2−25.あの時の気持ち

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 8月以降、私は一時期、元の女性嫌いに戻っていた。以前女性に対して持っていた気持ちがそっくりそのまま復活した、そんな具合である。会社で誘われた合コンも、合コンでうまく立ち回る自信がなかったこともあるが、女の子に一方的にサービスしなければならないのでは、奴隷化しないといけないのでは、という不安があった。
 彼女とケンカになった10月末のチャットでも、私がそういう『男女論』を連日のように叫び、彼女を嫌な気分にさせたことによる。
 私はなぜあの当時、「女性嫌い」に戻ったのだろうか?

 実を言うと、彼女と付き合っている間も、「女性嫌い」は健在だった。
「どんな女性だって、彼女よりもどこか女性のいやな部分を持っているだろうし、彼女みたいに私を受け入れてはくれないだろう。」
という思いのもとに、他の女性から目を背けていた。一時期目移りしたことがないとは言えないが、最終的にはこの結論に戻っている。

 では、当の彼女は女性ではなかったのか、と問われると……恐ろしいことに、私は彼女を「女性」としては見ていなかった、と答えるしかない。
 私の中では、彼女は男性としても女性としても分類されない、「彼女」という存在だったのだ。
 私は彼女のことが好きだった――なぜなら、彼女は「女性」ではなかったから。女性のいやな部分をほとんど持っていない、きわめて貴重な存在だったから。
 この傾向は、彼女と別れた後も続いている。そうでなければ、私は彼女に対して「女性は…」などと言ってはいない。そんなこと、危なっかしくて言えたものではない。

 別れた後も、私にとって彼女は「彼女」という特別な存在でありつづけた。そして彼女だけは私の「女性嫌い」論にあてはまる部分のない、すばらしい人だと感じていた。
 しかも、私は他の女性ではそれだけすばらしい人はいない、と考えていた。
 つまり…私は彼女が大好きだった、のである。
 彼女には「好きでも嫌いでもなくなった」と告げたにもかかわらず、である。

 では、なぜ私は「好きでも嫌いでもなくなった」などと言ったのか。
 今、当時の感情を表現するなら、
「今は恋愛感情よりも自分のことで精一杯。なので好きとか嫌いとかの判断を下すことが出来ない
だけであって、彼女のことが「どうでもよくなった」のではないのである――「どうでもいいその辺の人の一人だとしか思えなくなった」という判断すら下せない状態にあったのだ。
 その気持ちの整理と表現に失敗した結果が「好きでも嫌いでもなくなった」という身もフタもない言葉となったのである。

 9月、彼女と「最後のケジメ」とディズニーシーに行った時、私はつきあっている頃と同じように彼女に優しくしたり、普段は絶対乗らないコースターものにも乗った。彼女は
「なんで最後になってそんなにやさしいの?」
と核心を突いてきたが、私はなぜか
「そりゃ、大切な友達だから」
と答えている。大切な友達――ブッコ学会員とディズニーランドに行ったからと言って、相手に気を使ったり、コースターものに誘われて乗ろうとなど絶対にしない。
 彼女のことが好きだからに決まっている。

 なのに私が「大切な友達だから」と答えたのはなぜか。  8月の電話で「私も好きでも嫌いでもなくなった」と彼女に告げられていたこと。今更蒸し返してもしょうがない、と思ったことが一つ。
 もう一つは、彼女が私の前からいなくなる、ということについてわかっていなかったことである。実のところ、別れてからも付き合い方は大して変わっていない――気分の問題だけ、というところがあって、本当に別れる、つまり彼女に新しい彼氏が出来た時にどれだけ辛いか、ということについて考えが及ばなかった。そのため別れることに対する危機意識が薄くなり、自分の心の分析も甘くなったのである。
 結局、彼女に新しい彼氏が出来る、という現実が襲ってくるまで、気がつかなかった。

 このように、自分の気持ちの分析の甘さ、今どういう事態になっているか、今後どうなるかの事態について甘く見ていたことから、適切な表現に失敗した上、心にもない発言をすることとなり、彼女を傷つけることとなったあげく、失敗を取り戻すチャンスすら失ったのである!!

 この結論が出て以来、私は毎日のように彼女への罪悪感と未練にさいなまれるようになった。大切な人にひどい扱いをしたこと、自分の愚かさを嘆き、ここ数日家に戻ると泣いている。「彼女よりも好きだった」はずのゲームすら手につかない。
 この気持ちへの対処・対策については、まだ検討中、としか言えない。
 友人の話では、新しい彼女が出来るまで抱え続けることになるらしく、友人の場合6年も苦しんでいるらしい。本人は「もう慣れた」と言っているが、いつまでどうやって耐えていくか、そもそも耐えられるかどうか疑問である。

 さて、肝心の私の女性嫌いは、どうなったんだろう?
 恋愛感情論の整理をする過程で、女性の性格には、ある程度似た性格を持った「集団」はあっても、個人差が大きいためにすべてをひとくくりにできない、そのため『男女論』はほとんど意味をなさないことがわかった。
 彼女も当然のことながら一人の女性であり、彼女は女性として私を愛してくれて、その愛の力で尽くしてくれた。女性の中にそれだけのことをしてくれる人がいたことに間違いは無い。
 同期や後輩でも、彼氏は別にいるが、一人の人間として私を高く評価してくれる女性がいる。同じように私を評価してくれる彼氏のいない女性がどこかにいる可能性は否定できない。
 そして先日行ったスキーでのレッスンでも、一緒になった女性に自分から話し掛けることに成功した(相手が乗り気でなかったので何も無かった)ことで、必ずしも冷たい人ばかりでないこと、こちらが丁寧に接すれば答えてくれる、ということを再認識した。
 なので、今までの『女性恐怖論』については、女性全員にあてはまらない、という意味で、もう捨ててしまっている。

 だが、性格の選り好みは激しいことに変わりはない。
 ことに「彼女」はいまだに私の心の中で特別な存在でありつづけているため、相手の女性を彼女(それも二人の関係が最高だった頃の)と比較してしまい、絶対的に一人の女性として評価しづらくなっている。
 つまるところ、自分から振ったにもかかわらず彼女をあきらめきれていない、という異常な精神状態にある、と言っていいのである。
 今後この気持ちをどう処理していくか――今後の重要な課題となっていくだろう。

(03/1/19)
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