2−9.結婚は束縛か

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「束縛されたくないから、結婚しない」
 ”ウーマンリブ”華やかしき頃はなかなかに説得力のあったこの態度も、流行が廃れた今、すでにだいぶ古くさい考え方だと言わざるを得ない。しかし、このような考え方を持っている女性が未だにかなりの数、存在することは間違いのないことだろう。
 日本の結婚制度には不備が多く、女性に不可避の負担を強いるような部分があり、改善の余地は多く残されている。出生率を上げるためにも、制度の拡充を進めて行くべきだろう。
 そうした制度上の不備を取り除いても、結婚、というのはお互いを束縛せざるを得ない性質を持っている。同じ一つの家庭を基盤として生活してゆくことは、お互いの行動を束縛しないわけにはいかない。
 しかしながら、これは何も女性だけを束縛するものではない。男性にしても、よその女の子と遊べないとか、貴重な休日を「家族サービス」で潰さなければならないなど、家庭を持つことによる束縛はかなりのものである。自分の妻を「やまのかみ」と呼んでいることからも、かつて女性に代表されていた家庭すなわち結婚生活というものが、男性に対して拘束力を持っていることがうかがえるだろう。
従って、「束縛されたくない」という言い方は、男性女性どちらが言ったにせよ、自己中心的だと言わざるを得ない。自分と結婚したことにより相手が束縛される、ということについて考えが至っていないのである。
 恐らくそういう人は自分に相当の自信があって、黙ってても異性がかしづいてくれると思っているのだろう。かなり傲慢で身勝手な考え方であると言わざるを得ない。

 結婚に限らず、恋愛もまた、十分な束縛力を持つ。
 かつて私は、恋人ができるとどれぐらいの費用がかかるか、を考えたことがある。
 年間平均して月に2度の休日、一日どこかへデートに行くとする。交通費、食事代、アトラクションでの費用などを考えると、完全にワリカンにしたとしても、一回のデートで5000円は見積もっておかないとまずいだろう。それだけでも月1万は必要となる。それに毎晩の電話代やそれにかかる時間、バレンタイン(ホワイトデー)、誕生日、クリスマスでのプレゼント費用などを考えると、年間15万では足りないかもしれない。これが恋人の「維持費」となるわけだが、これはもちろん自分だけではなく、相手にもふりかかってくるのである。
 自分でもこれだけの経済的な負担を負うのは難しいというのに、それを等しく相手に求めるわけにはいかない。相手に負担を強いたくないから、相手を束縛したくないから、同時に自分も束縛されたくないから恋人は作らない、という結論を出したこともある。

 しかし、これもCapter2−7で陥った誤りと全く同じで、目的と方法を間違えているのである。
 デートするのはなぜかと言えば、恋人と一緒にいる時間を得るためである。恋人と一緒にいたいと思う理由は、恋をしているからである。すなわち、
「恋をする」→「一緒にいたい」→「デートする」
という因果関係があり、決して逆ではないのである。
 好きな人と一緒にいるためなら、年間15万は決して高い費用ではない。お互いの生活を束縛する結果になったとしても、それを束縛とは思わないだろう。束縛である、と感じた時点で、一緒に過ごしたいと思っていない、すなわち恋をしていない、ということになるのである。

 結婚もこれと同様に考えることが出来る。
 なぜ結婚をするのか。世間体や制度の問題は、今の世の中、ほぼ無視できるだろう。結婚の目的は、好きな人と共に生き、一つの幸せな家庭を築いていくためである。なぜそう思うかというと、相手のことが好きで、一緒に過ごしたいと思う気持があまりに強くなり、一緒に生活したいとおもうまでになったからである。もちろん、「共同生活を送るのにいい相手」と結婚する場合もあるが、それも「一緒にいたいと思う」という定義からはずれていないと言えるだろう。
 この場合の因果関係は
「恋をする」→「一緒にいたいと思う」→「一緒に生きていこうと決意」→「結婚」
となる。
 したがって、「一緒に生きていこうと決意」するだけの人がいれば、結果として結婚するわけで、多少の生活の不便さは束縛とも何とも思わないだろう。それを「束縛」だと解釈してしまうようでは、本当に「一緒に生きていこうと決意」できていない。

「自分が束縛されたくないから、結婚はしない」
 いくらそんなことを豪語したとしても、いい相手が見つかればきっと結婚するだろう。そして「この結婚は束縛じゃない」と言うだろう。束縛と感じない結婚こそ、本来の感情に根ざしたものであり、本当に幸せな結果を生む結婚なのであろうと思う。
 逆に「相手を束縛したくないから結婚しない」と言う人こそ、本当に結婚しないだろう。本来の恋愛感情に根ざしたものであっても、相手が束縛だと感じるかどうかに関係なく、自分の存在によって相手を少しでも束縛することに代わりはないのである。

 結婚とは恋愛か、あるいは共同生活の必要性に迫られた結果である、と私は考えている。中間をすっとばして結果だけを求めても、それはムリな話である。そして、きちんと順序立てて結果としての結婚をすれば、それは決して「束縛」と感じるものではないだろう、と思うのである。

(00/2/2)
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