幕末ぶらりんこ  薫風編


東京町田・小島資料館 (散策日 5月5日)

ゴールデン・ウイーク最後の日曜日、この日は5月最初の日曜日だった事もあって、町田・小野路の小島資料館へ行く事にしました。開館時間は午後1時から午後5時までです。この日はお天気がよかったので吉祥寺へ出てから中央線で立川駅へ。そこから多摩モノレールに乗り、万願寺駅を通過、上から3月20日に訪れた土方歳三資料館を「あ、あそこだ。あそこだ。」と言いながら通り過ぎ(笑)、多摩センター駅までやってきました。 ここからバスに乗るんですが、とにかく本数が少ない。ですのでこの日はタクシーで資料館まで行く事にしました。
 小島資料館は小島鹿之助の子孫、宗一郎氏と政孝氏(現小島資料館館長)が昭和43年に私設資料館として開館。小島鹿之助と近藤勇は義兄弟の契りを結んでおり(天然理心流・出稽古の剣術教授が縁で)、また小島家と日野・石田の土方家とは縁戚関係にあります。
この小島資料館、新選組関係の資料の豊富さといったら、本当にすごいです。館内では小島館長自ら受付、説明、書籍販売と全部一人でやっていらっしゃいました。 資料館の建物は天保13年に建てられたその当時のままの間取りを残し、昭和40年に改築されたそうです。 庭には近藤勇、小島鹿之助の胸像がありました。また、上野・寛永寺の石灯籠が二基、どんな縁で小島家に来たのかはわかりませんがそっと立っていました。この石灯籠正面には上野戦争の際、彰義隊が新政府軍と戦った時の弾痕があるそうです。残念ながらこの日は見る事ができませんでした。次回訪れた際は必ず確認して来たいと思います。


小島資料館正門 小島鹿之助胸像 庭の石灯籠(上野・寛永寺のもの)


資料館内は靴を脱いで上がります。 受付を済ませ、「資料室はあちらです。」の指示に従って2つ座敷を通って廊下を行くと資料室はありました。(蔵を改装したようでもありました。ちょっとわかりませんが・・。)

見学し終わって思った事は・・

・沖田総司の有名な小島鹿之助宛ての年賀状、素晴らしかったです。何という達筆! 研究書などに載っているものは何回となく見た事はありましたが実際に見て驚きました。 この墨跡からも総司が何の思想もない単純人間ではなかった事は明々白々です。

・土方歳三の「報国の 心忘るる 婦人かな」の句を書いて小島鹿之助宛てに送った「俺はモテモテなんだぞっ!」の手紙、ありました。(笑) やけに「報国の・・」の文字が大きい。(歳さん、力入っちゃったんでしょうか?可愛いぞー。(笑)) 親戚の橋本家に子どもが誕生した時にお祝いとして贈った漢詩の掛け軸、この墨跡もそうですが、歳三はあっさりとサラサラーってかんじに書いているんですね。この辺からも歳三の性格の一端がわかるんじゃないかなと思います。

・近藤勇の髑髏の稽古着、最初この稽古着が何故小島資料館にあるのか不思議だったんですが、実はこの稽古着は勇が小島家に出稽古に来た際に使用していたもので、小島家で預かっていたという事でした。胴着の色は書籍の写真だと黒っぽく見えますが実際は紺色です。
そして袖が半袖のような感じでした。その袖がやけに細いのです。現在の剣道の胴着よりかなり細いように思いました。 ・・という事は近藤勇という人はそんなにがっしりとした人じゃなかったんでしょうか? うーん、気になる・・。 髑髏の刺繍は勇の妻ツネのお手製です。

・あの有名な天然理心流の木刀、ありました。すっごいですっ!ゆうに普通の木刀の2倍はある太さ。 この木刀を振り回しての稽古ってどんなだったんでしょうね?

・新選組関係以外でも資料近世・近代文書400余点、和漢書6000巻と当時の名主階級の人がいかに教養が高かったかを物語るに足る膨大な資料の数々、圧倒されました。

帰りに、「新選組余話」 「三十一人会会誌 土方歳三特集」 「三十一人会会誌 斎藤一特集」を購入。小島館長にサインをしていただきました。 小島資料館の前の道は現在バス通りなんですが、道幅が昔のままで何か幕末の頃にタイム・スリップしたような錯覚に陥ります。 「確かにこの道を通って勇、歳三、総司は小島家に出稽古に来ていたんだ。」 そう実感できる貴重な場所のように思えました。


またまた・・近藤勇胸像(後ろが資料室)



 小島資料館は、小田急線・鶴川駅と京王線多摩センター駅からバスが出ていますが、1時間に1本と非常に少ないのでタクシーを使う事をお薦めします。(その際、タクシーは多摩センター駅からお乗り下さい。その方が近いです。開館日は第1・3日曜日。詳しくは資料館HPで。