2−33.共同生活の難しさ

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 最近、例の友人に恋愛の相談を毎日のように受けてもらっている。
 友人は私の恋愛について、「本当に大丈夫なのか?」と当初から危惧していたらしい。もともと女嫌いで気も利かないはずの私が、彼女を全力で支えていくんだと躍起になっていたり、その後私が話すのろけ話なんかで、もしかして無理をしてるんじゃないか、と思っていたらしい。
 ことに、去年の就職活動期の「同棲生活」を、友人は本当に心配してくれていた。
「おまえ、ほんとに大丈夫なのか。やめといたほうがいいんじゃないのか。」
 友人がそう私に忠告してくれたのは覚えていたが、私はなんとかなるだろう、と強く思っていた。なぜなら一緒にいたかったから。一緒にいることに喜びを感じていたから。むしろ彼女がうちにいてくれることに、あの時は本当に楽しみにしていた。
 だが、現実は想像ほど美しいものでもなかったりする。というか他人同士の共同生活、というものは、例え大好きな人が相手であっても、それなりに大変なのである。

 一番の問題点は、プライベートというものがなくなる点にある。
 彼女と一緒に暮らす、ということは、嫌でも100%一緒にいる、ということを指す。こう書くと愛し合っている二人にとっては最高、と思うかもしれないし、事実最初はこれほど幸せな日々もないと思った。だが、例え仕事で余計な人と腐るほど会って、もう人と会うのは嫌だ、と思ったとしても、家に帰ったら愛しているとはいえ他人がいるのである。完全に一人でいるよりも当然気を遣って、疲れが出てくる。
 しかも家にいる相手、というのは自分の大好きな人である。大好きな人に家に来てもらったら、それも就職活動で大変な苦労をしているなら、大切に扱ってあげないといけない、という気分になる。これは例え外で人とぶつかってきて、もう人と話したくないなぁ、と思っていても、家には待ってる人がいる。待ってくれる人がいるという喜びは、仕事で疲れすぎていると、いつしか「待ってる人に何かをしてあげなければならない」という気持ちに変わっていってしまう。早く帰らなきゃいけない、帰ったらいろいろしなきゃいけない。そうしたもろもろの思い――元は「してあげたい」というだけの気持ちが、いつしか強迫観念へと変化していってしまう。
 さらに、同棲生活では「どちらかの」家に泊まりこむことになるのだが、泊めているほうには「お客様を迎える」という意識があり、泊まってるほうには「居候」という意識がある。客人に何かさせるのはよろしくない、でもできない、という苦しさがある一方、泊まっている彼女にしてみれば、私の生活を邪魔している、という苦しさがある。これをお互い意識しすぎると、その意識が自分の手かせ足かせになって、関係がどんどんと堅苦しくなっていく。そうして一緒にいること自体が窮屈に感じてしまうようになる。
 ことに二人ともやりたいことが違ってしまった場合に困る。
 私は会社から帰ったら、すぐにでもゲームに飛びつきたい。一方で彼女は一緒に映画でも見てのんびりしたいと思っている。せっかく大好きな人と二人でいるのに、何で別の部屋で別のことをしてるんだ、という悲しさ・寂しさが欲求不満や後ろめたさとなって襲い掛かってくる。
 このように、今まで気が合うとはいえ別の生活をしてきた二人が一緒に生活する、というのは、かなり大変な話なのである。

 1年付き合ってきたとはいえ、実際に会うのは月に1度、せいぜい12、3回というところである。近距離恋愛の人なら3ヶ月で十分消化する。逆にいえばその程度のつきあいしかない、ということになる。にもかかわらず、共同生活などという難事業に手を出そうと言うのだ。本当に常に一緒でも心安らいでいられるほどの交流があったのか、はかなり怪しい。
 海外留学で共同生活の経験のある友人は、例え親しい仲であっても、ここはこうする、という線引きがないと共同生活は厳しいのだと言う。お互いに生活パターンは異なるので、その異なる点をわかった上で妥協点を見つけ、意識のすり合わせをしなければならないのだという。
 二人の間でそれが出来ていたか…結論は火を見るより明らかだろう。

 友人は私が別れたという話を聞いて、嫌な予感が的中した、と言う。
「あの同棲が無かったら、今でも余裕で続いてたと思うよ。まだブッコには無理だったんだよ。」

(03/2/3)
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