1. 花束をきみに
「ソフィアさまぁ」
扉の向こうで幼い男の子の声がした。聞き慣れた声だ。ソフィアは仕事の手を休めると、その子供――フィオンという名の少年を招き入れるために扉の方へ向かった。
生まれてすぐに母親を亡くしているためか、フィオンはソフィアによく懐いている。きっと、母親のように思っているのだろう。事あるごとにソフィアの元を訪れては、舌足らずの口調でたわいのない話をしていく。
ソフィアは、その話を嫌な顔一つせずに聞いてやっていた。彼女もまた、フィオンを本当の息子のように思っているのだ。
実際、ソフィアには二人の子供がいるのだが、もうこんな風に母親にべったりしているような年齢ではない。
今日は何の用だろう? 思いながら扉に手を掛ける。
「今日は何のお話かしら?」
そう言って扉を開けたソフィアの目の前に現れたのは、いつもの人なつっこい笑顔ではなく、白い花。
一瞬驚いたが、すぐに少年が大きな花束を抱えていることに気付いた。
「あらあらまあ、どうしたの? これ」
言いながらソフィアはフィオンから花束を受け取る。甘い香りが腕の中に広がった。
「うーんとね、ヴォルマルフさまがね、ぼくからだってソフィアさまにあげなさいって……あれ? ヴォルマルフさまがいってたのはひみつなんだっけ? うわぁ、どうしよう」
フィオンの慌てように思わず顔がほころぶ。ソフィアはしゃがみ込んでフィオンと目の高さを同じにすると、ゆっくりと問いかけた。
「ねぇ、フィオン。落ち着いて、教えてちょうだい。このお花は、私の旦那さまが私にって、くださったものなのでしょう?」
「うん。ヴォルマルフさまがソフィアさまにって……これは、ひみつなんだけど」
「そう、秘密なのね」
正直にそのままを話すフィオンにソフィアは思わず笑ってしまう。
(あの人ったら、照れ屋なんだから……。でも、これじゃあ全然秘密になってないじゃないの)
困り果てて泣き出しそうな少年の髪をなでながらソフィアは優しく声をかけた。
「泣かなくていいのよ。あなたはなんにも悪くないんだから、ね」
その言葉が、かえってフィオンの目から涙をこぼれさせる。ソフィアは花束を椅子の上に置くと、そっと涙を拭いてやった。
普段無口な夫は、子供にとって怖い人物だということをソフィアは知っている。無口なうえに、めったに笑ったりしない。背も高いし、がっちりとした体格だ。おまけに声も低いときている。年頃の女性ならば、聞き惚れてしまうような魅力的な声だとソフィアは思うのだが、子供にとっては恐怖の対象でしかないらしい。そんな男に叱られたりしたら……。
(怖いわよね。まだこんなに小さいんだもの)
「大丈夫よ。叱られたりしないから」
「ほん……とに?」
「ええ。それにね、あなたはいいことをしたのよ。あなたが教えてくれなかったら、私はあの人にありがとうが言えないもの」
最初は納得がいかなかったようだが、フィオンはすぐににっこり笑ってうなずいた。そして、思い出したようにポケットから何かを取り出す。
「あのね、ぼくからも、ソフィアさまにプレゼント」
白いハンカチに包まれたそれは、薄紅色の貝殻だった。
「にいさんと、うみにいったときにひろったんだ。ぼくのたからものだけど、ソフィアさまにあげるよ」
満面に笑みをたたえて、フィオンが小さな手を差し出した。貝殻が窓から差し込む光を受けて虹色にきらめく。
「いいの? そんなに大事なものを」
「うん。だってきょうはソフィアさまの……」
そんなやり取りは頭上からの声に中断させられた。
「フィオン。またここにいたのか」
十代半ばの少年の声だ。二人は同時に顔を上げた。
「にいさん」
「アレス」
フィオンとソフィアが同時に口を開く。
真新しい騎士の装束を身に付けた黒髪の少年が、あきれ果てたような表情でフィオンを見下ろしていた。
「あのね、にいさん……」
フィオンは嬉しそうに何かを言いかけたが、アレスはそれを許さない。叱責されてしゅんとうつむく弟の頭を小突くと、ソフィアに頭を下げた。
「すみません。こいつが、ご迷惑ばかりおかけして……。ほら、行くぞ」
そう言ってフィオンを抱き上げ、もう一度ソフィアに頭を下げると、アレスは部屋を出て行ってしまった。
去り行くアレスの背中と、彼の肩の上――担がれているのだ――でじたばたともがいているフィオンを見送りながら、ソフィアはため息をついた。
「あの子はちょっと真面目すぎるのよねぇ……」
ついついそんなつぶやきを漏らしてしまう。
「やっぱりお父さん似ね、アレスは。頑固なところもそっくり」
今は亡きアレスとフィオンの父、夫・ヴォルマルフの親友の顔を思い出す。彼は、フィオンを産んですぐに亡くなった妻の後を追うように戦死した。
「もう五年になるのね」
悲しみは薄らいでしまった。けれど忘れたわけではない。
感傷にひたっているうちに、二人の姿は視界から消えていた。
ソフィアの元に残されたのは、てのひらの上の貝殻と白い花束。一抹の寂しさを感じながら、ソフィアは先ほどのフィオンの言葉を思い出した。
「フィオン、何て言おうとしてたのかしら? 今日は、私の……あ、誕生日」
くすくすと笑いながら、ソフィアはそっと貝殻をハンカチで包むと、引き出しの中へしまった。大切にとっておくつもりなのだ。
「この歳になっても、結構嬉しいものなのね」
そうつぶやいて、椅子の上の花束を抱え上げたソフィアの顔には、とろけそうな笑顔が浮かんでいた。