ぶっこ旬報
のページでございます

2001年2月のブッコです。

下へ進むほど、新しい旬間・日付の記述となっています。

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〜2001年〜


2月上旬のブッコ(2/1〜2/10)

2月1日
 日経の1面におかしな顔写真が載っている、と思ったらセガの大川会長兼社長だった。目を丸くして「ひええっ」と言ってるような顔つきで、記事の内容が「850億自腹」……記者はこの写真、狙って入れたんだろうか??
 大学で自分の成績表を改めて出してもらい、卒業のための単位は既に手に入れていることを確認する。今年のゼミの単位は完全に”保険”となる。あとは先生が卒論を通してくれれば、晴れて卒業である。

2月2日
 サークルの元関係者から、感想のメールを頂戴する。いずれそういうこともあるだろうと思ったが、あまりいい書き方はしていないので、大変恐縮である。
 アジア音楽関係で検索して偶然見つけて下さった、ということだが、このページは同じようにして、アジア音楽に興味のある方々を惑わしているのかも知れない。私はたまたまそういうサークルにいた、というだけの話で、内容はアジア音楽とは何の関係もないのだから。

2月4日
 親が夕食を9時に設定してきやがった。私が長電話するのがだいたいこの時間だというのを知っているくせに。狙われてるな。

2月5日
 ビデオに録ったドラマを見ようと思うが、既にリタイヤしている父親がリビングに陣取っている。キワドイところのある恋愛ドラマだけに、父親とは一緒に見たくない。

2月6日
 金銭的に苦しくなってきたので、短期の仕事を探そう、とネットで検索してみるが、いいのが見つからない。

2月7日
 ネットで見つけたバイトに電話をかけたら、「カナ入力でブラインドタッチ出来ますか?」と言われた。ローマ字入力じゃない、あのカナ入力である。ローマ字入力に切り替えが出来ないようなシステムなんて、一体どんなモンなんだろう……??

2月8日
 内定先の企業からゆうぱっくが届く。中には本が3冊入っている。一番分厚く巨大な本が重要で、これでレポートを10枚書いてこいと言う。内容的には第二種情報処理技術者(現基本情報処理技術者)と同じなので、決して難しくはないのだが、レポートに何をどう書いていいやらよくわからないので、とりあえず読み進めてみることにする。

2月9日
 配属先通知が届く。配属される部署の名前だけでは、その内容が判断できない。とりあえずSEの仕事だと言うことは間違いないらしい。事業所はT県西部の事業所。これで赴任扱いでの引っ越しは間違いのないところだろう。

2月10日
 忙しい週を前に、NOVAに出かけておく。これから当分行けそうにない。

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2月中旬のブッコ(2/11〜2/20)

2月11日
 『海外ぶっこ』の記事をアップ。そろそろ記憶が怪しくなってきている。早くアップしなくては。

2月13日
 メール友達の一人から、恋人と大変順調な交際が続いている、と喜びのメールが届く。心から祝福したい。

2月15日
 サークルでは、来月4日に演奏会を開催の予定だという。いろんな意味でイレギュラーを起こした今年、現部長の努力のおかげでどんどん活発になってきている。この日はそのために師匠にレッスンを受けにいくという。頑張って欲しい。

2月16日
 朝からブッコ学会員のPCをいじりに出かける。ゼミ生に貸したまんまだったソフトを途中の駅で受け取り、その足で学会員宅へ。電車の乗り継ぎがしにくいので行くだけでも大変なのだが、彼にはいろいろ相談に乗ってもらってるし、SEとなる身にはいい勉強だろう。
 とりあえず面倒な(といっても単純な)作業を一つ残し、これはあとでやっておいてくれ、ということで作業終了。製本された卒論を手に入れ提出するために、大学に戻る。
 製本を頼んだ生協へ取りに行こうと思ったら、他のゼミ生と会った。なんと生協が閉まっているという!今日から3時閉店だという……そんな話聞いとらん。彼らも取りに行こうとしてダメだったという。どうしよう、と思っていたら、行動力のある一人が裏口を発見し、中の人と交渉してくれて、無事卒論を手に入れることが出来た。大したこと書いてないのに、なんだか偉そうな本である。
 先生に卒論を提出した後、”いつもの”天ぷら屋で追い出しコンパ。会議があるという先生は1時間ほどで中座され、あとは学生たちだけの飲みとなった。ノリとしてはほとんど二次会である。そのせいだか何だか知らないが、盛大な二次会は行われなかった。私はくだんの学会員との飲みを理由に一次会だけでおいとまし、待ち合わせ場所の立川へ。この飲みにはブッコ学会会長も誘っていた。駅の裏手に白木屋を見つけ、入る。
 飲みやすい酒もあったせいでハイペースになり、私としてはかなり酔っぱらった。修士1年の彼らにとっては就職活動が関心事となっているので、前日まで3年生あいてにやっていたような話をした。といっても研究室で1・2を争う秀才で、海外での論文発表経験まである、という会長は気楽なもので、どうせ4月に推薦状が出るまでやることもないだろう、と3月の海外旅行を計画していた。理系の就職活動については良くわからないが、今最も企業が欲しがっている電子情報分野の、大変優秀なスペシャリストだけに、多少動き出すのが遅くてもあっさり決まってしまうことだろう。
 そうしているうちにあっというまに2時間半以上話しこんでしまい、気がつくと終電が近づいていた。慌てて店を出て駅に向かう。途中まで会長とは帰りが一緒だったのだが、会長が乗った電車に乗り遅れた私は、次の電車で家に戻ったのだった。

2月18日
 去年11月のOB会に来ていなかったOBから、名簿を送ってくれとの催促が来た。来たOBと来ないOBの確認が取れていなかったので、大変遅れていたのだった。とりあえずそのOBにはメールに添付して、エクセルで作った原盤を送ることにした。

2月19日
 横浜の中華街へ知り合いと出かける。中華街というと、メシを食うか、中華まんを探して歩くかぐらいしかしたことがなかったから、結構新鮮だった。
 夕方、みなとみらいへでて、ランドマークタワーへ。時速45km/hのエレベータは意外と快適。上の展望台からのからの日没・夜景は悪くなかった。入場料1000円も払ってるんだし、1時間以上うろついててもかまわんだろう。
 夜はドイツで買ってきたワインをあけつつ、飲み明かす。

2月20日
 親からの留守電が大量に入っていて、それをうっかり聞いてしまってげんなり。まぁ無断で家に戻んなかったのは悪かったが…。飲み明かした相手も相手だったかもしれないが。
 この日もまた、山手地区の人形の家や公園なんかをぐるぐる。
 この日はさすがに仕方が無いので家に戻ったが…親父がすごい剣幕だった。この反応は予想してなかったな。
 こっちは男だから平気だと思ってたんだが…厄介なことになった。

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2月下旬のブッコ(2/21〜2/28)

2月21日
 内定先企業の社宅説明会へ。同じ部署の上司やら、同期数人が来ていた。
 この後はまた、例の知り合い(まぁ要は去年末に会ったメル友であり彼女なわけだが)と下町を回っていたわけで。

2月22日
 親の目を盗むようにして家を出て、部屋を探しに出かける。交通の面で便利なN駅周辺を考えていたが、物件が全くない。そこで元の構想どおりU駅へ。不動産屋で勧められた物件はデザインも良く、壁を叩いてみたが大変堅く、かなり厚そうだった。駅からは遠いがここでもいいかな、と思っていたら、次の見学者がやってきてしまった。このままでは取られる!と思い即決。仕事では、都心部に出なければならないことも多い。この地域は坂がないので、駅から多少遠くても、都心にも事業所にも電車一本で行けるこの場所は、自転車野郎にとっては絶好の位置である。入居日は3月1日に設定。一刻も早く家を飛び出したい。

2月23日
 母親が食事を持ってきてくれる。父親が「俺の前でメシを食わすな!」と言っているらしい。というより父親の視界にすら入れないうえ、退職して暇をもてあましている父親はたいてい家にいる。というわけでほとんど座敷牢のような状態で、部屋に押し込められているのだ。
 しかし引っ越しへの仕事は着実に進めている。NTTに、祖母が持っていた電話の加入権を自分に移せるかどうかを訪ね、手続きを母親に託す。さらに引っ越し業者にも手配をし、引っ越しのための段ボールの運び込みや、引っ越し日時の調整を図る。引っ越しは3月2日と決まった。あまりの早い決定に、母親も少し驚いた様子だった。事件があって2日で、とりあえず独立の用意を調えてしまったことになる。
 学会のメンバーにも相談に乗ってもらうが、どうも父親の行動が理解できない。しかし問題は父親の考えではなく、そういう考え方を父親にさせてしまった私の行動である。彼女の名誉を傷つけるようなマネをした私の責任である。

2月24日
 かかりつけの病院に行き、風邪を診てもらいがてら、ぜん息の薬をもらってくる。来月はじめには独立する、と言ったら、ゴハン作れるの、と心配されてしまった。小学生のころからかかっている先生である。注射を怖がって泣いてた子供がいつのまに、とでも思ったんだろうか?

2月25日
 今後の大事な足となる自転車を修理しに出かける。この自転車を買った地元の店で、とにかく良心的である。切れてしまったギヤのワイヤを、部品代にしかならないんじゃないか、という値段で直してくれた。素晴らしい。
 前日に、直属の上司となる人に、家が決まった、とメールを出したら、いいところに決まって良かったですね、とあたたかいお返事が届く。なんだかすごいいい人たちばかり集まっている会社だが、私もああいう素晴らしい人格を持てるようになるんだろうか?いや、ならなければいけない。採用された以上、その素地はあるんだろう。

2月26日
 引っ越し用の段ボールが大量に届く。
 本から箱詰めを始めるが、重いわホコリは舞い上がるわではかばかしくゆかない。かなり大量の本(おもにマンガ)を実家に放置していくことになりそうだ。

2月27日
 親の電話につけていたODNとタイムプラスの契約を解消するよう連絡を入れる。これでは3月以降、メールはできなくなるので、ライブドアの方に登録だけしておく。一度つないでみたら、PCの能力の問題でかなり重いが、なんとかやっていけることが判明。プロバイダ契約が済むまではこれで何とかしよう。
 固定電話の方は、父親がなんとかしてくれた。これで向こうでも安心してネットがつなげる。

2月28日
 この一週間引っ越しの用意をしつつ、ほこりの立ちこめる部屋に閉じこめられてきた結果、精神的に不安定になる。これから先、恋愛を続けていくことも、仕事やっていくことも自信がなくなっていった。これまで何度か、荷造りのために用意したカッターナイフを手首に当ててみたが、死ぬだけの気力もないし、死んだら死んだでまた問題が起こるだろう、と思い直した。そんなわけで引っ越し2日前になってもまだ、荷造りは半分も進んでいなかった。
 その夜、父親に呼び出された。独立する前の最後の夕食だから一緒に食べよう、と言う。おそるおそる食堂におり、とりあえず美しくステーキを食べる。その後、父親が「これだけは言っておかなければならない」と説教された。
 しかし、聞いているうちにこれはどうだろう、と思うことがいくつかあった。妙なエリート意識と、それに基づく一方的な評価。たった一つの点からすべてを評価するような姿勢。もちろん彼女についてはあのいいわけに基づく内容しか知らないから、父親がそういう評価のしかたをするのも無理はないが、あまりにもきめつけがすぎるように思えた。しかも賄賂と恋愛の問題を同次元で考えていることには首を傾げざるを得なかった。父親にかかっては、たとえどんなにいい仕事をした聖人君子でも、バレンタインのチョコレートを受け取っただけで死刑になりそうだった。
 私がやった失敗について、そして今の段階で取り返しのつかない失敗をしたことは素直に認めよう。しかし、「○○大学の〜」「大企業の〜」といった肩書きを振り回すような考え方だけは、どうしても納得がいかなかった。肩書きで仕事の出来る時代はほとんど終わっている。これからはいよいよ本格的に実績が問われる、そういう時代なのだ。
 父親というのは、もっと立派なもんだと思っていた。いつも正当で公平な評価を下し、名門の出だからといって鼻にかけるようなこともしないと思っていた。父親がまじめで悪いことのできない人間で、私もその血を受けた結果今回の大エラーを引き起こしてしまったことは否めない。しかし父親は、決してそんなにご大層な存在ではない。エリート意識に束縛されて自分の尺度でしかものを評価できない、ただの老人だったのだ。顧客の漠然とした意図を形にし、時代の先端を突っ走ることを宿命づけられたSEとは相容れない。
 考えてみれば、例えば私が数年後に結婚し、子供が産まれたとする。その子供が23歳になった時、つまりあと30年ほどで、人間としてどこまで成長しているだろうか?少なくとも、私がかつて父親に抱いていたような、絶対的に正しいような存在にはなれないだろう。父親も同じ、一個の人間でしかないのである。
 そう思いながら、私はとりあえず黙って父親の説教を聞いていた。食卓の下で、爪楊枝をベキベキに折り曲げながら、私は我慢していたのだった。いずれ、21世紀を生きる社会人として仕事が出来るようになった時、対等に戦わせてもらうとしよう。
 肩書きで生きる20世紀は、もう、終わったのだ。

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