お江戸ぶらりんこ 03’ 夕立編


 谷中(散策日: 8月7日)

8月1日から31日まで東京・谷中の全生庵で三遊亭円朝が所有していた幽霊画の特別公開をやっています。怖いというより、此処の幽霊画は非常に芸術性が高く、雑誌などで見る写真とどのくらい違うものなのかを確認したくて、とうとう観に行ってしまいました。(汗&笑) 今回は真夏の暑い時期という事もあり、谷中をぶらぶらするのは無理と判断、なのでぶらりんこは全生庵とその周辺のみにしました。

いつものぶらりんこ開始時間よりは遅い、午前10時に家を出発。地下鉄丸の内線で淡路町下車。そこで千代田線に乗り換え、千駄木まで行きました。不忍通り・団子坂下の交差点をさんさき坂方面へ。谷中は坂が多いところ。いろんな名前の坂があります。この坂を巡るだけでも楽しいだろうな・・と思いつつ、明治8年創業の「菊見せんべい」の前を通りすぎ、しばらく行くと通り反対側に江戸千代紙で有名な「いせ辰」(元治元年創業)がありました。店内の千代紙を見て、本当に驚きました。千代紙と言ったら小さい頃から慣れ親しんでいる、色々な綺麗な模様の印刷してある紙・・・とんでもございません! 千代紙とは錦絵と同じように版木に模様を彫り、何枚もの柄や色を重ね合わせて刷った(手摺り)和紙の事。ポピュラーな機械刷りの千代紙とは別に、手摺り千代紙は一枚一枚、丁寧にビニール包装されて展示してありました。感動しながら手摺り千代紙を見ていると、奥さん(らしき方)が、いろいろと説明してくださいました。版木は関東大震災や戦災で多くを焼失しましたが、先代・先々代が版木を復活させ、現在では創業当時のほとんどの図柄を見る事ができるとか。中でも興味深かった事、それはゴッホが浮世絵に影響を受けて描いた『タンギー爺さん』(フランス・パリ ロダン美術館蔵)という作品があるのですが、その作品に実はいせ辰さんの千代紙が描かれていたというのです。(その図柄は既にいせ辰さんにはなくなっていたものだそうです) 大感動につい1つ、向島百花園・四季の花々が咲き乱れる様を描いた手摺り千代紙を購入してしまいました。しかも額付きで。(汗) 絵はがきのセットも購入。 大散財でしたが嬉しかったです♪


東京谷中・「いせ辰」


店を出て、少し行くと大円寺(日蓮宗)というお寺がありました。此処には錦絵の創始者・鈴木春信の碑と永井荷風選文の笠森お仙の碑が建っています。お仙は江戸時代中期(宝暦・明和期)評判の美女で、笠森稲荷前の水茶屋「鍵屋」にいた看板娘。春信に描かれた事で江戸中の評判になりました。ただ笠森稲荷というのは谷中に2ヵ所あって、お仙のいた「鍵屋」はこの大円寺ではなく、谷中霊園裏にある功徳林寺の位置が正解のようです。(笠森とは元々は瘡守(かさもり)で、笠森稲荷は江戸時代、恐ろしい病気だった天然痘を治すと信じられていたお稲荷さん。また「瘡」は他の意味もあるので(汗&笑)、吉原通いの頻繁な男性たちにも信仰されていたとか・・・。) 境内本堂右に瘡守稲荷が、左側にご本尊が祀られていました。



大円寺本堂(右が瘡守稲荷)
鈴木春信の碑 笠森阿仙之碑


さんさき坂を上ると全生庵がありました。全生庵は明治13年、幕末・明治期に活躍した山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の霊を供養するために建立した臨済宗のお寺です。本堂にお参りしてからいよいよ夏期限定で公開されている円朝コレクションの幽霊画を鑑賞。円山応挙や月岡芳年、河鍋暁斎、伊藤晴雨など50点のコレクションの中からその一部を観る事ができました。円山応挙の幽霊画は応挙後の幽霊画の範になった作品というだけあって格調高く、芸術的にも素晴らしい作品でした。月岡芳年の作品もエピソード(拙サイト「ひとりごと」8月7日をご覧下さい)の通り、遊女の悲しさ、病気(たぶん労咳)で死ななければならない無念さ、この世への未練がひしひしと伝わってくる作品でした。館内はもちろん撮影禁止。(撮る気にはとてもなれませんでしたが・・。汗&笑) 幽霊画の掛け軸のかけられているところ、角々に小さな観音像や釈迦如来像などが置かれていました。(汗) 展示室を出て墓地へ。山岡鉄舟の墓や三遊亭円朝の墓に手を合わせました。円朝は「真景累ヶ淵」や「怪談 牡丹灯籠」などの自作自演の人情話・怪談話で有名な噺家。鉄舟に可愛がられていたという事です。今回は見つける事ができなかったのですが、墓地内には「叱られて」「浜千鳥」などの童謡を作曲した弘田竜太郎の墓もありました。



谷中・全生庵
山岡鉄舟の墓



あっという間の谷中ぶらりんこでしたが、次回はもっと涼しい季節に訪れて、谷根千(谷中・根津・千駄木)といわれる地域をじっくり歩き回りたいと思います

全生庵のサイトがありました。幽霊画もアップされていますので勇気のある方はどうぞ。(汗&笑)