――――― 弐 ―――――
 
 人界の中にもたくさんの世界があります。人間たちはそれを「国」と呼ぶのだそうですが、数ある国の中で今最も活気に満ちているのがアジア州、とりわけ「大韓民国」の熱気はものすごいといいます。人々の日々の暮らしは決して裕福とはいえず質素なものですが、皆が皆活気に満ち溢れ、元気に生活しています。
「オモニ!キムチチュセヨ!」
今のは大韓民国で使われている言語「韓国語」で、聞くところによると「おばちゃん!キムチちょうだい!」といった意味だそうです。「キムチ」というのは大韓民国の国民食のひとつで、それはもうとんでもない辛さなのですが、その人気は高く、最近は大韓民国国内だけでなく、お隣の「日本国」でも人気があるとのことです。
 そう、ここは市場。それも、一日のうちで最も活気のある「朝市」です。そしてその真っ只中に、清華と春麗はいるのでした。
「ひぁーーーーっ!!」
いきなりなんだというのでしょう。清華が素っ頓狂な声をあげます。ここは先ほどの漬物屋の前です。清華の前には・・・・ははぁ、さっそくキムチを食べてみたのですね。仙界にはない食べ物ですから興味があったのでしょう。案の定、その好奇心があだになったというわけです。
「なにこれっ!舌がヒリヒリするっ!」
「キムチだよ。お嬢ちゃん、キムチははじめてかい?」
「はひ・・・・はひ・・・・」
「はじめてだよ。私たちが住んでるところにはないからね」
まだ舌の痺れがとれていない清華に代わって、春麗が答えます。初対面でも気兼ねなく会話を持ちかけてくるとは、大韓民国の人々はとても友好的なようです。二人もごく自然にとけこんでいます。
「そうなのかい。お嬢ちゃんたち、どこから来たんだい?」
「ええと・・・・」
春麗は考えました。まさか「仙界から来た」などとは言えません。そういえば青峰が、大韓民国というのは人界の東のほうにある国なのだといっていたのを思い出しました。
「えっと、西のほうから」
どうも不自然な答えだとも思いましたが、屋台の中に立っている恰幅のいい女性はそれで納得したようです。
「じゃあ仕方ないねえ。中国でもほんの一部の地域でしか辛いものは食べないらしいからね」
中国というのは、正式には中華人民共和国といいまして、大韓民国とは国をひとつ挟んだ隣に位置する大きな国です。大韓民国とは話す言葉も食べるものも全く違うのですが、国の間での交流は盛んなようです。
「辛いのがだめなら、こういうのはどうだい?日本の友人にもらったんだけどさ」
女性は屋台の奥から別の漬物を出してきました。キムチのように赤くはないですが、使われている野菜は同じもののようです。
「あ、これおいしい」
舌の痺れから立ち直った清華が早速味見をします。今度のものは抵抗なく食べられるようです。
「浅漬けっていうんだとさ。あっさりしてて、これはこれでおいしいだろう?」
「うん、おいしい。おばちゃん、これ少し分けてくれない?」
「気に入ったかい?ちょっと待ってな。袋に詰めてあげるから」
女性は小さな袋に漬物を入れて口を閉じ、清華に手渡しました。隣で春麗が、袖から小さな板のようなものを取り出します。
「お金はこれくらいでいい?」
「あら、お代はいらないよ。もともと売り物じゃないし、あたしからの贈り物だと思っておくれ」
「はあ、すいません」
「いいんだよ。これからどうするんだい?」
「人を待ってるの。もう少し言ったところなんだけど」
「そうかい。気をつけてね」
「うん。ありがとう」
「おばちゃん、またね!」
市場を離れた清華と春麗は、そこから少々東へ進んだところにある大きな競技場へやってきました。建物には大きく「仁川競技場」と書かれています。
「春麗、ここじゃない?」
「仁川競技場・・・・。間違いない、ここね」
実は、西王母が言って痛もう一人の仲間と合流する場所が、この仁川競技場なのです。時間は朝市が終わるころと指定されていましたから、もうそろそろ来るはずです。
「おっきな建物だねぇ・・・・」
「でも、玉虚宮よりは小さいよね・・・・」
「わかんない。こんなに大きいと、こうやって下から見ただけじゃ比べられないよ」
「・・・・」
「・・・・」
二人して見上げているさまはなんとも滑稽ではありますが、仙界にはこんなに大きな建物はそうそうあるものでありませんから、やはり好奇心が働いているのでしょうか。
「・・・・あの、清華さんと春麗さん?」
ふいに、一人の青年に声をかけられました。どうやら合流予定の仲間が到着――――
「えーーーーーーっ!!??」
初対面の相手に向かってなにをいきなり。悲鳴とも思しき叫び声は清華のものです。・・・・が、しかしこの青年は・・・。
「そ・・・・そ・・・・」
「蒼俊?」
そうなのです。声をかけてきた青年は、清華の義理弟の蒼俊にそっくりなのです。それはもう本人かと見まがうほどに。
「・・・・いや、誰のことかわからないけど・・・・。清華さんと春麗さんなんだね?」
「そうだけど・・・・?」
春麗の返事を聞いて、青年は少々安心したようです。ひとつ息をついて、改めて自己紹介を始めます。
「はじめまして。朴敏河といいます。ミンハって呼んでください。お二人の案内役をするように言われてきました。どうぞよろしく」
よくよく見てみればこの青年、ミンハは、服装が蒼俊とは全く違います。いえ、蒼俊と、というか、清華たちとも違うのです。素材などにたいした違いはないのでしょうが、デザイン的なものが異なっています。それに、背丈もずいぶんと高いのです。
「ええと、ミンハはここの人なの?」
春麗が問いかけます。ミンハは少々怪訝は顔をしましたが、すぐに何かに思い至ったように答えました。
「うん、僕は韓国人だよ。二人は仙界から来たんだよね?」
「えっ・・・・」
驚きました。人界に住む人間が仙界の存在を認知しているとは。普通は、こんなことはありえないことです。
「どうして、それを・・・・?」
「実は、僕は人仙なんだ。仙界に行ったことはないけど、多少の仙術だったら使えるよ」
人仙というのは、体内に仙骨を宿している人間のことです。仙骨の覚醒度合いは清華たち仙界の道姑よりも劣ります。仙界で修行しながら生活することよりも、人界で人間として暮らすことを選んだ者たちです。人間社会の生活に適応するために、食生活や睡眠、寿命も人間たちと同じようになります。ただひとつ、ミンハの言うように多少の仙術が使えるのが人間とは違う点です。
「じゃあ、西王母様のことも知ってるの?」
「知ってはいるよ。ただ、僕は男だから東王公様が上司になるのかな。今回の任務も、東王公様から直々のご指名だって白鶴が言ってた」
白鶴とは白鶴童子、本来は太乙真人の使いですが、東王公の使いとしてもはたらいている鶴の妖精の少年です。
「とりあえず朝食にしない?僕ほどじゃないにしても、多少は食べるだろ?」
そういってミンハは歩き出しました。清華と春麗もあとに続きます。ミンハが両手に提げている袋の中には、食事の材料がたっぷりと入っています。ミンハはこのあと、自らの手料理で二人をもてなしてくれたのでした。



「それで、どうやって探そうか」
ミンハの自宅、アパートというそうですが、そこで朝食をとった三人は、本格的に作戦を練ることになりました。今回の任務は、あくまでも結界操作の原因を突き止めることが目的ですから、それ以外の余計なことは全く考えずに作戦を立てます。
「闇雲に歩き回って探すのは効率が悪いよね。僕の友人の人仙たちに手伝ってもらう方法もあるけど、彼らではやっぱり役不足は否めないしなぁ」
「やっぱり私たちが感知するしかないんだよね」
「そうだね。よほど大きな仙力の波動が起きない限り、人仙が感知するのは難しいからね」
「でも、私たちが感知するにしても、範囲には限界があるよ。仙界で修行してるっていっても、まだ道姑なんだから」
「そうなのよね。私たち二人が別々に行動すれば、この国の大部分は何とかなるんだけど・・・・」
「それだと、いざっていうとき危ないもんね・・・・」
「うーん・・・・」
春麗が考え込みます。よい策が浮かばないのは、清華もミンハも同じです。力の波動を感知できなければ、原因がどこにあるかを特定するなど到底無理なのですから。
「ミンハはこっちにいて、そういう波動を感じたことはないの?」
清華がたずねました。人界から仙界にまで影響を及ぼすのですから、不定期であるにせよ多少何かを感じたことがあるかもしれません。ミンハの答えは、案の定そういったものでした。
「何回かね、仙骨の状態に違和感があるなと思ったことはあるよ。でも、それがどこからきてるかなんて見当もつかないし、回数事態も右手で数えられる程度だからさ。ぜんぜん役に立たないだろ?」
「そっかぁ・・・・。人仙ってそういうものだもんね・・・・」
人選は仙人とは違います。体内に仙骨を宿しているといっても、彼らは人界で人間として生きているのです。幼いうちはまだしも、ミンハくらいの青年になると仙骨の能力はやや退化します。あ、覚醒と退化は別の次元のものですので、くれぐれも混同なさいませんように。ミンハの仙骨はその"退化"によって、外部の仙力を感知する能力が衰えているのでしょう。人仙としてはかなり進んでいる"覚醒"によって、つなぎとめているようではありますが。
「じゃあやっぱり少しずつ移動しながら探すしかないじゃん」

「結局、そうなるんだよね」
どうやら結論に達したようです。三人ともあまり気乗りしていないようですが、他に方法がないのですから仕方ありません。
「じゃあ僕は旅の準備をしなきゃな。それと、二人ともさ・・・・」
ミンハが二人の服を指して言います。
「その服、着替えるわけにはいかない?ちょっと目立ちすぎるよ。韓国じゃ、そんな格好してる人なんていないから」
たしかに、ミンハの自宅に来るまでの間に見た町の人々の服装は、清華たちとは全く違うものでした。腰の辺りで分かれているものが多く、上下で生地の素材や飾りを違えることができるものです。このような中に清華たちが混じれば、いやがおうにも目立つのは当然でしょう。しかし―――
「でも、これは西王母様が下さったものなのよ。西王母様の仙力が封じてあるの。だから変えるわけにはいかないのよ」
道着を手放すということは、せっかくの防御効果を失うことと同じです。そうなっては全く意味がないのですから、多少目立っても今のままの格好でいるほうだ安全なのは言うまでもありません。
「そっか・・・・。ならしょうがないね」
ミンハは立ち上がって、棚からいくつかの品物を取り出して身につけ、
「日本には、善は急げ、っていうことわざがある。良いと思うことは早めにやってしまえということらしい」
「じゃあ、善は急げで」
春麗が立ち上がりました。続いて清華も。
「早速、出発だね」
三人はミンハの自宅を出ます。ミンハが、自宅の扉がきちんと閉まっているのを確認して、言いました。
「さあ、行こうか」
 こうして三人は、この広い大韓民国を旅することになりました。目的となる、結界操作の原因を探すための本格的な旅です。清華と春麗にとってはわからないことだらけ。頼りはミンハただ一人。期待と不安が入り混じる、長い、長い、旅の始まりです。



その頃、仙界・玉虚宮の西王母の執務室。
「うまく接触できたようですね」
いつもと変わらぬ笑みをたたえ、西王母は正面の鏡に移る光景を眺めています。この鏡は、西王母の意思に応じてさまざまなものを映し出すことのできる特別な鏡です。
「しかし、どうして彼を案内役にされたのですか?もっと他に適任者がいたでしょうに」
傍らの九点玄女がたずねます。この部屋に入ることが許されているのは、部屋の主である西王母を除くと九点玄女ただ一人。公主たちですら入ることができません。
「東王公殿は、清華たちに大きな期待を寄せているようですよ。二人に選出についても、東王公殿から直接依頼がありましたから」
「あの二人に、彼の力を・・・・?」
「そのようですね。成功するかどうかは別として、試してみる価値はあるとお思いなのでしょう。私も賛成しました」
 どうも、清華たちの旅の目的はひとつだけではないようです。清華たちですら知らされていない、もうひとつの目的があるようですね。それを知っているのは、どうやら仙界中を探してもたった三人しか見つからないようですが。
 でも今は、それも別の話としておきましょう。手がかりがない以上、追求することなどできはしませんから。
 それではみなさま、今回はこのあたりで。また次の機会にお会いしましょう。みなさまに幸あらんことを・・・・。













大東仙界伝 −一章−    END
   
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