反対を押し切って教会の門を叩いた。きっかけは何だったか? 
 ただ、約束された将来――地位とか、名誉とか、そんなものに価値が見出せなかった。何となく日々を過ごし、決められた未来に向かって歩いていく。わかりきった明日など、退屈以外の何ものでもない。
 けれど、それまではそんなつまらない未来を変えようとは思わなかった。それはとても恐ろしいことだったからだ。
 予想しえない明日、何もわからない未来。不安は膨れ上がり、漠然とした恐怖へと形を変える。
 何の挫折もなくそれまで歩いてきた。他人よりほんの少し器用だというだけで、アカデミー首席という栄光にあった。
 ――栄光? 違う、こんなものに価値などないッ!
 心の叫びに気付かぬふりをして、その地位に酔いしれた。いや、そのふりをしていた。
 退屈だった。何もかも、どうでも良かった。ただ、そうした事態を変えられない――いや、変えようとしない憶病な自分が嫌いだった。
 けれどあの日、卒業を間近に控えた最後の休日、何かが変わった。その出来事がなければ、クレティアンは今頃ここにはいなかっただろう。周りの期待通りにそのまま魔法院に進み、魔法の研究に明け暮れていたか、あるいは……ともかく、それは彼の運命を左右した大事件だった。もっとも、それはずっと後になってからわかることで、今現在こうして机に向かっている彼自身知る由もないことであるのだが。
(そういえば、あの日も雨が降っていたな……)
 ふと思い出しかけて、クレティアンは思考を閉ざした。それはあまりいい思い出とはいえなかったからだ。概ね人生の転機などという出来事は、本人にとって『おもしろくない』のであろうが。
 おもしろくないといえば、今日もまた書庫の整理を手伝わされた。午後からはこうして一人で目録作りをやらされている。ヤツ――ローファル・ウォドリングは『大事な用がある』とかで、面倒な仕事をクレティアンに押し付けて何処かへ行ってしまった。
「まったく……」
 悪態をつきながら海草紙の束を放り投げる。バサリと音を立てて床に落ちた紙束を無視して、机の上に頬づえをつきかけ――やめた。その手がインクに汚れていたからだ。
 クレティアンは忌々しげにその手を見下ろすと、脇に置かれていた布で汚れをぬぐってため息をついた。
(何をやっているんだろうな、私は)
 心の中のつぶやきに、もう一人の自分が目を覚ます。
<何のためにここにいる? ヤツの雑用係か?>
 問いかけは冷たい刃となって不安定な心を切り裂いた。
(違う。私は……)
<ならば、何のために?>
 何度、自問自答を繰り返しただろう。たどり着く答えはいつも同じだというのに。
<神に祈っていれば、何かが変わるとでも思ったか?>
(結局は、退屈な日々から逃げ出したかっただけ、か)
 そう、逃げ出したのだ。
 その代償は何だったか――孤独? いや、違う。確かにここに来て一年、独りでいることが多い。けれど、アカデミーでも彼は独りでいることが多かった。家柄とプライド、何よりもその類希なる魔術の才能が、他人を寄せ付けぬ壁となっていた。周りの者は皆、教師たちですら、彼を尊敬と畏怖の入り混じった視線で遠巻きに眺めているだけだったのだ。もっとも、クレティアン自身も馴れ合うつもりなどなかったのだが。
 一人だけ例外がいた。名は何といったか? もう忘れてしまったが、同い年のその少年は事あるごとにクレティアンに話しかけてきた。
『どうして、みんなの仲間に入らないんだ?』
『独りでいて、寂しくはないのか?』
 安っぽい正義感を振りかざした偽善者。初め、クレティアンの目にその少年はそう映った。
 鬱陶しいヤツだったが、嫌なヤツではなかったように思う。
 その少年もアカデミー最上級生に上がってすぐ、父親が戦死したとかでゼルテニアに帰郷し、そのまま戻っては来なかった。
 それからしばらくして、南天騎士団団長の養子になったのだと、風の便りで聞いた。
 結局、クレティアンはいつも一人だった。
 幼い頃からずっとそうだ。実母は彼を産んですぐに他界、父親は無数の愛人たちのご機嫌を取るのに忙しく、継母は自分の子供たちにしか興味を示さない。
 唯一彼を可愛がってくれたのは歳の離れた異母兄だけだった。
 漆黒の髪に、冬の湖を思わせる氷青色の瞳、一見冷ややかなその容貌とは裏腹に表情も豊かで誰からも好かれていた兄。クレティアンも嫌いではなかった。
 アカデミーを卒業した後、魔法院に進まず神殿騎士団に入ると決めたときも『お前のやりたいようにしたらいい』と、優しく送り出してくれた。
 もっとも、敬虔なグレバドス教信者であったから、それは当然のことであったのかもしれないが。
 その兄も半年前に戦死した。
 悲しくないといったら嘘になるが、何故か涙は出てこなかった。ただ、心にぽっかりと穴が開いたようで……。
 その空虚は半年経った今でも一向に埋まる様子はない。虚ろな心を抱いたまま、またあの頃のように何となく日々を過ごしている。環境が変わったというだけで、何も変わってはいない。
〈何のためにここにいる?〉
 雨音の刻む韻律が次第に烈しさを増し、まるで少年を責めるように荒れ狂う。
 クレティアンは胸元の聖印を握りしめた。家を出るとき、兄が手渡してくれた銀のロザリオ。今は形見となってしまったそれを両掌で包み込み、きつく目を閉じる。
(兄上……)
 ――今は、祈ることしかできない。

 

>>To Be Continued

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