3−5.好意を持たれた事例の分析

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 女性には好かれないほうだ、とさんざん言っておきながら、これまで女性から好意を持たれたと思われる経験は2回ある。1つは1986事件であり、もう一つは大学二年の時の、後輩の女子である(もっとも大学二年の時の方は、あくまでサークルの女子の話を信用して、のことだが)。
 この2つを検証すると、私を好きだという女性の態度に、ある一定の共通性を見いだすことが出来る。
 まず、目である。いつもより大きく見開かれたような印象があり、全体的にぬれているような感じがある。何か強い力のようなものがこもっていて、視線を向けられると明らかにプレッシャーを感じる。殺気だったものはなく、どこか夢見るような感じである。この視線は自信のない人や小心者が受けると、はっきり言って怖い。一体何を期待しているんだ、そんな目で見られても何も出ないよ!と逃げ腰になる。
 私の場合、この視線を受けた時、何とも言いようのない感じを覚えることがある。私はこの感覚を「嫌な予感」と呼んでいる。何が嫌なのかというと、この視線を自分に向ける相手の意図が全く分からないこと、この視線を受けたときに感じる気分を何とも説明できないことで、この視線の主と交流を持ったときに何が起こるか、全く予測がつかないことからである。
 次に、行動として、とにかくおしゃべりになり、何とか共通の話題を見つけようと探ってくる。共通点を見つけるとすごく喜び、さらに深い共通点を見つけてこようとする。この傾向が非常に急進的で、黙っていると会話は一方通行になりがちである。さらにせっかく見つけ出した共通項を否定したりすると、やけに落胆した表情が見える。もちろん似たようなことは普段の会話にもあるが、傾向があまりにも顕著で、喜んだときと落胆したときの差が非常に激しい。
 1986事件では、後者の傾向はそれほど強く現れていたわけではない。というのもそもそもの初めから「恋人として」つきあってくれと言われ、それをすんなり受け入れてしまったからであり、その後もそれほど積極的に話した、という記憶がないからだ(単に忘れているだけかも知れない)。ただ前者の視線については、一緒に帰る時にその視線でじーっと見つめられていて、かなりの恐怖を覚えた。この女子とのつきあいをやめようと決意した一因として、実はこの恐怖の視線に耐えられなかったことがある。
 サークルの後輩の場合にはどちらの傾向も非常に強かった。新歓コンパの二次会で、ちょっとスキーをやると言えば「わたしもそうなんです。どこに行かれるんですか?」と、目をキラキラさせながら尋ねられたり、他にも何かというと会話に割って入ろうとする傾向が強かった。一先輩として全員に公平に会話をしなければならない立場にあって、彼女の攻撃(?)はかなり辛いものがあった。視線はかなり強く、違和感があり、なんでそんな目で見るのか、もともとそういう目の人だとしたらなんとはた迷惑な、と思っていた。
 このような傾向が見えた事例は、他にもいくつか存在する。

・小2で東京に越してくる直前、お別れ会でみんなからの寄せ書きのようなものをもらったのだが、一人だけ特別に、別の大きな紙に絵と共に書いて渡してくれた女子がいた。友達2人につきそわれてやってきたその女子の目が、問題の視線だった。その女子とは前にも後にもそれっきりである。

・小5のクラス替えで同じクラスになったとある女子である。小4で初めてであったとき、時間を尋ねたところ、自分の住所をまくし立てた上「何人の住所聞いてるの?」とにらんできたとか、中1の夏祭りで積極的に話しかけてきてくれようとしたとか、高3でひさびさに再会を果たしたときも、何故かお互いじっとみつめあってしまったり(少女マンガ的にはお約束の展開であるが、何もなかった)、「私とブッコ、似てるかな?」と言われた(外見にコンプレックスのあった私は強く否定したが、彼女の落胆の色は濃かった)など、不思議なことがよく起こる相手だった。前述の卒業アルバムの事例、調理実習の事例の相手もなぜかこの女子である。

・高2の夏、突然電車で話しかけてきた女子高生が同じ視線を向けていた。彼女たちはすこし前から、私の方にその視線を向けてきていて、「嫌な予感」を感じた私がその視線の先を追うと、その女子高生と他に2人のお友達がいた。
 彼女たちは私を外国人だと思ったのか英語で話しかけてきた。初めは自分が話しかけられたとは思っておらず、そうだとわかった時には(私は吊革にうでをひっかけ、上半身を倒した非常にダレた体勢で立っていたのだが、彼女はナナメ後方から、明らかに私をのぞき込んでいたのである)英語コンプレックスが強く、さらにハーフだと言われることにさらにコンプレックスを持っていた私は、機嫌を損ねて返事をしなかった。
 その後、彼女とは電車を乗る駅も降りる駅も一緒だったことが判明した。

・NOVAに通ってすぐの頃、授業で一緒になったとある大学生の事例。この人の場合、特徴的な視線があったうえ、同席した生徒との会話でも何かと私に積極的に話しかけてきて、サークルの後輩とほぼ同じ傾向にあった。困ったのは、もう1人の生徒も女子大学生だったが、彼女とかなりローカルな話題で共通点を見つけたとき、「二人とも気が合ってよかったね」みたいな言い方をされたことである。どうしたらいいか、対処に困り、しばらくの間ちょっと嫌な沈黙が部屋を支配した。

 彼女とはしばらく会う機会があったが、私がレベルアップして授業を一緒に受けることが無くなって以来、ずっと会っていない。連絡先も聞かずじまいである。

 親しくしていながらこれらの視線を感じなかった例は数多く存在する。大学のクラスの女子がそうであるし、サークルの女子もまたしかりである。
 大学入学直後に、とある数学の授業でたまたま隣の席に座ることになった女性と仲良くなり、初対面にも関わらず一緒に昼を食べようと誘われた。そしてしばらくの間、毎回の授業の後昼食を共にしていたことがある。これはクラスの男にも目撃され、「一緒にお昼を食べてるあの子は何だ?」と尋ねられたこともある。
 しかしこの女性の場合、特殊な視線もなく、会話も急進的なところはなかった。従って単なるお友達としてのつきあいを求めていたことは、間違いないと思われる。

 さて、私はこの傾向が見える女性に対して、特別変わった行動――連絡先を聞いたりなんだりした試しは一度もない。この傾向自体、きちんとまとめたのはこの記事が最初であり、はっきりわかってはいなかった、ということもあるのだが、これが単なる誤解であって、相手はまったくそのつもりがなかった、とも判断できるため、はっきりそうだと断定できないからである。
 たまたま目が大きいだけだったらどうするか、涙腺が活発だっただけではないか。この視線を感知するにしても「嫌な予感」を感じるかどうかにかかっていて、これが自意識過剰の産物だったらどうするか。とても話好きな人だった場合も考えると、行動面での判定も難しくなってくる。
 この2つの要因に、例えばつきあっている期間や発言内容などの他の要因を加味して判定することになるだろうが、この「他の要因」が思い違いかどうかを判定する問題については、結局解決されていない。「他の要因」の確実性が低すぎると、かえって判定の精度が落ちるおそれもある。
 この傾向は、まだ”実用化”するには至っていないのである。
 従って、後に示した事例については、本当に彼女たちが私に好意を持っていたかどうかは判断しかねるところがある。

 さて、この23年間に、疑わしい事例を含めて6件、確実にそれとわかる事例が2件起こっている。つまり4年に1度疑わしき状況が発生し、10年に1度は本当に好意を持たれている可能性が高い。
 私はこの間、特に女性にもてようと努力したことは一度もなく、むしろ女子を避けていたりした時期が半分を占める。ヘンな努力をしなかったことがいい結果を生んでいる、という可能性は否定できないが、多くの女性と出会うような努力――女子高の文化祭に遊びに行ったり、他大学との交流を活発にしたりといった、出会いの確率を向上させる努力すらしていない。
 はたしてこれを「もてない」と呼んでいいのだろうか?
 私にとってこれは恐怖の疑問である。このホームページの前提条件が崩されるだけでなく、それではあの小学校での4年間はなんだったのだ、ということにもなる。
 私は嫌われる、というかそうそう好かれる性質でなかったから、ああして女子から避けられ、それなりに辛い時期を経験してきた、と思っている。女子そのものを嫌いになった理由は「訴訟」にあるとしても、その下地を作ったのは、小3の時の経験である。もし私が「もてた」のであったら、なんであんな目に遭わなくてはならなかったのだろう。やはり1986事件の対応があまりにまずすぎた、ということなのか。
 もし私が「もてた」のであったら、そうだとわかっていたのなら、あそこまで女子を毛嫌いしなかった。私は女子が敵対してきたからそれに応じていたのだ。ちゃんと接すれば友好的に応対してもらえるとわかっていたら、こんなことには……。
 この疑問に対しては、別項で述べたいと思っている。

(00/8/4初出、01/1/25加筆修正)
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