お江戸ぶらりんこ  梅雨寒編



 吉原 (散策日 6月28日)

そもそも私が吉原に興味を持ち始めたのは何故か。 伊庭八郎の馴染みの花魁 吉原・稲本楼小稲花魁に惹かれるものがあったからです。そもそも吉原の遊女は「客には惚れてはならない。」これは楼主からきつく言われている事でした。ま、営業心得のひとつですね。 いちいち客に惚れていたら職業柄身体がいくつあっても足りませんし(笑)、色恋沙汰で脱走されたり、心中でもされたんでは楼主としては非常に困るわけなんです。(とにかく7〜8年の年季奉公、きちんと働いてもらわなければならないから。) 幕末を時めく吉原・稲本楼小稲花魁。越後長岡藩家老河井継之助や彰義隊隊長を務めた天野八郎など、そうそうたるメンバーが御馴染みさんにいるこの花魁、伊庭八郎が箱根・山崎の戦いで負傷、一度は奥州へ行こうと試みるが船は座礁。失意の中潜伏、そして箱館に行く渡航費用借用の為親友、本山小太郎が小稲を訪ね、八郎の手紙を渡します。読み終わった小稲は目を泣き腫らし、翌日50両(一説には300両)を用意したと伝えられています。(田村銀之助談) 実際八郎と小稲を結ぶエピソードはこれだけなんですが・・・。ここから小説家の先生方が、八郎と小稲のさまざまな恋愛模様を作り上げていきました。 現在の吉原に小稲花魁がいた頃の匂いなどまったく残ってはいませんが、何とか彼女の着物の「裾」にだけでも触れてみたくて、ぶらりんこしてみました。(笑) 前置き、ちょっと長かったですね。。。



見返り柳の碑



まず、都営大江戸線で上野御徒町まで行き、日比谷線乗り換え、三ノ輪駅まで行きました。吉原は現在の台東区千束4丁目付近。土手通りに出てまっすぐ、吉原大門(おおもんと読みます)のあった交差点まで行きました。「見返り柳の碑」を見て(横にガソリンスタンドがあります)、衣紋坂と呼ばれるところ(遊郭があった頃は50軒ほどお茶屋があった)を通り過ぎ、吉原のメインストリートへ。大門があった場所右横に遊女の脱走を見張っていた監視小屋があったんですが、ちょうど同じ場所に吉原交番がありました。ここで吉原の地図をお巡りさんに見せ、場所の確認をしました。吉原郭内は五丁町に分かれます。大門から入って真ん中、メインストリートを仲の町(ちょう)、最初の待合の辻右を江戸町(ちょう)一丁目、左を江戸町二丁目といいました。 この江戸町一丁目にあった大見世大文字屋(楼)の跡(現在、吉原公園)をのぞいてみました。・・・・何もありません。ホームレスの人たちの溜まり場になっていました。
そしてまた、メインストリート(仲の町)へもどります。まだ午前中だというのにほとんど人通りはありません。いるのはソープの呼び込みのお兄さんだけ。店の前に立っていました。(何となく不気味です。) 次の十字路、大門を背に右が揚屋町、左が角町です。小稲花魁のいた稲本楼・・、ありました! 現在は「ビジネスホテル・稲本」になっていました。



見返り柳から吉原大門交差点を見る 揚屋町入り口付近 新吉原角町の表示板



ビジネス・ホテル稲本


この後、吉原神社へ行きました。そこで神社裏で鳶をしていらっしゃる鳶福さんが「吉原・今昔図現勢譜」を出していらっしゃる事を知り、一部購入したいと電話をしました。奥さんが来てくださって色々な吉原の話を聞かせてくださいました。とってもおもしろかったです。「吉原今昔図」は明治27年代、関東大震災当時の吉原の店名を記載した地図が載っていました。「吉原細見」の明治20年代版もありました。稲本楼の小稲の事が知りたく、奥さんに明治の初めの「吉原細見」はあるのか訊ねると、「震災で燃えてしまったから。」の返事が返ってきました。現存していたとしても手の届くような値段ではないと思います。でも1度でいいから見てみたい!

鳶福の奥さんと別れ、京町を通り過ぎ吉原弁財天へ行きました。ここにあった池で関東大震災の折、800名以上の遊女が溺死したといわれています。池は現在はありません。供養の為の観音様が安置されていて、関係者の方々によって守られているようでした。どういうわけか写真を撮る気になれません。一度は撮ろうとしましたが・・・、何故かやめてしまいました。

この後、竜泉町にある樋口一葉記念館へ行きました。有名な鷲神社の横を通って竜泉町へ。一葉記念館を見学。一葉の天才ぶりがよくわかり勉強になりました。記念館を出て入り口をカメラに撮ろうとしたんですが・・・。写真が撮れません。シャッターが落ちないんです。何度やってもだめ。しかたなく諦めました。「吉原弁天かな?」などと考えながら三ノ輪までもどりました。7月に北海道へ旅行する予定もあり、カメラが壊れるのは非常に困った・・どうしよう・・と考えながら昼食を取りました。店を出た後、もう一度カメラを確認。どういうわけか撮れる状態に戻っていました。三ノ輪の駅を捜そうと地図を見ていたら、そこに「浄閑寺」の文字が・・。何かに引っ張られるようにして寺の前まで行きました。此処は別名「投げ込み寺」とも呼ばれ、吉原で無縁で亡くなった遊女たちを埋葬する「新吉原供養塔」があるのです。吉原を訪れたのですからやはりここは・・と門をくぐり、墓地内に入りました。
墓地内は通路以外はすべて墓石です。こんな光景を見たのは初めてでした。本堂の裏手に「新吉原供養塔」はありました。 供養塔の下、納骨堂になっているんです。鉄柵の間から骨壷が見え・・・、ショックでした。 気を取り直し、線香を上げ合掌。この場所に眠っている遊女たちの冥福を祈りました。 帰り際、寺の方からこの供養塔には2万5000柱の遊女が埋葬してあるという話を聞きました なんという数・・。(絶句) 最近本で知ったのですが、埋葬されている遊女の平均年齢、21歳だそうです。ひどすぎるっ! 悲しみよりも怒りがこみ上げてきました。
最後に浄閑寺の門を写真に撮りました。 後々この事も「不思議な体験」へと繋がっていくのですが、その時は気づくはずもありません。
いつも歴史の「正」の部分ばかり見ていましたが今回吉原を訪ねる事で「負」の部分も改めて知る事が出来、勉強になりました。複雑な思いを胸に帰路につきました。



吉原神社 三ノ輪・浄閑寺




 稲本楼の小稲花魁ですが肖像画が残っています。明治5年に高橋由一の描いた「花魁図」、また幕末の大家、三代目豊国の描いた浮世絵の2枚です。「花魁図」は重文。東京藝術大学の所蔵。豊国の浮世絵ですが北九州市美術館所蔵だそうです。 
スキャナでスキャンしてアップしようと思いましたが、画像加工のしかたがまったくわからず今回は見送る事に致しました。(涙) 追々勉強しまして次回の吉原関係のレポートの際、アップできるように致します。楽しみになさっていた皆様、今暫くお待ちください。
また小稲の人柄ですが、非常に新しいものが好き。それ故高橋画伯の油彩画のモデルも引き受けたのではないでしょうか?鉄道が開通すると東京から横浜まで往復列車の旅を楽しみ、世間をあっと言わせたそうです。当時の鉄道運賃はべらぼうに高いですから、小稲の吉原での隆盛と思い切りの良さがこの事からもわかると思います。(やってくれるじゃありませんか!いいですねー。私はこういう女性、好きですね。)