花束をきみに

 

  2. やすらぎをあなたに

 その夜――。
 ソフィアは寝台に腰かけて、月を眺めていた。まだ、満月と呼ぶには少し心もとない、それでも限りなく円に近い月が、淡い光を投げかけている。もう、深夜と呼んでもいい時間帯だ。普段なら、とっくに休んでいるはずなのだが……。
 ソフィアは待っていた。夫が、この部屋に戻ってくるのを。
 しばらくして、彼女の背後で扉が開く音がした。ソフィアが振り返る。少女のような笑みを浮かべて。
「まだ起きていたのか。今夜は先に休んでいろと言っただろう」
 微かに困惑の色を孕んだ声音で、夫――ヴォルマルフは言った。
 応えはない。ソフィアは少しだけ首をかしげるようにして微笑む。緩やかに流れる亜麻色の髪が、ふわりと揺れて頬にかかった。
 ヴォルマルフは小さくため息をつくと、妻のとなりに腰を下ろした。それを待っていたようにソフィアがしなだれかかる。そして、ささやくような小さな声で言ったのだ。
「ありがとう。憶えていてくださったのね」
 と。
「何のことだ?」
 いぶかしげに問うヴォルマルフの顔を、下から覗き込むようにしてソフィアは答えた。
「お花。本当は、あなたなのでしょう?」
 しばしの沈黙。
 しかし、まっすぐに見つめるソフィアの澄んだ瞳に耐え切れず、ヴォルマルフが小さくもらす。
「……ああ」
 ソフィアはふわりと微笑んだ。
「フィオンのこと、叱らないでやってくださいね」
「ああ」
 そう言ったきり、ヴォルマルフは黙り込んでしまった。黙ったまま、ソフィアの肩を抱き寄せる。
 沈黙さえも、何故か心地好い。互いを思う心が、そう感じさせているのだ。
「ソフィア」
 ヴォルマルフが唐突に口を開いた。ソフィアが顔を上げる。しかし、ヴォルマルフはソフィアを見ていなかった。彼女から視線をそらしたまま、ヴォルマルフは小さく言った。
「誕生日おめでとう」
 と。
「……ありがとう」
 ソフィアはそう言って、くすくすと笑い出した。
 ヴォルマルフがソフィアを見下ろした時、その瞳に映ったのはあまりにも無邪気な笑顔。
 これで二児の母だというのだからわからない。上の娘は今年で十二歳になるというのに……。
「やけに嬉しそうだな」
 ヴォルマルフは半ばあきれながらそう言った。誕生日が嬉しいなんて、そんな歳でもあるまいに。心の中でそうつぶやきながら。
「だって、あなたとの時間が一年埋まったみたいで……」
「何だそれは?」
 ヴォルマルフが苦笑する。それにお構いなしにソフィアは言葉を続けた。
「あなたと私、十歳も違うのよ」
 永遠に埋まらない、十年の月日。ソフィアの表情に陰りの色が浮かぶ。
「馬鹿だな。そんなことを気にしてたのか?」
 そう言ったヴォルマルフの声は、酷く優しげだった。そして、幼子をあやすように優しくソフィアの髪をなでる。その行為がソフィアをまた不安にさせた。いつまでたっても、子供扱いされているような気がして。
 それでも――とソフィアは思う。自分は幸せなのだと。子供たちは元気に育っているし、愛する人と共にいられるのだから。
 何の不満もない生活。ただ一つ、大きな不安はあるけれど。
 遠く、鴎国との国境では戦いが続いていると聞く。いつか『異教徒の侵入を阻むための聖戦』と大義を掲げて、夫が戦地へと赴かねばならなくなる日が来るかもしれない。
(いつまで、こうしていられるのかしら?)
 時折、胸をよぎる不安。
 この人を永遠に失ってしまったら、自分はどうなるのだろう?
 修道院の高い塀に囲まれた狭い世界しか知らなかったソフィアに、初めて外の世界を見せてくれた人。
 初めて、人の温もりを教えてくれた人。
 ヴォルマルフはソフィアのすべてだった。
(この人がいなければ、私はきっと生きて行けない……)
 無意識のうちに、ソフィアはヴォルマルフの寝間着の胸元を握りしめていた。
「どうした? 寒いか?」
「え……?」
 ヴォルマルフの問いに、ソフィアはようやく自分が彼の寝間着を握りしめていたことに気付き、慌てて手を離す。そんな彼女を見て、ヴォルマルフが苦笑を漏らした。
 ソフィアは少しだけ恥ずかしそうに目を伏せ、謝罪の言葉をつぶやく。
「もう休もう」
 ささやくようにそう言ったヴォルマルフは、亜麻色の流れをそっとかき分けて、露になった肌――妻の額に優しく口づけた。
 夫の行動のあまりの意外さに、ソフィアはしばらく呆然としていた。今起こったことが理解し切れていない。そんな感じだ。
 ソフィアが気付いたときにはもう、ヴォルマルフは横になっていた。しかも、ソフィアに背中を向けて。
 どうやら照れているらしい。自分からしておきながら。
「あなた?」
 返事はない。もう眠ってしまったのだろうか?
 ソフィアは小さくため息をつくと、自分も横になった。そして、ヴォルマルフの広い背中に甘えるように頬を寄せた。
 鼓動が聞こえる。
 そして、温もりが伝わる。
 出会ったころのことを思い出す。
「何も知らなかった私に、人を愛することの喜びを教えてくれたのはあなただわ」
 ヴォルマルフの背に甘えながら、ソフィアは小さくつぶやいた。その声はヴォルマルフに届いただろうか? それを確かめる間もなく、ソフィアは安らかな眠りの中に落ちていった。

 

>>To Be Continued

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