ホームページの読者の方から、感想のメールを頂いた。その中で、
「男子校においてはいじめはなかったのか、男嫌いにはならなかったのか」
という趣旨での質問を受けた。これについて、述べてみたいと思う。
男子校に入った私は、100%楽しいだけの生活が待っているわけではなく、むしろ中学の間は陰湿ないじめを受けた。靴を隠されたり、机を汚されたり。一人ではさすがに手に余ったし、教師の助力を仰ぐのに抵抗はなかったから、わざと遅刻して汚された机を教師に見せつけたりして注意を引き、その後は体育の時の荷物置き場や駆け込み寺として職員室を使わせてもらうようにしたこともある。
彼らのいじめが終わったのは、大学受験が身近になってきた高校2年になってからのこと。いじめをしている暇があるなら受験勉強をしないと、という雰囲気が出るようになってからである。それまでは規模こそ小さくはなったが、いつまでもしつこくつついてくる連中がいた。この間、私が男子嫌い――つまりは人間不信に陥らなかったかというと、案外にそこまではいかなかった。
理由の一つとして、数少ないながら友達がいたことがあげられる。
当時所属していた「歴史部」には、中学1年で同じクラスになり、そのままつきあいを続けている友達がいた。彼らは現在「ブッコ学会」の中心メンバーであるが、彼らは僕をいたぶるような真似はほとんどしなかった。何かあってもそれなりにフォローもあり、仲良くしてもらえる親友である。高校に入ってからは、彼らの関係者やら何やらでだんだんと友達も増え、そうして出来た集まりが「ブッコ学会」である。次に、男子のいじめは相手の特定が容易だ、ということが挙げられる。確かに誰がやったかわからないが、犯人(グループ)は自分のやったことを誇示したがるため、うすうす気がつく。この点が女子による迫害との大きな違いである。
女子による迫害は、誰が特定にやったのかよくわからないし、本人たちも実行者・扇動者の所在をともかくあいまいにする。従ってぱっと見には「女子全員に」やられているように見える。本当は中心となるグループがあって、周りは操られているだけなのだが、その区別は難しいし、操られている側と操っている側の行動パターンがとてもよく似ている。
それに対し、男子の場合は犯人グループがいかにも「やってやった」と満足げで、何度も同じ手を使う。村八分だけでは飽きたらず、必ずちょっかいを出してくる。「矢をいかけられれば射手は自ずとわかる」の言葉どおり、どんなにかんの鈍い人でも「あいつらだ」と簡単に目星をつけることができるのだ。
従って、僕は男子全体ではなく、特定のグループを敵視することができたのである。
もちろん、今ではもっと巧妙な男子によるいじめや、グループがあからさまにわかる女子によるいじめなどが広がっているから、必ずしもこう、とは言えないが、男子のほうが自分の行動を誇示したがる、と言う性質は今も昔も、というより霊長類(広い意味での「お猿さん」)自体にそういう性質があるらしい。そのためいじめの性質も根底部分では違いがはっきりしていて、男子によるもののほうがより犯人が鮮明に浮かび上がってくるのである。最後に、男子が「男子全体」でまとまらない、ということが挙げられるだろう。誰かがいじめを始めたからと言って、それに同調しなかったからと言って周囲による制裁は全くない。いじめを始めたグループととても仲のよいグループでも、同調せずに独自に攻撃をしかけるような行動を取ることもあるし、グループ内でも必ずしも同調するとは限らない。そのためますます、「あのグループ周辺」という犯人の目星がつけやすく、自分はそれに敵意を向けるだけですむのである。
また、いじめに同調しないグループを制裁することはないから、僕の属している集団「ブッコ学会」メンバーが制裁を受けるわけでもない。僕はいじめをうけつつ、「ブッコ学会」のメンバーとつきあっていけるのである。
女子の場合、グループ間・グループどうしの行動を同調させる傾向にある。誰かが攻撃対象になると、「この子とあの子は友達だから、この子とつきあってはいけない」という形で行動の同調が起きるようだ。そうして攻撃対象となった人は、数少ない友達をも外され、完全に孤立させられてしまうと思われる――以前から完全に孤立している人でない限り、いわゆる「友達の輪」にひっかからない人はいないのである。このような行動は、男子には、よほどの利害関係がからまないかぎり、起こることは少ない。
したがって、男子の場合には、一人でも友達がいさえすれば、いじめの包囲網から抜け出すことは非常に容易であるが、女子の場合には友達を道連れにするほどの覚悟が必要なのではないか、と思われる。私が男子の集団の中で極端な立場をとり、敵対するグループを作ってしまうのは、小学校の時からのことである。女子嫌いになった当時も、私には敵対するグループと数少ない友達、という状況があって、男子校ではそれの人数が拡大したにすぎなかった。男子校と共学での環境の違いは、私にとっては、「集団で陰湿に攻撃してくる”女子”というグループがいないかどうか」であり、深刻な人間不信に陥ることはなかったのである。
逆に、私の状況が女性に訪れた場合、人間不信の道を進まされる危険性はかなり高い。つまり男子による攻撃を受け、その上で女子の多くと敵対関係にある場合である。
男子がある特定の女子を攻撃する場合、これはグループ間の「同調」というより、その女子と「仲がいい」=「つきあっている」という誤った認識をされたくないために、その女子をかばうことが出来ない――攻撃を受けている、つまり不人気な女子をかばうのには、何らかの理由がある、という考え方である。
別につきあっていたからと言って特に攻撃されるわけではないのだが、実際につきあってもいないしつきあう気もないなら、誤解を生むような行動は慎むべき、ということになり、結果、特定グループの攻撃に同調するか、あるいは黙認する。結果として男子全体がその女子に冷たくしていることになる。
次に、女子による攻撃を受ける。これは「友達の輪」によって女子全体に波及し、攻撃を受けた女子は完全に孤立するだろう。彼女と一緒になって頑張ってくれる、よっぽど献身的な友人がいない限り、その女子は女子をも信じられなくなるのであろう、と思われる。
こうして、その女子は人間不信となり、人付き合いそのものを苦手としてしまう、と考えられる。
もっとも、男子のグループ間の結束は強くないので、どれかの1グループに入ることが出来れば、そのグループの「一員」となるため、グループ全体でその女子を援護する形が出来るため、むしろ女子とのつきあいを苦手にすることになるだろう、と思われる。
(00/1/16初出、00/7/19加筆修正)