2−7.恋人に求めるもの

コーナーのトップページへ HOMEへ戻る


 以前、ふと考えたことがある。
「私は、なぜ彼女が欲しいと思うのだろうか?恋人に何を求めようと言うのだろう?」

 別段、友達がいないわけでもないし、それが女性である必要性はこれといってない。彼女がどうしても必要なこと、など、とりたてては何もない。
 もしかすると、「彼女がいる」というステータスが欲しいだけかもしれない。もしかしたら、カラダだけが目的かもしれない。
 そう思った時、私は恋愛は当分するまいと誓った。そんなくだらない物のために女性を求めるなど、失礼きわまりない。別の何か、きちんとした目的を見いださない限りは、私には恋愛をする資格はない。

 このような考え方は、恋人、というものを誤解していることによって生まれる。
 「恋人」がどんな相手であってもいい、というなら、とうぜんステータスや経済力、カラダといったことが目的となるだろう。
 しかし、「恋人」というのが、自分が愛する相手、というなら話は別である。ステータスやカラダといった内容は単なる結果であり、側にいること自体、時間を共有すること自体が目的となる。ある相手に強い興味を抱き、そこから一緒にいたいと思うようになった相手であるなら、それは当然のことである。カラダはあくまで、愛し合った上での結果でしかないのである。

 恋人は自分で「作る」、というよりも「できる」という方が自然であろう。もちろん、多くの人と出会って恋人となる人を捜す努力は必要だが、ちょっと気の合う人となら誰とでも恋人になる、というわけではなく、強い興味を抱けるような相手がいて、その相手が自分に対して同じような興味を抱いてくれないかぎり、恋人どうしになることはできないだろう。
 そういう相手にならば、ステータスや経済力、カラダだけを求めると言うことはないだろう。恋人を「作ろう」と考える人ほど、相手はどうでもいいわけで、その目的は薄いものである。

 それでは、あくまで恋の結果として、明らかにそうとわかる相思相愛の相手にカラダを求めていいのだろうか?
 栗本薫の長編小説シリーズ「グイン・サーガ」の第67巻『風の挽歌』には、とても興味深い記述がある。

 好きな女性に対して「かよわい彼女を守ってあげたい」と強く望むあまり、その女性に十分に手を出せる立場にありながらいっこうにその素振りを見せない、カタブツな騎士。彼に対して、かつては男まさりの剣士としてならしていたが、今ではドジばかりふむ吟遊詩人の妻となり、子供ももうけた女性が言った言葉である。

「私は女だからわかるのだけれど――女はね、そういつもいつも、大切に、大切にされていると……とても不安にこころもとなくなるものよ。……むろん、大切にされているのはいい気持だし、愛されている、と思っていい気にもなるものだけれど――でも、一方で、なんだってこのひとはこんなにいつまでも私にふれないのかしら、私をそういう意味ではほしくないのかしら、もしかして、それは親のような愛情であって私の求めるような、男としての激しい恋情ではないのではないのかしら、ってそう思ってしまうときがあるのよ。たまには、荒々しくふるまわなくてはだめ。…(中略)…あなたがあんまりいつもやさしくてうやうやしくて丁寧で紳士的だから、あの子は…(中略)…あなた自身の心はどこにあるのか、とかんぐって苛々しているのではないかという気がするわ。」

 もちろん、これは小説中の女性の言った言葉であり、著者が本当にそう考えているのかどうかも、はっきりとした証拠があるわけではない。しかし、他のホームページなどの記述を総合して判断すると、これは妥当な考え方ではないだろうか、と思われる。
 女性たちにとって、カラダはやはり愛の結果なのだろう。愛がなければ体を合わせようとはしないかわり、どれだけ関係を深めても体の関係が全くない状態は、愛の無いことを示しているのかもしれない。

 私はこれまで、カラダへの関心は薄い方だと思ってきた――というより思いこもうとしてきた。しかし、女子嫌いで変に抑圧されていた分、カラダに対する関心はむしろ強い方かもしれない。積極的に何度もやりたいとは思わないが、一度どういうものなのか経験してみたい、という気持ちは強いし、相手が好きな女性だったらどれほどすばらしいことだろうか、と思う。
 しかし、私はいたずらにカラダを求めるつもりはない。カラダはあくまで結果であって、目的ではないのである。一緒にいるからやるのであって、やるために一緒にいるわけではないのである。

(99/12/19)
このページの先頭へ戻る


コーナーのトップページへ HOMEへ戻る