3−2.迫害の実際

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 女子による迫害がどの期間続いたかについては、正確なところはわからない。というのも、私は迫害が始まると同時に、自分からも女子を避け始めたからである。いちいち嫌がられてまで近づきたくはなかったのである。
 従って、女子との交流がなかったのは、果たして迫害によるものなのか、それとも私が自ら女子を避けていたことによるものなのか、はっきりと区別することはできない。
 さらに私を避ける原因というのも、制裁措置によるものか、本当に汚いと思っていたのか、それとも私が暴れる子供だったために、うかつに近づいてケガをしたくなかったからなのかも判別しづらいところがある。学校でもナイフを振り回してキレる奴として有名だった上、女子に対しての敵意は強く、女子に話しかけられても無視しているか、不機嫌そうな声をあげてぎろっとにらんだりしていたのだ。声をかけただけでも殺されかねないわけで、当然そんな奴に近づく者もいないのである。
 さらに小5の初めにクラス替えがあり、クラスの半数以上が他のクラスの人といれかわった。結果、クラスの中に「事件をよく知っている人」「例の事件をよく知らない人」「私自体をよく知らなかった人」「利害関係がないので全く興味がない人」が含まれるようになる。おそらくクラス替えより後、「暴れるから」という理由が、私を避ける上で一番の理由になったと思われる。
 私に対する迫害は、クラスに「優等生」の女子が存在したことが、拡大の大きな要因になったと考えられる。彼女は1年生の時から常に成績優秀で先生の言うことも聞く「優等生」であり、教師や親たちの信頼も厚く、女子たちを束ねているような存在だった。学年全体に迫害が拡大したのも、この女子の影響によるところが大きいと思われる。私も常に、この女子を最大と敵であると認識していた。
 迫害は、同じクラスの女子とそうでない女子とで、程度に大きな差があった。違うクラスの女子ほど、汚いと言って極端に避ける傾向があった。私が廊下を歩いていて、ことさらに避けようとしていたのは他のクラスの女子で、特にとある3人の態度がひどかったのをよく覚えている。3人とも目つきの悪い女子だったが、その中の一人が、体も大きく角張った顔立ちで、顔の形に彫られた石板が歩いているような印象の、要はあまり美しくない容貌をお持ちだった。目つきの悪さも含めてその異様さのためか、よく覚えている。
 クラスによる私への態度の差は、小5の林間学校におけるフォークダンスでの事例でよくわかる。
 小5の夏に行われた林間学校で、初日の夜、男女が手を取り合って踊るというフォークダンスが予定されていた。大して難しいダンスではないのだが、問題は”手を取り合って”踊ること。他の男子、女子たちは単純に手を取り合うことが嫌だったわけだが、特殊事情のあった私にとっては、女子に極端に嫌がられることが一番の問題だった。私はなんとか”手を取り合わずに”踊る方法を編みだし、林間学校前の練習で実戦投入できるまでにこぎ着けた。ここまでやったのはおそらく、全学年で私一人であろう。
 さて、実戦ではこのダンスは、同じクラスの女子と踊るところからスタートし、ダンスが続くにつれて他クラスの女子とも踊らなくてはいけなくなる。”手を取らない”ダンスは非常に有効に働いたわけだが、同じクラスの女子が自分が踊りやすいように、となんとか手を取ってこようとした(一部の背の高い女子には無理矢理手をつかまれた)のに対し、他クラスの女子は私の変則的な動きに驚いたのが半分、すんなり受け入れたのが半分で、手を取ってこようとする女子は一人もいなかった。また自分が私と踊る番になると非常に嫌な顔をするのも特徴で、他クラスのエリアに入ってからは、さながら『ブスがさらにブスになる、ブスの品評会』のような状態を呈していたのである(自分のクラスの女子は比較的、きれいな人が多かったように思える)。
 このように、クラスが違うことによって、女子の態度には大きな差が見られた。
 おそらく、うわさで聞く私のイメージが、尾鰭のついたそうとうにひどい物であったと思われる。実物はさほどでもなく、また普通の勉強においてはクラスの男子ではトップクラスの成績だった(但し体育は全くダメである)、という点が評価されたのだろう。

 人間とは都合のいい動物で、迫害の内容については避けられたということ以外、いつどんな時にどんな環境で避けられたのか、ほとんど記憶にない。記憶の中で「嫌なやつ」というイメージがある女子から、かなりしつこくからかわれていたようだが、その具体的な記憶は全くない。そうして残っている記憶といえば、女子が珍しく友好的に接してくれた時のものばかりである。
 小3の3学期、出来たばかりの自宅を見に、女子3人が私の部屋を訪れたことがあった。嫌だと言っていたのに無理矢理ついてきたのだ。この中には1986事件で「仲介役」をした女子もいた。
 その女子は「菌がつく」はずだった私の部屋にあがりこみ、押入の片隅に置いてあった、手垢やホコリで灰色っぽくなった、傍目から見て明らかに汚いぬいぐるみを引っぱり出して抱きつき、「これ、ちょうだい」と言ったのである。
 幼稚園のころからずっとかわいがってきたぬいぐるみなのだが、ホコリで服が灰色になりそうな、抱きついたら異臭がしてきそうな、とても他人に抱いてもらうような物ではない。本心から「やめろ、汚いから」と言ったのだが、「いいじゃないの」としばらく放さなかった。これ以上とんでもないものを引っぱり出してもらいたくなかった私は、もう見たからいいだろう、と早々に追い出した。
 さらに同じ頃、他クラスの女子から「友達になってくれ」という申し出を受けている。これはなんとたったの1日、彼女の家の近くで立ち話をしただけで終わったのだが、お互いよそのクラスまで行って会ってこようとは思わなかった結果だろう。
 このように、既に同じ年度の3学期には、迫害はかなり薄れていたと考えられる。しかし当事者の私には、彼女たちに心を開く余裕も理由もなく、かたくなな態度をとり続けた。
 例えば、ちょっかいを出してきた男子を攻撃する際、関係のない女子に向かって(偶然であるが)武器の切り出し小刀を振り回したことがあった。女子はそれについて、彼女に謝れと言い続けた。別に私は彼女を攻撃するつもりは無かったわけだし、あれは流れ弾だった、と謝っても構わなかったのだが、相手が女子と言うことで謝らなかった。私にとって女子は敵であって、いつどんな理由で攻撃しても構わない存在だったのである。
 また別の女子には、過去にいじめの原因となったニックネームが存在していたのだが、それを聞きつけた私はそのニックネームをわざと使っていた。敵である女子を攻撃する格好のネタだったのである。しかし、女子があまりしつこく「つかわないでくれ」と頼むし、担任が出てきて仲裁に入り始めたので、しぶしぶ使わないことにしたのだが、彼女を傷つけた事については一切謝らなかった。敵である女子をいくら傷つけようといっこうに問題ない、と思ったからである。(また、そのニックネームはなかなかかわいらしくて、別に嫌がる必要もないじゃないか、と思ったこともある。)

 小5でのクラス替えの後はますます、私が避けているのか女子が避けているのか、判別しづらい状況となる。小5の2学期から放送部に入ったのだが、この時一緒に仕事をしたのが、クラスの女子と1つ上の女子の先輩である。当初は苦痛だったが、だんだんと慣れてきてうち解けられるようになった。残念なことに小5の終わりに、この女子は転校していってしまうのだが、そうでなければいい友達になれたかもしれず、その後の私も大きく変わっていたかも知れない。
 また、何かのイベントで女子2人――うち1人は、くだんの「優等生」である――と共同作業をした際、作業が一段落した後、3人でトランプゲームに興じたことがあった。あの時何を話したかはよく覚えていないが、女子が非常に友好的だったことを覚えている。
 さらに、これは本当の記憶かどうかははっきりしないのだが、とある女子の誕生日会に呼ばれたということもあった。確か最初は嫌がったが、友達が行くというのでついていったと思う。女子は嫌いだといってプレゼントは持っていかず、それでいてその場をそれなりに楽しんでいたりしたのだが、塾の授業を理由に中座した事を覚えている。
 6年になってから、私は生活を塾中心のものにシフトしていったわけだが、それにつれて小学校における生活に重点が置かれなくなり、迫害そのものが私にとって意味を失ってゆく。むしろ私のほうが女子を極端に避けていた面が目立った。
 卒業アルバムの集合写真を撮る際、真ん中の方に立っていたら、そこがちょうど女子と男子の境界線で、こちらに近づいてくる女子をなんとか避けようとしてちょっともめたことがあった。私は無理矢理隣の友達と立ち位置をかわってもらった。
 夏頃にあった臨海学校では、くじ引きでもってクラスを越えた班編成をさせられたのだが、この時の女子も比較的、私には友好的だったように思われる。
 秋頃、家庭科の授業で「ごはんとみそしる」を作ることになった際、全員で食べるものを全員で作るのが初めてのことだったということで、女子はおそらく私を作業工程から完全に外すであろうと思われた。家で作ったことのある私は、作業工程すべてを自分と班の男子だけで牛耳ることに決め、見事に女子を追い出すことに成功した。女子にも作業をさせてやれと言う担任には、こうでもしないと女子は私を追い出すだろうから、とつっぱねたが、当然の事ながら担任は信用しない。しかし後かたづけを含め、すべての作業工程から完全に排除することはできたのである。その翌週、報復の憂き目にあったものの、「面倒な」後かたづけの工程を買って出て、担任の前でナベを磨くことで女子の報復を無に帰した。
 このころ、隣に女子のいない「孤島」暮らしをしていたのが、席替えで隣に女子がいるようになってしまったとき、給食で女子と席をくっつけることになり、「汚いモノがうつるでしょうから」と自分から女子と机を離した。当時男子と女子の仲がそうとう悪くなっていた頃で、友達である男子も追随してしまったことで、担任も交えた騒ぎになった。以降私は班から離れて一人で食べるようになった。
 また、文化祭かなんかの準備で女子の家を訪れた際には、やり方だけをだいたい教わって「あとは作るだけだからいいだろ」と友達を引き連れて、歩いてすぐの自宅に戻ったこともあった。その直後、家に電話があったが、それすらもさっさと切り上げて切ってしまった。
 このように、一部の女子にはアクセスを試みる者が存在したにも関わらず、私はすべてを拒絶していたのである。もし、多少なりとも私が心を開くようなことがあれば、環境は大きく変わっていた可能性もある、と考えられる。

 このように、様々な要因が交錯し、私が受けた迫害の全貌を明らかにすることは不可能である。特にクラス替え以降、直接的に強い影響があるほどの迫害を受けていたかどうかは疑わしく、むしろ女子は友好的に接してくれていたふしが伺える。
 しかしながら間違いなく、1986事件の直後は、私は女子からことさらに避けられていた。それが私に「女子には嫌われる体質なのだ」という意識を植え付け、それがその後何年も、女子に心を開けない原因となった。そして、女性に積極的に出られない原因の一つとなっていたのである。

(00/8/3初出、01/1/25加筆修正)
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