昂痛交論

*インターネット原理主義

 先日の「米国動じた初テロ」ではなかった「米国同時多発テロ」(旅客機4機以外のテロの内容は知らないが)に関連して「イスラム原理主義」というページを検索していたら、「インターネット原理主義」という言葉にでくわした。名和小太郎氏の『デジタル・ミレニアムの到来』という本(丸善ライブラリ 291)が初出のようだ。
 同書での「インターネット原理主義」というのは「ハッカー倫理」の読み替えだと白田助教授(法大)は解釈されている。ハッカー倫理というのはつまりは、ハッカーは「情報やシステムへの自由なアクセス」「すべての強権的抑圧(合理的規制ではない)の拒否」は望むが、システムの破壊は許さない(理想・哲学に欠ける愉快犯的クラッカーとは一線を画す)ということを指すのだろう。ただし誹謗中傷や詐欺などはこうしたハッカー倫理、いわゆる「しつけのよいアナーキズム」の理想では防ぎきれない。ならば規制を取り入れよう、という発想が出てくるだろう。
 インターネットは研究者のネットワークとして出発し、非営利的・実験的という色彩の強いものだったらしい。「しつけのよいアナーキズム」とは、性善説と脱管理といった、研究者の価値観・秩序感覚と言えばよいのだろうか。名和小太郎氏は前述の著書でそう定義されている。
 しかし、研究者の中にも名誉欲その他から性悪説の適用を受けそうな人々が出てくるわけで、科学史という学問はその辺の追求も範囲としている。そうなると自律の範囲が狭い「しつけのないアナーキズム」となる。これを研究者の世界から外に広げられてはたまらないという発想はあるだろう。
…逆の流れもある。それは「しつけのよいアナーキズム」の理想を、研究者の世界にかぎらず、企業人の世界にも消費者の世界にも拡張しようとする発想だ。いわばインターネット原理主義といってよい。この発想は、企業人の世界には共有化の理念を持ちこみ、消費者の世界に自己責任、つまり弱肉強食の理念を押しつけている。原理主義者は「しつけのよいアナーキズム」を「破壊的なアナーキズム」へ変質させてしまうだろう。

(『デジタル・ミレニアムの到来』p.185)

 インターネット原理主義といえるものは何だろう。「イスラム原理主義」が必然的に「目には目を・歯には歯を」的刑罰やハーレム経由テロリストを伴うわけではなく、「キリスト教原理主義」が中絶医迫害や同性愛者迫害を必ずしも意味しないのと同様に、「インターネット原理主義」が「なんでもありの世界」を意味するわけではないだろう。

 ハッカーは規制に反対するのではなく、権威を疑うのである。権威とは何か。他人を強制し服従させる威力である。権威に服する人がその威力に裏付けを認めているならよい。しかし、私たちは大抵のばあい理由もなく「偉い人だから」「お上だから」と服従する。
 白田氏はこう説明されているが、私も「ハッカーとクラッカーは違う」と考えているので、その通りだと思う。なお「威力」は「強制力」ではない。たとえば人事考課権は伴わないだろう。学校の教室では教諭・教師という立場とその背景(体験や自ら学んだもの、場合によりPTA等)であり、内申書の脅しではないだろう。「脅し」には「裏付け」がない、というか「裏付け」が保障しない行為ではなかろうか。
 とにかく威力に服従すべきという考え方は、白田氏の定義される「権威主義」であり、「長いものには巻かれろ」という処世術的定義とは若干異なるような気がする。

【権威主義】
 社会現象を権威によって意味づける主義。権威に対する自己卑下や盲目的服従、弱いものいじめの態度や行動としてあらわれる。

 自己卑下や盲目的服従は、現実に産業社会で期待されてきた主体的業務遂行力と新規性に富む発想とから遠ざかることだろう。前者はいたずらに劣等感を増長させ、いじめなどにはけ口を求めることで招かざる災難に見舞われることになりかねない。後者は俗に言うイエスマンの生き様であり、企業によっては出世が早かったりするが、ここというときに自分で考えることができないなどといった職務能力の欠落が目立つ場合も出てきそう。自由主義経済下では歓迎されざる発想であるはずだが、例えばブランド志向も権威主義の一種と言え、けっこう蔓延している。筆者も「無印良品」「Vマーク」(^^)等、無縁ではない。
 もちろん、主体的業務遂行力と新規性に富む発想とが現実に産業社会で期待されてきたわけではない、その「期待の表明」は日本社会お得意の「建て前」だったというのなら、話は別である。もっとも、「本音と建て前の使い分けができる」といえばいかにも有能そうであるが、日本語でも「二枚舌」は良い印象を与えず、「有能とはウソのつき方がうまいこと」と小学生あたりに看破されそうである。まぁその小学生は早く日本を脱出したほうが自分のためだろう。TV局に目でもつけられたらどうなるか…

 インターネットはまずアメリカで、研究成果の共有などという要請から発達し発生したものだと、私は認識している。なお私の場合、OSのMS-DOSからWin95への飛躍をもたらしたのは、インターネットであった。
 乗合バス会社でもインターネットの公式サイト(ホームページ)がないところは少数派となり、企業にとってもインターネットは情報発信の手段(収集も可能)となってきている。
 そのようなインターネットは、商用化も進み、もはや研究のためのネットワークとはいえなくなっている。インターネットは「あるじ=主のいない」「だれでも使える共有地」だったのだろうが、その範囲が広がりすぎ、ルール決めが必要なようである。

 「共有地の悲劇」「共有網の悲劇」という文章がある通り、あるじのない共有財産というものの末路が管理の必要性を訴えているような気もする。もっとも。管理とは特定少数の人物による恣意的な運営を指すわけではない。「管理→control→制御」で管理という言葉のイメージが悪くなっていることに最近気づいた。航空管制とは違う。やはりマネージメントと言い換えるべきでしょうか?

 社会的ルールの合意は難しい。たとえば「民主主義は多数決」というぐらいで多数が同意すればよいではないかという発想はあるが、51:49でまったく相反することがらが決定したらそんなものは「民主主義」にふさわしくないのは当然で、いくら99:1とはいえどうでもいいことを他人に押し付けるのは他人のことを考えないという理由で「民主主義」とは反する。その前に「多数決でなくても民主主義」であり、逆に言えば「多数決という用語と別に民主主義という用語がある」わけで、多数決に頼るのは怠惰の象徴かもしれない。江戸時代の雑居房で、1人イビキのうるさいのがいたので他の5人で殺した(小説)というのも、多数決のうちか。
 だいたい「民主主義」という用語自体範囲が不確定であり、たとえば英語のdemocracyはsocialism,capitalism,autism,orgasmus(爆)などとは違い、beaurocracy(官僚制)、aristocracy(貴族制)、theocracy(神裁政治)といった語に接尾辞が近い。どうも「民主政治」と訳したほうがよさそうだ。「民主主義の下の資本主義と社会主義の対立」という文章の「矛盾」が解消できる。さらに現存の「議会制民主主義」が官僚制を伴っているので、上の4 -craciesは排他的概念とは限らないようである。technocracy(技術主義)という言葉もあるようだが、逆にこれは前出の4-craciesから独立している。
 では socialdemocracyはなんでしょう?

 工場などでは作業標準、あるいは店舗のサービスマニュアルというものもあるようだが、社会的な行為の「標準の設定」は困難であろう。
 たとえばバスの写真撮影は何歳以下などという標準が存在しえるだろうか。バスファンの停年は40だとか。(熟年といえるバスファンは私の知るかぎり、バス友・バス研以外に3人はおられる。)ソフトクリームを食べることができるのは男性の場合何歳以下とか。そこで他人に「標準」を押し付けるためにいわゆる「社会通念」が持ち出されるようだが、そのわりには年齢に関係なく悪いことを回避しようとしない人が多い。新宿の公園に爆発物を仕掛けることはわるいことだとすぐ気がつく(気づくことではないが)わけだが、タバコの投げ捨ては悪いことという認識があるようには筆者には思えない。火がついたまま捨て立ち去る者(車)さえいる。タバコの吸い方をトイレで学ぶからだろうか。道路には都合よく便器が設置してあるわけではない。この辺タバコ会社の広告は「タバコを吸う」という行為ではなく「タバコをおいしそうにゆったりと吸う」ことへのあこがれを強調しているように思える。え。タバコは習慣性が強いので、その結果どこでもタバコを吸わずにはいられない人間が出てくるって?副流煙の害はどうしてくれるんだ!?
 「法律は最小限の道徳」というコトバがあるが、それすら一般的に守られていないと見える。タバコの投げ捨ては一応放火とはみなされないようであるが、火事の原因と特定されれば被害しだいでは「重失火罪」である。またこの文章の修正中に千代田区が独自の規制条例制定に乗り出したという報を耳にした。
 もっとも守られなくても不思議ないとされているらしき法規の中には道路交通法の速度制限や駐車規制があり、これについては守りようがない場合も出てくるのは筆者が最も認識していることであり、「社会通念」という用語のお世話になっているのが現実である。
 用務車の駐車については法文で許容条件を明記すべきである。5分毎に車を移動できるとは限らないし、通るほうにして見れば30秒でも邪魔である。また速度制限だが、それを守れば事故が防げるというものではないし、経済速度は40kmとおっしゃられるがトップギアで走れれば時間短縮も含めて省エネにつながる。住宅地道路の20km制限と同レベルであらゆる条件の日本中の道路の妥当な走行速度を論じることはどだい無理であろう。速度制限の標識は道路の性質を表す意味では明らかに重要であり、豪雨などの悪条件下で一般のドライバーが無意味にスピードを上げないで済むという意味では大いに重要である。小学生のときには気づかなかったが。実は「通学路」「横断歩道」などの標識を尊重する方がよっぽど重要ではないか。取り締まる側もそのような感覚はお持ちで、弾力的な運用は周知であるが、死亡事故については被害者側の明らかな落ち度が証明されない限り1発免許取り消しという、改正道路交通法案が出る見込み。速度取り締まりは事故発生後一層?厳しくなるのも知られた話。
 歩行者のそばを通る場合は場合により1.5m以上の間隔を空けることという規定がありましたが、ご存知ですか? その数値、日本人の体格という根拠があるそうです。

 民主主義とは「自由と平等を追求することである」と私は考えてきた。個々の人間にとって多数決で選ぶかどうかはどうでも良いことかもしれないが、両者は二者択一になる場合もあるし、よくよく考えると「社会権」という概念を定義しなければならないほど、自由も平等も「民主主義的ではない」ところがあるようだ。なお、衣食住の最低限の保障、生命を脅かされない空気や水の供給の保障などが社会権に相当するものだと、私は考えている。
 インターネットはいまのところ「主なき共有地」のようである。「しつけのよいアナーキズム」で運営できる余地がまだありそうだ。バーチャルコミュニティであるためお互いの顔などがわからないまま意志の疎通を図っていくことになり、それが欠点でも利点でもあると思う。
 「民主主義は多数決」というフレーズに含まれないものは、少数者をないがしろにしないということだけでなく「民が主だから勝手気ままというわけには行かない」という認識ではないだろうか。インターネットでは参加者個々に、ニュースグループやホームページ(サイト)のコンテンツその他の行動の充実、責任感、詐欺その他に引っかからない賢さ、その他成長が求められるようである。そういう意味では私も発展途上に過ぎない。

 インターネットという主なき共有地で、勝手気ままさと勝手な統制の中間で、個々の楽しみ、あわよくば欲望を満たそうではありませんか。冗談で十分通用する記述で3300万円要求の民事訴訟を起こされ1割持ってかれる、商業誌でなくてもそんな心配もしなくてはならないのが現実ですが。あと詐欺や出会い系サイトなど、警戒の念をゆるめるわけには行かないのですが。みんなが「しつけがよい」わけではありません。「やったもん勝ち」の戦後混乱期がよい例ですね。「アナーキズム」を守れるか。アナーキズムを直訳すると、マンションの名前まで正しく書いても隣りのマンションに誤配達されるような事業を管轄している官庁が顔をしかめそうですが、余計な監視を要求しないのは「構造改革」にも一致するはずなのですけどね。自由主義経済の象徴である「見えざる神の手」が上手に調節してくれるとは限りませんし。
 インターネットへの無益な規制を避けられるかどうかは、参加者個々の自覚にもかかっています。

 規制緩和後のバス業界と同じか。

(2002.4.書き換え。)

*媚びを売る

 私がバスの画像を自分のサイトや某パレットに上げることを「(他の会社に)媚びを売る」と呼ぶ人がいるようだ。撮られた会社の方で喧嘩を売られたとは考えそうだが、媚びてるとは思わないだろう。

 サラリーマンは、今勤めている団体以外の御機嫌を伺うことは、顧客でもない限りはまずない。それでも、じつにあちこちの人に媚びを売るのである。「滅私奉公」などという言葉は視野の狭いサラリーマンの台詞で、実際は結果として奉公するのではなく奉公するフリをしている人物を指す言葉だろう。それこそ「水商売の女性が売る媚び」が良い例え。

 サラリーマンが自分の意見を口にする場合、それが自分の評価にどう響くかを考えることになる。ばかにされそう。上司と対立し、他へ出されるもと。出る杭は打たれる。出過ぎた杭は打てないのでひっこ抜かれる。
 思ったこと、考えたことが言えるというわけではない。

 これに対し、交通趣味人という第三者としての立場はともかく、交通機関の利用者という立場での発言であれば、交通事業者の方では丁寧に扱ってくれるだろう。とくに真面目なものであれば耳を傾けたことにより事業者の利益になることも多いので、発言自体が嫌がられることはあまりない。

 媚びを売っているわけではなく、言いやすいだけである。

 複数の事業者に平等な立場を貫こうとすれば、各社から警戒されるだけであろう。非常に居心地が悪いが、それを貫かざるを得ない。

 「調布市のミニバスを京王・小田急の(立川市のコミュニティバスを立川・西武の)同一路線共同運行で。」ということを提案しそうなのが私である。
 煙たがられるのが当たり前。
(2002.4)

*パソコン通信

 世はインターネットの時代であるが、その蔭に隠れてピープルのパソコン通信サービスが先月いっぱいで終了した。そして当BIGLOBEのSIGサービス(PC-VANの名残)も来年3月末で終了することになった。パソコン通信の中で無手順接続サービスが残る商用ネットはNIFTY-SERVE(現@nifty)だけになったようだ。また、SIGサービスにあたるものがインターネットサービスに含まれるはずの、AOLやSo-netの現状はわからない。
 私の使用スペース内にCGIの掲示板があることからもわかる通り、個人で「電子会議室」をもつことは今日たやすくなった。本物の会議室でもNPO的なものに借りるのには敷居が低い世の中になったし。
 しかし、私がパソコン通信を始めたときは、パソコン通信サービスのほうでも初心者向けの練習掲示板とか初心者向けの交流SIGなどというのがあった。現在は初心者はインターネットから入ってくるわけだから、初心者向けサービスもかなり毛色の変わったものになっていることだろう。
 こういうサービスをプロバイダのほうで用意する意義が感じられるほどの利用状況では、もはやないのだろう。
 しかし、私にとっては無手順のほうが性に合うのか、PC-VANが消えてからはBIGLOBEへの接続時間は激減。だがそれは、各フォーラムが充実している@niftyの無手順接続を考慮するとそちらを無制限コースにしたほうが有利だという判断の結果である。これでSIGサービスまで消えたら、BIGLOBEを積極的に選ぶ根拠がまた消える。
 といって、いまさらBIGLOBEがSIGとコミュニティで旧Nifty-Serveと勝負することはできない相談。SIGは過疎赤字バス路線のごとく、消えていくしかないのだろうか。
 My Railway(BIGLOBEの鉄道等のSIG)は、POST-SIGを模索しているところである。

(2001.10.12.)

*反01

 日経のウェブニュースを読んでいたら、「三井不連合」という見出しが出てきた。三井が連合しなかったのではなく、三井不動産が中心の連合事業体が受注したということだった。
 言葉のあたまにつけて否定などの意味をつけるものを「接頭辞」(接頭語)という。たとえば無関係、非関連、不感症など。当サイトの場合だと「非武相色の強いサイト」などという発想があるかな?。
 当サイトに名鉄バスのネタがまったくないので「非名鉄系」と分類されることには異論はない。(いずれガイドウェイバスがでてくるが。)
 当サイトは各バス会社とは「無関係」である。構内撮影などでご配慮はいただくものの、とにかく無関係である。
 当サイトに「不満足」な点その他ありましたら、なんなりとEメールでお申しつけください。ご返信の上できるだけのことをいたします。

 「貴殿のサイトは反○○系サイトですね」

!?

 ○○にバス会社の名前が入ることは、設営しているほうにしてみればあるまいと思う。バス会社のほうでそう思っているかもしれないが。「都合の悪いこと書きやがって」「うちの社のページの内容は貧弱だ」「設営者の言動が反○○的である」等々。
 「乗客より自社の体面を重視する会社は悲しみの原因」とリンク集から判読可能だが、それとて「会社の利益と体面は相容れない」という前提がある。虚勢を張る余裕のない業界ならばこそ、花より団子、損して得取れ。

 ちなみに、筆者は[反11]世田谷区民会館→五反田駅間は乗車したことがあるが、標記系統はまだ未乗、変遷の激しい[反96]はいつ乗れるだろうか。
 当サイトが「反01系」でないのはいうまでもない。
(2001.9.24.)(2002.4.修正)

*青少年育成と表現の自由

 先日、「青少年社会環境対策基本法案」についてTVキャスター6人が「公権力の番組介入を法定制度にすることだ」として反対声明を出したそうだ。
 「青少年の暴力的行為や不良行為を誘発するおそれがあるあらゆる商品やサービスを首相や知事が認定し、事業者を指導、勧告、公表できる内容」(おそらく日経)を含む与党側法案らしいが、強制力まではいまのところないようである。商品には出版物も含まれるかもしれないし、CDやDVDは含まれそうである。
 TV番組に問題がある場合内部判断・相互批判で解決すべきだというのが反対声明の本旨だろうが、すでにそれに期待できる時期は過ぎ去ったと私には思える。ただ、青少年の暴力的行為や不良行為を報道すること自体は、むしろ論議や防止策確立の促進につながるはずであるから、必要だと思う。鉄道の「運賃取りすぎ」報道と一緒。

 ここで鉄バスに無理矢理持ってきたが、このような法案は、民主党の方でも必要としているようだ。

 私たちは、この問題は、「表現の自由」と「子供たちが健康に育つ自由」という二つの権利の比較考量の問題だと考えます。表現の自由の対極にあるのは表現の規制ではなく、子供たちが健康に育つ権利なのです。そう考えれば、どのような取り組みをすべきかは自ずと明らかになると思います。つまり、大人たちが高いモラルを持って子どもたちを健康に育てられるような意識と環境を作ることがポイントとなるわけです。こうすれば民主主義は後退するどころか一歩前進するでしょう。私たちは、そのような考えから、この法案骨子を作ってきました。
同党HP 「子ども有害情報からの子どもの保護に関する法律案骨子」について から引用。以下同様。>

 ここでは「表現の自由」と「子供たちが健康に育つ自由」が対極に位置づけられている。

6.大きな問題のあるメディアは第三者機関による勧告を受けますが、罰則規定はありません。この法案は、あくまでも「表現の規制」を主眼とするものではなく、この問題についての認識と理解を深め、大人社会のモラルと保護者の責任感を高めて子どもの権利を擁護しようとするものです。
四 保護者の責務

 保護者は、子ども有害情報から子どもを保護する第一義的責任を有することを自覚し、子どもの心身の発達の状況に応じ、子ども有害情報からの適切な分離、メディアから得る情報に適切に適応するための教育その他の適切な指導を行うことにより、子ども有害情報から子どもを保護する責務を有する。

 以上は草案の一部であるが、「表現の自由」を有害情報供給の原理としか考えていないようなフシがある。

 たしかに、子供のうちから「有害情報」を見分ける能力があるわけではないのは事実だし、逆にバス趣味のHPの場合、青少年・学生だから許されるが設営者の実年齢に達すれば許されないということもあるだろう。お姉さんの風呂を覗くのは6才の子供ならたいてい笑って許されるが、年齢が高くなれば許されなくなるのは当然で、TV番組で勝手に女子アナ入浴風景を盗撮などということはまずないはずである。しかし、そういった「やらせ」は子供には理解しにくい。TVでやるぐらいだから悪いことではないと思われたりする。「よい子の皆さんはまねしないで下さい」は免罪符にはならない。第一「優等生は出世しない」という俗説もあるし。
 インターネット上のアダルトサイトの氾濫は「俗悪番組」と同程度の影響を及ぼしそうである。クリックした奴が18歳以上かなんてCGIに判断できるわけはないし。

 「表現の自由」はまず芸術上のこと、そして文章上のこと=思想信条の自由につづく思想信条の表明の自由であり、思想信条に反対する者は暴力ではなく言論で戦うべきだということである。そのうえで、電波媒体は影響力が大きすぎるから出版とは別に扱おう(例えば免許制)ということなのである。
 大人達のモラルが低いことで、また「表現の自由」を運用する能力に欠けることで、重要な基本的人権である「表現の自由」を喪失していくとは、まさに日本が「民主主義後進国」であることの証明である。現に民主党の政策に「民主主義革命」という用語が飛び込んでいる。民主主義社会が実現しているならそんなものは不要である。
 たとえば、ゲームセンターがありいろいろなゲームができるのは「営業の自由」「販売の自由」だけではなく、「表現の自由」があるから。
 鉄道・バス趣味を支えるのも、「表現の自由」。もちろん本HPの存在を支えるのも、「表現の自由」。放送より野放しなどと言われては名誉に関わる。確かに誤りの訂正もあるが、「誤りの自由」は設営者自身も認めてない。誤りは正さなければならない。正そうとする発想を「社会主義」とは呼ばない。正そうともしないのは「(未必の)故意」と呼ぶ。もっとも、気づかない場合も多いのだが。
 なによりも、「子供たちが健康に育つ自由」を保障する教育環境や教材等を支えるのは「表現の自由」。自由に限度があるのは上述の通りだが、それをはっきりさせたいのなら「青少年の欲望や不安を喚起し自らの利益に結びつける自由」と表現すべきである。「営業の自由」と短縮すべきではない。
 「自由主義と社会民主主義の両立」をめざすという民主党なら、「表現の自由と子供たちが健康に育つ自由」の両立ならもっと簡単に実現できることと思う。そのためには、「自由の濫用」(あるいは乱用なき自由)という概念を確立することが必要のようだ。
 子供たちが自由に絵を描いたり作文が書けること、そういう「表現の自由」、子供たちが健康に育つには是非必要である。女性のハダカの絵ばかり描かれても先が心配だけど…

 TV視聴者が、特に親として指導者として、子供の自律性を養うことだけはできる社会なら、こんな法案も心配も要らないはずなのだが。
(2001.2.12.および7.29.訂補)

*ニュースソースはヒ・ミ・ツ

 週刊誌などが政治家の悪事その他を暴露した記事を掲載する際に、その事実?を誰から聞いたかは公表しなくても良い、公表しないことを原則としても良いということになっている。いわゆる取材源の秘匿。もちろん、取材源である個人その他に報復が及ぶのを防ぐためである。
 事実?と書いたのは、本当に事実であるとは限らないからである。大誤報てなことになると訴訟を起こされたら多額の賠償金を支払うはめになる危険もあるので、それ以外の危険も考え合わせると、「暴露」は結構勇気の要ることであろう。

 事実とは限らないと書いたが、事実でない場合は
1)間違い・勘違い・思い込みなど
2)嘘
3)作り話
4)歪曲(ねじまげ)
 などがある。ここで2)と3)は、2)がホントを隠す嘘、3)が隠すホントのない嘘ということで区別したい。
 報道は原則としてホントのことだけにしてもらいたいのだが、報道するほうにもいろいろ事情があるのでホントだけではない。取材源が信頼に足るとは限らない。予断を持った報道もあるだろう。事実を報道しない(隠す)自由もある。だから、報道を目にし耳にするほうが「審実眼」を養う必要がある。エイプリルフールで笑えないようでは制作者に失礼だろうし。
 インターネットでもホームページに来たメールの情報をもとに記事を書くことがあるだろう。私もメールで誤りや不足を指摘されたことがある。いずれも確認の上見たまま情報等になどに反映させている。もちろんお礼の返信は欠かせない。またイニシャルだけではあるが表紙ページにも謝辞を載せさせてもらっている。自分で見つける訂補個所はその何倍もあるのだから、感謝深謝多謝。
 「××さんからの情報です。」と明記してしまうのも、自分を守る1つの方法ではないかと思う。実際は「事実のツぐらいだった」としても、メールによると明記しておけば「ジジツだと思ったのは情報源のメール差出人」という解釈が成り立ち、自分で取材しなかったのは多忙のゆえということでネット上ではそれで済む。
 自分が信用できる人からの話だがその人の名前は出したくないということで、予断で信用して書いたことがガセネタだったとき、自分をどうやってかばえば良いのだろうか。
 ガセネタを認めたくないゆえに作り話を増やすというのでは何の解決にもならない。

 指摘をいただいた方のイニシャルしか表紙ページに載せない、その趣旨も「情報源秘匿」。
(2001.1.22.)

*募金

 今年も12月、20世紀最後の一月が過ぎていく。「赤い羽根」「あしながおじさん」は終わり(受付は1年中ですが)、歳末助け合い、「社会鍋」の季節である。
 ところで、われわれが意識せずにやっている募金がある。記念乗車券・入場券等の購入、キャラクターグッズの購入などである。もちろんこれらは商品だし、特に後者の場合は実用性のあるものも含まれる。なによりも、嫌いな会社にからむ商品を必要もなく買う人はいないだろうと言う意味で、募金とは大きく異なるだろう。

 でも、実は募金の種類もたくさんある。確かに「赤い羽根」「社会鍋」や放送局・新聞社主導の募金は対象を特に限定してはいないが、あしながおじさんはもともと交通遺児のための募金である。また「三宅島」「有珠山」「雲仙普賢岳」など火山系自然災害だけでも被災地別に募金が分かれる。
 私は勤務先で関連会社や取引先の製品を買うよう協力せよと言われたが、その結果意に沿わないあるいは他社製品より不利な製品を購入したことになれば、これも募金の一種。
 チャリティバザーは名前の通りチャリティ、売上金は募金。また、「製品」より「努力」あるいは「才能」を買ってあげる場であろう。
 さらに、年末ジャンボをはじめとする宝くじや公営ギャンブルなども、射幸心をくすぐるけれど、考えようによっては募金である。もちろん、必要経費その他も上乗せされているので、100%募金対象に支出することが建前の募金とは違う。
 なお、「1軒200円」などと募金にノルマがあることも多いようだが、ここでそれ以上の言及は省略する。「募金は自由意志によるもの」だから。
 記念乗車券などは鉄道会社が本来提供するサービスに引き換えない限り、やはり募金である。私は記念プリペイドカードなどは使ってしまうので、その場合は募金にはならないが。「募金」という発想が出てくるのは、記念乗車券などを転売したことが無いからなのだろう。どうやら「募金」と「投資」を同じ舞台に乗せているようである。見返りの無い「投資」は「募金」の一種…。

 ところで、そろそろ年越し終夜運転の時期。以前元旦の未明に初詣に行った先で、女子高校生らしい人がマジックで「インドシナ難民へ愛の手を」と書かれた募金箱を持って立っていた。私は信用せず、無視して通り過ぎた。「学校(クラス会)主導で募金」という場合もありえるのだが、「小遣い稼ぎ」「某宗教団体」などの「インチキ募金」を疑ったからである。以前新宿西口にたむろしていたうさんくさい募金の人たち、最近見かけてないのでほっとしているが、他のところでやっているだけ、あるいは今日はやってたのかもしれない。
 「某宗教団体」インチキ募金の場合は実際に寄付したのは集金額の10%程度で、あとはすべて自分たちの懐の中に入れたとされている。第三者が募金状況と寄付額を照らし合わせてそのような結論を出したそうだ。同じ団体がアメリカでは清廉潔白に振る舞っているらしいから、日本も馬鹿にされたものである。これが新聞社だと、必要経費分を募金額から差し引いたことが理由となって新聞協会から除名されたりする。
 実は前述の募金の中にも上層部の不正流用が問題になっているものがある。
 鉄道事業者・バス事業者各位には以上の趣旨からも、利用客や「募金」客を裏切ることが無いよう日々努力いただきたいところ。「経済界」と判断の基準が違う場合は多いし、難しいことではあるが。
 なお「救世軍」は社会福祉法人と解釈されている場合があるけど、組織体系を軍隊になぞらえたカトリック系の宗教団体である。その「敵」を考えるとき、インチキ募金という発想もその中に含まれるだろう。
(2000.12.16)

*たばこ栽培にも除草剤…

 ダイオキシンという物質がある。発癌性などの毒性が認められている物質で、詳しいことは、東京都環境科学研究所ホームページや、武田さんのEnvironmentページなどをたどればわかると思うが、MerckIndexによれば、除草剤2,4,5-Tが変質しても生成するらしい。
 その結果かどうかはわからないが、たばこの煙にも微量ながらダイオキシンが含まれるという実験データが本に載っている。
 だから、駅のホームなどの全面禁煙は今後も続けてもらいたいものであるが、ダイオキシンの発生源だから喫煙そのものを禁止しろという意見には納得できない。

 1列車の場合、車両単位で禁煙席・喫煙席の設定が可能なので、完全に独立している禁煙車両・喫煙可能車両を号車表示で探して乗ることができる。それだけに、長距離列車の指定席には喫煙可能車両を設定して航空機にないサービスを提供するのが有利ではないかと思えます。
 もちろん、どこぞのSさんのような神経質で権利意識(被害者意識)の高い方々のために、高性能な空調/空気清浄システムの開発・搭載も必要でしょう。
 それらのほうが、良心的喫煙者の罪の意識軽減にも役立つでしょう。

 ちなみに私にとっては、喫煙自体の非合法化も、私の隣席で1時間にたばこ1箱分吸われることも、どちらもイジメです(^^;
(98.7.18)

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