ぶっこ旬報
のページでございます

2000年3月のブッコです。

 企業名は全部伏せてあります。企業名の問い合わせには応じかねますので、ご了承ください。また各企業に対するイメージやコメントには、ブッコ本人の先入観や偏見がかなりの割合で混じっております。鵜呑みにしないようにお願いします。また勝手に企業名を当てはめたり、本ページの他のコーナーの内容を結びつけたりして、その企業を一元的・一方的に見ないようにしてください。就職活動中の皆様は、特にその点、ご注意下さい。

下へ進むほど、新しい旬間・日付の記述となっています。

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〜2000年〜


3月上旬のブッコ(3/1〜3/10)

3月1日
 引っ越しを翌日に控え、荷物を整理する。最後に残った服の箱詰めや一部の本や小物の整理をし、夜になって最後にPCを梱包。これでしばらくはメールができない。
 全ての荷造りを終えたころには、夜半を回ってしまっていた。

3月2日
 午前10時、引っ越し屋さん到着。本の入った重い箱を次々と運び出してゆく。分解できそうにないのでは、と思っていたベッドも、簡単に分解できてしまった。めぼしいものを運び出した部屋はがらんとして――はいたが、部屋の隅を中心にホコリのカタマリがいくつも(爆)本当に汚い部屋だったのだ、ここは。
 引っ越し屋さん出発と同時に、私も家を出る。U駅の不動産屋でカギを受け取り保険料を支払うと、新居へと向かった。都心を抜けてくるトラックの方が、当然遅い。
 引っ越しの荷物を次々運び入れていると、一体どこから情報を得たのか、新聞屋がやってきた。朝日新聞の販売店の人間で、朝日も取れとやたらしつこい。そこでいろいろ金券やら何やらをさんざんつけさせて、3ヶ月分だけ取ってやることにした。日経と一般紙では入っているチラシの量が圧倒的に違う。街の情報を得るためにもいいだろう。といってもすぐは金がないので、収入が入る5月以降に設定。本当は朝日より毎日のほうが好きなのだが……。
 荷物を運び終えて引っ越し屋さんが去った後しばらくして、ガスの人がやってきた。使用可能になるように処理をして、使用開始手続きの作業をし、書類を置いて去っていった。電気は契約書類がポストに投函されていたが、水道のものはない。そこで水道局に問い合わせると、前の人が水道利用停止の手続きをせずに去っていったらしい。3日に水道の方は処理をしてくれる、ということだった。ガスもそうだったのだ。蕨さんという人らしい。この人あちこちに住所訂正の届けをしていないらしく、だいぶ前からの郵便物がたまりにたまっていた。中にはカードの利用明細や督促状らしき不気味なものもある。親展の書類なのでうかつに開けることも出来ず、とりあえず棚にしまい込んで置くことにした。
 ライフライン関係の書類を書こう、と印鑑を探してみたが、見つからない。どうやら家に置き忘れてきたらしい。さすがにこれはないとこまるので、さっさと取りに行くことにした。このパターンはいつものこととはいえ、全く、しょーもない。
 せっかく実家に戻るために外に出るのだから、ということで、事前に調べて置いたコジマで電話と冷蔵庫を購入。電話機を持ったまま実家に行く。ただ行くだけではあまりにもったいないので、夕食を食って帰る。

3月3日
 階下の人にご挨拶をしに行く。人の良さそうなお兄さんでよかった。
 前にテレビで放送されていた、足立区の”1000円ショップ”へ行き、物色。それなりにいいものが置いてある。特にカーテンは、寝室のは家から持ってきたカーテンがちょうどよく合ったが、リビングのほうが全くない。なるべく早く欲しいところだが、大きさを計らないことにはよくわからないので、買い控える。
(後日、寸法を計り直した上でもう一度この店に向かい、カーテンを購入。グレーのカーテンで遮光性もよい。レース4枚、本体4枚で4000円ならかなり安い。)
 ここはちょっとしたショッピングモールになっていて、100円ショップも巨大なのが併設されていた。ここでも親子丼用のナベをはじめ、包丁、まな板といった台所用品を大量購入する。

3月4日
 入院した友達のところに見舞いに行く、というので出かけるが、携帯を家に置き忘れた上遅刻する。
 友人はたいそう元気そうで、顔色もすっかりよくなっていた。まだ歩くことはできないらしいが、回復の状況を見て何度か手術をすれば、歩けるようになるかも知れない、という。
 見舞いの後、事務総長邸で学会。事務総長がいらないというテレビを持って帰るのに、高校時代文化祭で、クイズゲームを動かすパソコンを持ち出すのに使った懐かしいカートを利用。帰りのバスはなくなっていたので歩くしかなかったが、かなり遠い道のりながら楽にテレビを持ち帰ることが出来た。念願のテレビが、ようやく我が家にやってきた。

3月5日
 念願の冷蔵庫が到着。これで自炊ができる!
 しかしこの日は内定先部署の懇親会。今後の予定などについて直属の上司Aさんから話を聞く。夜はAさんと、この秋に入社した先輩方との飲み会。会社の飲みは面白い人が多く、自分が飲まなくても勝手にどんどん盛り上がるので大変楽しい。楽しいと酒量が2倍3倍に増えるのが私の性質で、この夜も甘いカクテルを中心に酒量最高記録を更新。バナナヨーグルトのカクテルがおいしくてグビグビいってしまう。その分家に帰ってからひどい頭痛が……。

3月6日
 去年太ってはけなくなったGパンが、入るようになった。このところの粗食でやせたらしい。やはり間食しないのがいいようだ。このところ、緊縮財政で間食するものがないうえうかつに外食できない。そして朝遅く起きたあげくにいろんな仕事があって、1食だけですませるような日もあった。栄養失調かもしれないが、私の体重を考えれば、多少やせておくのは悪くないだろう。
 夜、初めての自炊をするべく材料を調達したのだが、米から油から調味料から一度に買ってしまったものだからすこぶる重い。しかもビニール袋がその重さに耐えきれず、歩いているとどんどん破けてくる。最後は取っ手もほとんどない状態で家にたどり着いた。
 料理は結構やるのだが、お腹空いたときに手早く作れる、と言う理由でほとんどが炒め物である。ということでこの日は野菜炒め。手際が悪いのでメインディッシュ一つしか作れない。その分大量に作り、ゴハンをたくさん食べる。

3月7日
 にらが安く売っていたので、ニラの卵とじを作ってみる。なべは100円ショップで売っていた親子なべを利用。しかし味付けに、と作っただしつゆが激辛で、失敗。卵も変な入れ方をしたので、うまくとじなかった。

3月8日
 前日に買ったニラの半分を使って、もう一度挑戦する。今度はうまくいった。比較的簡単に作れてそこそこうまい。炒め物とあわせて、めんどくさいときのメニューになりそうだ。

3月9日
 もやし炒めセット、通称「ミックスもやし」は大変便利である。これに肉を入れて炒めれば、内容的にバラエティに富む野菜炒めが出来る。とりあえず肉と野菜を食べているので、とりあえずはバランス取れている……だろう。

3月10日
 洗濯機とビデオを買いに、ヤマダ電機に向かう。ヤマダでは安売りで人気を博している洗濯機があり、入荷はだいぶ後になると言う。しかしこれを逃すと、国産の洗濯機はここまで安く手に入りそうにないので、買っておく。

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3月中旬のブッコ(3/11〜3/20)

3月11日
 この地域、卵が普段やたらと高く、1パック10個で200円前後するのだが、この日少し離れたスーパーの折り込みチラシに、100円/パックを切った卵が載っていた。早速買いに出かける。数量限定だったが無事買えた。
 ここには1kg200円を切る鶏肉も売られていた。牛や豚は安売りの時、だいたい100gで90〜100円。海外の牛肉がやたら安いので、いまや豚と価格を競り合っている。そんな中で鶏肉は70円/100g程度と安いのだが、さすがに20円/100gを切るようなのはなかなか見かけない。肉は冷凍すればかなり持つだけに、早速購入。これでメインディッシュとなる動物性タンパク源は、当分問題ない。こんな値段で売られているとなると、牛や豚を買う気が無くなる。

3月12日
 転出届を出しに行くついでに実家に寄る。
 手続きをしに行ったK市役所の対応に不満を覚える。職員の対応があまりにひどい。いかにも「何も知らない愚民共は、黙って俺たちの言うことを聞け」という態度で、質問すら満足に受けてもらえない。
 私の父は既にリタイアしていて、国民健康保険の扱いを受けている。これは自治体単位でその市民しかカバーしないので、転出する私は、たとえ被扶養者の学生の身であっても健康保険からは外されてしまう。この辺のことは全く説明せず、職員はただ
「あなたの保険は3月2日から使えなくなってますから。」
と宣告しただけだった。私が学生だという話をしても、全く聞く耳をもっていないようだった。
 実家に帰ったところで、私の物は何一つ残ってないから、いてもしょうがない。せいぜい電車賃分だけの晩飯を食べて帰るぐらいである。
 U市の自宅には、金がないので体重計はまだ置いてない。この一週間の生活でどれだけやせたか計ってみよう、と体重計に乗ったら、3キロ近くやせていた。この調子で行けば大台を割れるかも知れない。

3月13日
 電話の調子が相変わらず悪いので、コジマに行ってみる。あちこちテストをした結果、電話機に問題はないという。そこで家に戻ってからメーカーに問い合わせ、人を寄越してもらうことにした。
 午後、転入届を出しにU市役所へ。職員の対応が親切丁寧で、こちらの話もきちんと聞いてくれ、それに誠意を持って対応してくれた。学生の身分での健康保険の特例についてもここで知った。
 そこでK市役所に問い合わせると、しばらく時間があって、やはり特例にはならないとのこと。転出の目的が就学ではないから、というのがその理由だった。これはしかたないことであるとしても、私はK市の職員の態度に、憤りを禁じ得なかった。
「学生さんだと言っていただければよかったんですが。」
 奴はそう抜かしたのである。そう言いましたよ私は、と憤慨したものの、この職員、自分のしたことではないから、といった調子で
「そうですか。ともかく特例にはなりませんから。」
と、転入の日を変えるように説得しろ、さもなくば2週間ぐらい健康保険に入るなと言い放ったのである。全く、何の解決にもなっていない。彼らの浅知恵には全く期待していないが、いかにも他人事、オレのやったことじゃない、という態度は許せないものがある。
 どうにかならないか、とU市役所に戻って話をしたところ、こちらは丁寧に話を聞いてくれた上、質問も受け付けてくれ、きちんと説明もしてくれた。的確、迅速でムダのない回答だった。同じ市役所で人口も同じぐらいでなぜこんなにも違うのか。
 前日の対応といい、地主が食い物にしている市政といい、K市にはほとほと呆れた。いずれは実家の土地建物を譲り受けることになるのだが、あまり住みたいとは思わない。祖父や親戚筋には悪いが、中央線沿線で地価が高いことを利用して売り払ってもいいかもしれない。「足による投票」を実現しなければ、自治体はよくならない。

3月14日
 電話のメーカー、ケンウッドの人が電話を調べにやってきた。ナンバーディスプレイになると調子が悪い、ということを確認して、NTTに連絡して去っていった。いれかわりでやってきたNTTの故障係の人は、まずコネクタカバーを開け、中に入っていたモジュラージャックを交換。緑青で緑色になっていて、これが原因らしい、という。
 ところがそれでも状況は改善しない。回線の状況を調べてみても異常はなさそうである。そこで新しい電話線を利用しよう、という段になって、外の電話回線ボックスを調べてみると、なんだか良くわからないモノに接続されているという。前の人が(旧)DDIか何かに加入したとき、その系統の部品を接続したらしく、それがナンバーディスプレイに悪影響を及ぼしていたらしい。これを新しいものにつなぎかえると、きちんとつながるようになった。これで電話がようやく普通に受信できる。
3月15日
 親から「非課税世帯の証明書」というのが届いたので、健康保険の手続きをしてくる。一ヶ月ないが、500円ならまぁいいだろう。どうせ親から徴収するんだ。自分の事情を話して健康保険に入りたい、と言ったら、職員は「おかしな話ですネェ」と苦笑していた。法律的にはそうだからしかたないんだろうが、おかしな話である。
 ブッコ学会事務総長が、幕張のアジ研に文献を探しにきたついでにうちに寄ってきた。PCをいじったり、話をしたりしてすごす。

3月16日
 4年生の卒業記念パーティーで、先生の家にでかける。卒業記念パーティーの参加は去年に引き続いて2回目。先生のお宅を訪れたのは……何度目だろうか?娘さんが2人、お手伝いに来ていた。
 すしや先生の奥さんの手料理といった、日頃まず食べない、作らないといった食事をとる。一人暮らしになると、高価な食事や手の込んだ家庭料理というのは貴重である。
 今年の卒業記念はベストとポロシャツ。紺色のベストは大変気に入って頂けた。今後の合宿ではきっと、それを着て下さることがあるだろう。
 この日は某ドラマの最終回。この脚本家の話は人死にがでるぞ、と京都の友人に教えられていたから、クライマックスではついにヒロイン死んだか、と思ったが、今回は生きていた。なかなか面白いドラマだった。

3月17日

「編集室#6 ライブという空間」をご参照下さい。

3月18日
 前日寝るのが少し遅かったせいで、朝起きるのが遅くなってしまった。
 今回は街を案内するつもりだったが、事務的な仕事ばかりに気を取られてしまっていて、市内の探検は遅れがちになっていた。
 そこで、まずは彼女が行きたいと言っていたツタヤにでかけ、CDを物色、いくつか借りてくる。そこから大通り沿いに駅まで散歩。時期ならここは桜並木になるらしいのだが、3月中旬では花は望めない。残念である。
 駅前のツタヤではCDとビデオを物色、裏手のダイエーの中にある100円ショップを物色してから家に戻る。やはりいろいろと買ってしまった。
 家では借りてきたCDを片っ端からMDに録ってゆく。といってもこれが結構時間のかかる作業で、音楽を聴きながら夜までそれで過ごしてしまった。
 夕食は餃子とチンジャオロースーを二人で作る。なかなかいい出来で、おいしかった。
 食事の後、借りてきた「ジャンヌダルク」を見る。映像の描写がすごい作品だった。神と呼ぶべきか、彼女の内なる声と呼ぶべきか、現実的な物言いをする老人がいい味を出していた。
 思ったよりこの作品の時間が長く、終わる頃にはすっかり夜も更けていた。その後もしばらくいい気になって起きていたら、突然ドアのポストにがたりと音が響いた。何かと思って出ていったら、なんと朝刊だった。この地域は午前3時半には朝刊が届くらしい。

3月19日
 朝は遅く起き、二人で食事をとる。これからお互い、忙しくなることもあるが、4月からの生活リズムというのがよくわからないことがあって、次のデートまではだいぶ期間があくのを覚悟しなければならない。
 昼過ぎまでどこにも出かけず家にいた。頃合いを見計らって高速バスの出る駅へ向かう。バスの乗り場には他にもバスを待つ人たちや、別れを惜しむ人たちがいた。中にはカップルの姿もあったが、あれはこれから二人で出かけるのだろうか、それとも私たちと同じ遠距離恋愛なのだろうか??
 彼女の乗り込んだ、ライオンのマークのついたバスは、定刻より少し遅れてバス停を出ていった。彼女に時間があって、僕の方にも資金の余裕がでた時は、このバスに乗って彼女のところに行くことになるだろう……。

3月20日
 京都から就職活動のため戻ってきた友人に呼び出され、都心に赴く。安いチェーンの喫茶店で就職活動や恋愛について話をする。友人はロト6にハマっているのだが、富士銀行の口座があればATMで買えるようになったぞ、と教えると、大変喜んで、一緒に買いに行くことになった。あちこち歩き回って、ようやく神田駅前に24時間営業のATMを発見。わずかばかり残っていた残高でロト6を購入。
 夜、洗濯機を購入した電器店から電話。翌日配送に来るという。数日前、メーカーの都合で遅れる、という話があったので、そうではなかったのか、と尋ねたところ、物が入っている、という。品の手配の問題から、購入元の店と配送元の店が違っているから、その辺で連携ミスが出ていたようだ。翌日には用事を入れてしまっていたので、22日に変えてもらうことにした。

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3月下旬のブッコ(3/21〜3/31)

3月21日
 会社に提出する「身分保証書」のサインを頂きに、伯父の家に向かう。伯父は金の使い方にはシビアな人だが、その他の面ではおおらかな、面白い人である。
 伯父が近年新しく建てた家、というのが、スウェーデン式の木をふんだんに使った建物で、床のフローリングはもちろん、天井やドア、サッシに至るまで木が使われていて、まるでペンションのような雰囲気があった。しかも断熱性がよく、光熱費がだいぶ節約されるという。将来こんな家を建ててみたい。  実家に戻ると、親に頼んで食材をいくつか提供してもらう。ここまで来るのに1000円近い金をかけているのだ、少しでもモトをとっていきたい。
 健康保険の件は、私が除外されたことでむしろいい方に転んだらしい。というのも親の所得の関係で、私の3月分の健康保険料が1100円も還付されるという。私がU市で入った保険料が500円だから、転出したことで600円浮いたことになる。ざまぁみろ。

3月22日
 海辺の辺境の地(失礼)にあるイトーヨーカドーへでかけ、食材を買ってくる。去年10月にできたばかりの建物で、何しろ巨大である。場所が場所だけに値段が安いものがいくつかあり、ついつい買い込んでしまった。
 午後、洗濯機が届く。私がヨーカドーから帰ってくるより、電器店の人が来る方が早かった。設置は配送の人が手早く済ませていった。これで段ボール箱一杯になった洗濯物が全部洗える。

3月23日
 半日がかりで、たまった洗濯物を全て洗う。備え付けの物干しが低すぎて使い物にならないので、天井に一つだけつり下げてあったフックを利用して洗濯ひもを張り巡らし、そこに洗濯物を大量につり下げることにした。風の強い地域なので飛ばされてはいけない、と洗濯ばさみで厳重に止めておく。ほとんど密集するように干したにもかかわらず、全て干しきれないとは…ちょっと洗濯物を貯めすぎた。お向かいの一家の洗濯物より明らかに多い。一体この家には何人住んでいるのだ?と思われそうな量である。
 午後は駅の北側に抜け、携帯電話の手続きをしに行く。今まで駅から北は行ったことがなかったから、なかなか新鮮で面白かった。話だけ聞いていた、安いと噂の浦安の鮮魚市場も発見。今度食材が無くなったら買い出しに来よう。

3月24日
 作りつけの棚が使いづらいので難儀していたが、本を詰め込んでいた段ボールを横にして入れたらキレイに入った。思ったより多くの空間が出来て、本をきれいに収めることが出来た。これで部屋を占領していた巨大なハコが、全て姿を消した。

3月25日
 千葉県知事選挙で、市民団体が推薦し、草の根的な活動を展開したおばさんが3つどもえの激戦を制して当選。与党・野党双方が、保守王国と呼ばれた千葉県民にすら嫌われた、という形になった。政権争いのアラ探しばかりが目立ち、自分たちの成果を出せないでいる(ろくな仕事してないから当然なのか?)政党に、いよいよ国民が見切りをつけ始めた、というべきだろうか。

3月26日
 洗濯物の乾きが悪い、と思っていたら、この家、ただでさえ北西向きで3階建ての2階部分、正面に同じ高さのマンションがあるというのに、南の方向に部屋の一部が出っ張っているので、自らベランダへの陽光を遮っている。線対称になっているお隣の部屋は、マンションの間の空を通る陽光を思いっきり浴びている。この部屋は構造上、この建物の中でも一番日当たりが悪い場所なのだった。
 部屋を決めるとき、日当たりについては全く失念していた。さっさと家を出たいという気持ちの方が強く、ついつい内装ばかりを重視して決めてしまった。何か大事なことを聞き忘れているなぁ、と思っていたが、それだったのだ。これから最低でも4年は住まなければならないのに、失敗した。
 とりあえず最低年限の4年が経ってから、もう一度考えよう。いや、むしろ結婚してしまった方が、借りられる部屋の家賃制限が緩くなるのでいいかもしれないが――。

3月27日
 部屋の窓の一つが唯一日当たりがマシだと気がついて、そこに布団を干してみる。ベランダよりだいぶましである。ひさしに実家から持ってきた針金製ハンガーで細工をしたら、ちょうどいい物干しができた。  明日は卒業式。これで学生ではなくなり、これからは一人の社会人として生きていくことになる。
 これまで、親なりなんなり、誰かしらの世話になって生きてきた。学校に行ったのも、小遣いをもらって遊びに行ったのも、バイトで得た収入を全部小遣いに回せたのも、全ては親の扶養があったからである。この1ヶ月の一人暮らしも、まだ親からの無利子の資金援助と会社の福利厚生を利用したままごとのようなものである。それでも家事や家計、役所関係の事務手続きなんかで大変だったのだ。
 だから親に感謝……とはいかないのが私である。それはある程度は感謝するしある程度は大切だが、生まれたばかりの私を親が放置するわけがない。私が自分が将来持つであろう家庭に責任と義務を負うように、親も私に対してそれだけの物を負っているはずである。その部分についてまで、かつての日本の儒教的思想のような、一方的な崇拝をするつもりはない。
 少なくとも今後、独立した生活を続けて行くからには、親の言いなりになるつもりはない。自分で稼いで食っていく一個の人間として、対等に渡り合っていくつもりである。
 しかし今後そうして生きていくということは、全てを自分の責任で決めなければいけない、ということを意味する。仕事のこと、日々の生活のこと、自分の資産の運用のこと、そして何より将来のこと。自分の失敗が損につながり、時には自分の命脈を断ってしまうようなこともある。だからといって、自分が決めた結果に対して、誰のせいにもできないのである。
 今までは失敗しても、学生だからと許してもらえたり、少なくとも親がいるから死ぬことはなかった。しかし今度は、仕事がまともに出来なければ生活していけないし、大失敗して仕事を追われてどこにも雇ってもらえなければ、本当に死ぬ危険性があるのだ!
 誰もがやっていることとはいえ、かなり、不安である……。

3月28日
 卒業式に出席するため、大学へ。しかしあまりに遠い。時間の計算ミスもあって、ギリギリの時間に会場に間に合った。
 卒業式は、そんなに感動する、というものでもなかった。4年生が2度目だったこともあるかもしれない。実家も勤務地も東京周辺部だから、学校を離れる、という気持ちが薄いこともある。小学校の卒業式は、地元を離れて都心の中学に通う、ということもあってセンチメンタルになったりもしたのだが。メールや携帯電話の発達で、仲間との連絡は簡単にできる、ということもあるかもしれない。
 そんなわけで私は、学長が式辞で何度も言い間違いを起こすのを苦笑して聞いていたのである。緊張感のカケラもなかった。
 かわいそうなのは総代の一人で、この人の挨拶は、周囲からも緊張しているのがありありと見て取れた。しかも扱いにくい和紙に謝辞を書いてきてそれを読み上げたもんだから、よけい取り乱したらしい。挨拶が終わったときには、「よくやった!」と言わんばかりの大拍手が会場から巻き起こった。彼が自分の席に戻った時、壇上のトレイにはくしゃくしゃになった和紙が置いてあった。総代の謝辞は本来きれいに畳まれ、トレイに載せられて学長に提出されるわけだが、どうやらもはやきちんと畳むことができなかったらしい。それを知った会場の一部から発せられた笑い声は、あっというまに会場に伝染してしまった。あまりにもかわいそうな展開だったが、当の私もゲラゲラ笑いつつ、証拠の写真まで撮ってきた(爆)
 会場内で出会ったゼミ生と共に先生の研究室を訪れるが、海外出張中でいらっしゃらなかった。そこで寄せ書き、というよりも単なる書き置きを残し、卒業証書を配布している教室へと向かう。この証書、手書きにしてはあまりにも字の位置が決まりすぎているが、印刷にしてはやたらとキレイだ。それとも技術革新めざましい昨今、印刷業の世界ではこのレベルが実現している、ということなのだろうか?
 電車でひと駅いった所にあるホテルで行われた、OB組織主催の卒業パーティーでは、それこそ2年、3年ぶり、という人たちと会うことができた。留学や就職留年などで、意外と「5年生」は残っているらしい。驚いたのは昔教養系のゼミで一緒になった奴で、なんと学内の同期と結婚していた!もちろん彼のすぐ後ろには奥さんが控えていたわけで……こういうのを見ると、私も結婚、というものを意識してしまう。
 そんなことを一緒にいたゼミ生に話したら、
「おまえ、『35までは絶対に結婚しない!』って言ってたじゃないか。」
 ――まぁ、結婚はもう少し先の話だろう。

3月29日
 企業からの課題の提出期限がいよいよ迫ってきたので、懸命に取り組む。この本の厚さと字の細かさが大敵である。
 と言っても情報処理技術者の試験勉強でやった内容だから、ざっと読めばだいたいのことはわかるし、レポートも書けてしまう。今までは一応中に何が書いてあるかをしっかり読み進めていたのだが、とりあえずレポートをさっさと仕上げてしまうことにした。

3月30日
 天気がいいから、と洗濯を始めた途端、通り雨。さらに雷まで鳴り出した。幸いすぐにあがったし、日もちゃんと照ってくれたので、洗濯物はそれなりに乾いた。

3月31日
 午前中、安いキャベツを買いにスーパーに出かけたら、帰りにあられが降ってきた。桜も満開だというのに、と思いつつ家に戻ってレポートに取り組んでいたら、時間が経つごとにあられの大きさが巨大化、ついに巨大な牡丹雪が風に舞うようになった。雪見と花見が同時に出来るというとんでもない状況に、写真を撮りに行こうか、とも思ったが、まともなカメラがない状況だし寒いし、ということでやめてしまった。
 方針を変えたことで、この夜4時間で、最後の4題のレポートが仕上がった。と言っても本自体はナナメ読みもいいところだから、この内容でテストをされたらどうだろう?

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