お江戸ぶらりんこ 03’ 七夕編



吉原 (散策日:7月10日)

浅草寺のほおずき市を見学。その足で浅草寺裏手から言問通り、西浅草三丁目交差点を三ノ輪方面、国際通りを上がって行きました。途中千束の五差路を千束三丁目方面へ。そこから花園通りへ出ました。土手通りに向かって歩いていくと左側に大きな横道。そうです。そこが吉原の京町二丁目、角町、江戸町二丁目へ行く通りです。ですからこの花園通りの歩行者道路部分はあの「お歯黒どぶ」だったのかもしれません。この辺にくると空気が変わってきます。午前11時過ぎだというのに人が本当にいない。いるのは、「いかにも!(呼び込み)」という感じで店前に立っているおにいさんくらいなものです。(汗&笑) 喉が渇いたので喫茶店に入ろうにも、あるのは「情報喫茶」(吉原内・ソープランドの情報を教える喫茶店??・・汗)のみ。医院も発見。(「性病科」の文字にビビリまくり。汗&笑) やっと土手通りに出ました。


花園通り(土手通りへ向かって)


土手通り、吉原がある反対側に天麩羅で有名な「土手のいせや」があります。残念ながら開店前。お店に入る事はできませんでした。すでに何人かのお客が店の開くのを待っていました。(すっごく美味しいらしい。)「いせや」さんを写真に収め、いよいよ昨年6月に引き続き、吉原探索です。



土手通り
天麩羅・いせや


吉原の中に入る前に吉原の廓図を見ていただきたいと思います。そうでないと、どこに何があるのか吉原内がわからない場合、レポートを読んでいても、ちんぷんかんぷんになってしまいますので。(汗&笑) 下の画像は花咲一男氏監修の『大江戸ものしり図鑑』を参考にした正木泰夫氏監修『図説 歴史で読み解く東京の地理』(青春出版社)に掲載されています「江戸・吉原の廓図」です。




この図一番下、日本堤と書いてあるところ、ここが上右の写真の土手通りです。(現在、土手はありません) それでは入りましょう。

まず「見返り柳」。現在あるのは、最初に植えられたものから何代目か後のもの。今はこの場所、ガソリンスタンドになっています。 少し右手に曲がった道、これが「衣紋坂」(えもんざか)。殿方が吉原に入って行く前に着物を整えた事からついた名だといいます。そして五十間道。このあたりお茶屋が何十軒もあったとか。ここの一番大門寄りにあの有名な蔦屋重三郎(歌麿や写楽といった浮世絵師を世に送り出した大プロデューサー)がやっていた版元の店がありました。吉原の出入り口は大門(おおもん)ただひとつ。まわりは「お歯黒どぶ」といわれるどぶで囲まれていました。何箇所かに刎橋がついていましたが、人の出入りは通常大門のみとされていました。。



道路反対側からの大門入り口

衣紋坂

五十間道あたり
見返り柳の碑


大門があった場所の右側、江戸時代に「四郎兵衛会所」という遊女の逃亡を見張る番屋があったのですが、今ここに吉原交番があります。(汗&笑) 真ん中の道路が昔でいう仲の町(なかのまち)、吉原のメインストリートです。昔は春になると此処にたくさんの桜の花を植えて、それはそれは見事だったと言います。上記の廓図で見るとわかりますが、通りの両側には引手茶屋がありました。私はまず、大門のあった場所から右側(図でみるとお歯黒どぶのところ)を通って、江戸町(えどちょう)一丁目大見世「大文字屋」跡へ行きました。今は吉原公園になっています。大文字屋は文化文政の頃、一種の文化サロンとなっていた妓楼です。あの蔦屋重三郎が浮世絵、洒落本、黄表紙の出版などの打ち合わせをいつも大文字屋でしていたというエピソードが残っていますし、私の大好きな江戸琳派の巨匠・酒井抱一は大文字屋の花魁を落籍、戯作者として有名な山東京伝も同楼の花魁を落籍、結婚したそうです。化政文化の発信地として隆盛を誇った大文字屋。一体どんな妓楼だったのでしょうね。


江戸町一丁目・大文字屋跡(吉原公園) 江戸町一丁目の通り 江戸町二丁目の通り


ここで、江戸町二丁目の手前の道へ行ってみました。もちろん人は通っていません。ここは風俗のお店ではなくアパートや家が立ち並んでいました。その中で昭和20〜30年の吉原を思い起こさせる建物を見つけました。





仲の町へ戻ります。 次の通り、揚屋町(あげやまち)と角町(すみちょう)。揚屋町は設置当初は揚屋がありましたが、後々なくなり、その後は吉原内で必要な物を売る店などができました。角町には江戸期、中見世がありました。(幕末には大見世も) 揚屋町の入り口に明冶・大正・昭和と隆盛を誇った角海老楼の名残?角海老の名前の店がありました。角町には私が吉原に興味を抱くきっかけとなった幕末・遊撃隊隊長・伊庭八郎馴染みの花魁・小稲がいたとされる稲本楼、そのゆかりのビジネスホテル「稲本」がありました。昨年はホテルの中をのぞく事すらできませんでしたが、今回は意を決してジーッ。(汗&笑) ロビーに「稲本」と書かれた書が飾ってありました。どなたの書でしょうね。気になります。(笑) とにかく、通りという通りに呼び込みのおにいさんが立っていて、私をめずらしそうに見ていました。(汗汗) 通りの端から端まで行きたいと思いながら・・・・ヒヨってしまいましたね。昨年よりは随分とよく観察したつもりでしたが、なかなか・・・。(汗) やはり、此処に来るのは勇気がいります。



揚屋町の通り(左は古くからある履物屋さん)
角町・ビジネスホテル「稲本」


そして京町(きょうまち)一丁目・二丁目。小見世があったあたりです。仲の町の通りの突き当たり、水道尻・手前右に吉原神社があります。昨年購入してきた鳶福の荒井一鬼氏制作『吉原今昔図現勢図』が貼られていました。鳶福さんにまたお話を聞こうと思って裏へまわりましたが、ワンちゃんに吠えられてしまいましたので中止。(汗&笑) そのまま吉原の遊女を診ていた吉原病院跡を右手に見ながら、吉原弁財天へ向かいます。



京町一丁目の通り

京町二丁目の通り

水道尻から仲の町を見る
吉原神社


吉原弁財天の場所は、昨年もお話しした通り、此処にあった池で関東大震災の折、800人以上の遊女が溺死したと言われています。前回訪問の時はカメラのシャッターが切れなかったりとヘンな事が起こりましたが、今年も・・・。(汗&笑) いえいえ、お化け関係ではありません。私がお参りするため、敷地内に入った時、先にお参りしている人がいたんです。見ると尼さんが一人。それも金髪の・・。(汗) ものすっごい大きな声で般若心経を唱えていました。合わせている手に目をやると、黒いマニキュアが・・・。(滝汗・・) 雨が少しの間あがったので、お線香を上げ、亡くなった人たちの冥福を祈りました。ここには大きな観音様の銅像があるのですが、今回も写真に撮る気にはなれませんでした。

その後、国際通りまで出て有名な鷲(おおとり)神社へ行きました。お江戸の「お酉さん」と言えば此処。真新しい鳥居と本殿。立て替えられたばかりのようでした。その後やっと普通の喫茶店を発見。(汗&笑) 軽い昼食を取りました。お店の奥さんに上野へ戻る方法を聞いたところ、日比谷線の入谷駅へ出るのが一番いいとの事。少し遠かったのですが、深川へ出るためには一度上野へ戻って大江戸線に乗り換えなければと思い、そのルートで戻る事にしました。この後、深川へ移動しました。

 尚、「土蔵〜過去のぶらりんこ〜」内に2002年6月訪れた吉原レポートがあります。


千束・鷲神社