――――― 三章 其の一 ―――――
 
 青い空に白い雲がぽっかり浮かんでいる。大海原を泳ぐ小船のように。ゆっくりと、しかし極めて確かに進んでいる。
(平和だなあ…)
平和だ。平和なのだ。何の違和感もない。まったくもって、平和な日常だ。
「――てるの?藤本さん?聞いてるの?」
「…はい?」
突然現実に引き戻され、生返事になってしまう。頭がボーっとしている。
「さっきからずっと、心ここにあらずって感じよ。どうしたの?」
「あー…すいません…」
「本当にしっかりしてよ。92ページの3行目から口語訳して」
「はい…」
教科書に向かい、古語の羅列を現代語になおしていく。とはいえ、頭ではまったく別のことを考えていた。
(平和な日と書いて、平日かあ…)
おそらくその推測は間違っているだろうが、そうとは思えないほど、のどかなひとときだ。
(あと7時間か…)
あと7時間で、鈴音はおそらく極めて非日常的な光景を目にすることになる。昨日、家に帰ってからいろいろと考えてみたが、尚人の秘密で鈴音が知りたいことと言えば、やはりひとつしか思い当たらない。
「はああ…」
ため息とともに机に身を投げ出す。古文の授業などそっちのけで、そのことばかり考えているのだ。
 窓の外では、広大は海に浮かぶ白い船が、あいも変わらず優雅に遊覧している。
(尚人くん、何考えてるかなあ…)
顔の向きを変えれば尚人の姿はすぐに見えるのだが、今はとてもそんな気分になれない。今は顔も見たくない。目を合わせてしまったら、自分がどんな顔をしたらいいのかわからない。
「ばかやろお…」
誰にも聞こえないようにひとりごちる。それは尚人に対してのものであると同時に、自分自身に向けたものでもあった。
(後悔したって、今さら遅いんだけどさ)
なんでこんなことになってしまったのだろう。やっぱり関わるのをやめればよかった。
「はあ…」
無駄な後悔と嘆息を繰り返し、うだうだと時間を過ごしていく。何を考える気にもなれない。
「―――の口語訳、真下くん、お願い」
(――!!)
その名前を聞いた途端、思わず過剰に反応してしまう。
「はい」
(あれ…?)
声音も口調も普段通り。いつもの尚人の声だった。
(あ、でも、そうだよね…)
慣れているのだ。今日がはじめての自分とは違う。
(ずるいよ…)
尚人が淡々と文章を読み進める。その声を気にしながらも、鈴音は顔をあげなかった。
(こんなになってる私がバカみたいじゃん…)
尚人が読み終えたところでチャイムが鳴った。昼休みだ。
(午後は、尚人君と一緒の授業はないよね)
とりあえず学校が終わるまでは、尚人の声を聞くことはない。少しホッとした。
「―――起立、礼!」
鈴音は一目散に駆け出した。



 青い空に、白い雲がぽっかり浮かんでいる。時折吹き抜ける風は冷たく、今が冬だということを実感させる。その風に乗って――かどうかはわからないが、校庭から楽しげな声が聞こえてくる。おそらく中等部の生徒たちだろう。
「はああ…」
スカッとした青空とは対照的に、鈴音の心は沈んでいた。校舎の屋上。壁に背を預け、ひざを抱えて座りこんでいる。
「あーあ…」
傍らに置かれた自分の鞄に視線を向ける。中に弁当が入ってはいるが、まったく食欲がわかないので手をつけていない。食欲はわかないのだが。
「お腹減ったぁ…」
少しでも気分を紛らわそうと、鞄からMDウォークマンとヘッドホンを取り出し、最大音量でかき鳴らす。当然、ヘッドホンは耳にはかけない。
『――ありふれた日常 いつもどおりの怠惰な日々――』
(あー、これはいいや)
そう思って、曲を飛ばそうとリモコンに手をかけたとき。
『――不平があるなら、不満があるなら、ありったけ全部ぶちまけろ――』
(―――!)
不平も不満も大いにある。そのせいで朝から気分がすぐれないのだ。
(そっか…そうだよね…)
いっそのこと、全部吐き出してしまえばいいのだ。ここは屋上。大声で叫んでも、誰に聞こえるわけでもない。
(よぉーし…)
鈴音は立ちあがった。柵に向かって歩き、身を乗り出す。大きく息を吸いこみ、そして―――
「尚人のバカヤロォォーーーー!!!」
胸のつっかえが一気に取れた感じがする。かなり気分が楽になった。柵から降りて、ふぅ、とひと息ついたそのとき。
「バカヤローとはご挨拶だな」
(どっきーん!)
聞き覚えのある声。振りかえるまでもない。
(ヤバイ…)
「人が心配して来てみれば、いきなりそれかよ」
「あんたさあ…」
「あん?」
「せっかくすっきりしたのに、いきなり嫌な気分にさせないでよ!!」
鈴音は開き直った。こうなれば、いつものテンションを装って押しきってしまえばいい。
 尚人は何も言わなかった。壁に寄りかかって、視線をそらしている。
「何か言いなさいよ!ちょっと!」
尚人に詰め寄る。それでも尚人は視線をそらしたまま、何も言わない。
「ちょっと!聞いてるの!?」
「悪いな…」
「え…?」
「こんなことになって、悪いと思ってる…」
鈴音は目を見張った。予想だにしない言葉だった。
「だいたい察しがついてんだろ?俺たちの秘密のこと」
「え…あ…」
「あんなとこ見られりゃな。俺も、とことんツイてない」
「尚人くん…」
「今こんな状態になってるのは、十中八九俺の責任だ。本当にすまないと思ってる」
「いいって…。首を突っ込んだ私も悪いし…」
「それ」
「え?」
「最後の1割はそれ。お前が近づいてこなきゃ、こんなことになってない」
「あ…あんたねえ…」
鈴音が反論しようとしたとき、尚人が鈴音の肩に手を添えた。耳元に顔を近づけて、一言。
「――――」
「え…」
あまりに衝撃的な言葉に、鈴音は絶句する。
「ごめんな」
そう言い残して、尚人は校舎の中へと消えていった。鈴音はまだ、尚人の行ったことが信じられずにいる。
(これで何回目よ…)
また突き落とされた。毎度毎度、尚人は残酷なことをさらりと言ってのける。いや、もしかしたら尚人自身も苦しんでいるのだろうか。悔やんでいるのだろうか。
(もう…いや…)
「バカ尚人…」
冷たい風が吹き付ける。校庭から聞こえる声とMDウォークマンからかすかに流れる曲が、鈴音の耳にむなしく響いていた。



「―――テレフタル酸―――縮重合―――」
あと何時間…?
「―――の部分―――エステル結合―――」
5時間くらいか…
「―――このとき---が生成する。藤本。藤本!」
「…はい?」
「どこ見てるんだ?ノートはとってるのか?」
「あー…いえ、すいません…」
「しっかりしろよ。最近おかしいぞ」
「はい。すいません」
昼休みに鬱憤を晴らして気が楽になるかと思いきや、尚人の余計な一言でまた気が重くなってしまった。
(まったく、あいつは人の気も知らないで)
少しはこっちの気持ちも考えなさいよ、と言ったら、尚人はどういうだろうか。あの日の昼休みが思い出される。あの尚人のことだ、わかってたまるか、とでも言うに違いない。
(でも、そういう私も、あいつの気持ちなんかあんまり考えたことないのよね)
人の振り見て我が振りなおせとはよく言ったものである。相手に気持ちをわかってもらうには、まず自分が相手の気持ちを理解しなければならないと言うことか。
(でも…)
尚人の一言が胸に突き刺さる。心臓を射抜かれたような衝撃。
(そんなの、絶対にイヤ)
なぜそんなことをされなければならない?尚人は、誰にも知られたくないと言っていた。それは鈴音にもわかる。それでも、鈴音が誰にも言わなければいいだけのことではないのか。
(そんじょそこらの問題とは違うのはわかるけどさあ)
それはわかるが、しかし。
(記憶を消されるなんて絶対にイヤ。死んでもイヤ)
そんなことになったらどうなる。尚人と過ごした時間が全て消えてしまう。
(確かに、そんなにいい思い出はないし、時間もかなり短いけど)
それでも、自分の中から尚人の存在が消えてしまうのはなんとなく嫌だった。
「―――本!」
(何があったって!)
「―――藤本!」
(私の記憶を消させなんかしない!)
「藤本!!」
「はい!!」
大声を通り越して叫んでいた。その場の誰もがたじろぐ。
「そんなに大声出さなくていいが…」
「あ…すいません…」
「まあいい。ナイロン6の原料は?」
「えーと…カプロラクタム?」
「そうだ、それが開環重合して―――」
(とにかく!)
すべては今夜始まる。そして、すべての結末も今夜。
(3時間のうちにすべてがある)
そのとき自分はどんな気持ちだろう。尚人のことをどう思っているだろう。
(あいつは…)
尚人は今何を考えているだろう。昼休みに尚人が口にした謝罪の言葉。あれは間違いなく本心だった。なんだかんだ言って、鈴音を心配しているのだ。
(そんなの、あいつに似合わないけどさ)
いつも活発に暴れまわっている尚人がいい。そうでないのは、尚人ではない気がする。
(…あれ?)
今気づいた。どうして尚人のことばかり考えているのだろう。どうしてこんなに気になるのだろう。
(…あ、あれ??)
今気づいた。心臓の鼓動が速くなっている。
(ちょ、ちょっと…!)
考えれば考えるほど、鼓動は速まっていく。
「…リンちゃん?」
隣の席に友人に声をかけられ、思わず飛びあがりそうになる。
「な、なに?」
「熱でもあるの?顔、真っ赤だよ?」
(えーーーーーー!!??)
なぜだ。どうしてだ。どうしてこんなことに。
(一体全体、どういうことよ!?)
頬に触れてみると、熱く火照っていた。額に手を当てても、熱はない。わけがわからず、鈴音は混乱する。あたふたしていると、冷やかすようにチャイムが鳴った。
(あと1時間…)
最後の授業。胸の鼓動は一向に収まる気配を見せない。
(こんなの、あいつみに見られたらどうしよう…)
尚人と会わないことをただただ祈る鈴音であった。



 青い海。そこに浮かぶ白い小船。風という名の波にまかせて、自由気ままに泳いでいる。
(平和だよなあ…)
教師の言うこともたいして耳に入れず、尚人は空を見上げている。仕事をする日はいつも、こうして心を落ち着ける。こんなことは少なくないのだから、成績など上がるはずもない。
(あれを言ったのは余計だったかな…)
最後の一言で、鈴音が傷ついたのは確実だ。
(でも、言わないと俺がスッキリしないもんなあ…)
わしゃわしゃと髪をかきむしる。ジェルをぬった髪は硬く、変形するとすぐには戻らない。
(あ、ヤッベ…)
手ぐしを入れて髪形を戻す。まったく気分が落ち着かない。言いようのない焦りが渦巻いている。
(まあ、いつもとは状況が違うしな)
そう思って納得しようとするが、心は軽くならない。
「はあ…」
もう一度空を見上げる。海に浮かぶ小船は3つ。
(喜怒哀楽…ダメだ、1つ足りねえ)
そういえば、鈴音の表情でただ1つ見ていないものがある。「楽」だ。そんな状況ではないのかもしれないが。今の鈴音はどうだろう。怒っているだろうか。泣いているだろうか。
(あいつ、意外と泣き虫だからな)
女=泣き虫という方程式もほとんど通用しない時代だが、肝心なところではやはり涙をこぼすのが女というものなのだろうか。
 あとどれくらいの時間を一緒に過ごせるかわからない。その間に楽しそうな鈴音の笑顔が見られたらいいと思う。
「お?」
窓の端から新たな小船がやってきた。他のものより少し小さめの、真っ白な小船。
(面白いこともあるもんだな)
この小船は「楽」の印だろうか。だとすれば―――
(そうなったらいいけどな)
風に乗って漂う4つの雲を見上げ、尚人の心は少し軽くなった気がした。
(よし!今日もがんばりますか!)
試合開始のゴングのように、チャイムが教室に鳴り響いた。



「もうすぐ…か…」
時計の針は午後5時半を指している。学校から帰ってずっと、鈴音はベッドに仰向けに寝そべって、右手で目を覆っている。目の前が暗い。部屋の照明がかすかに透けて、薄暗い光を見せている。
「ふうう…」
緊張からか、心臓の波打つスピードが速くなっている。それでもこうして目を閉じて幾度か深呼吸すると、いくらか気分は落ち着いてくる。
「はああ…」
机の上に置いたMDウォークマンのヘッドホンから小さく曲が流れてくる。以前陽に借りたヒーリングミュージックのCDを録音したものに、鈴音が持っている曲からなごみ系のものを選んで録り足したものだ。
(静かだなあ…)
両親は共働きで、夜にならないと帰ってこない。それに兄弟もいない。つまり、今家にいるのは鈴音ひとりだけなのだ。
 誰もいない家からは物音ひとつせず、窓を締めきっているので外からの音もほとんど聞こえない。その静寂が鈴音の心をさらに静めていく。聞こえてくるのは、MDウォークマンの音と自分の心臓の鼓動だけ。
「ふううう…」
鈴音の頭はほとんど何も考えていなかった。ただ、なんともいえない、言葉にしがたい緊張感が体を支配している。今までこれほどの緊張感を味わったことがあっただろうか。
「はあああ…」
どれくらいの時間がたったろう。光のない世界では時間間隔が著しく鈍る。裏を返せば、時間という最も強固な呪縛から開放されることになる。
(体が軽くなったかんじ…)
突然、昼休みの出来事が頭をよぎった。記憶抹消。
 同時に、この数日間のことが次々とよみがえる。通学路の途中で遭遇した現場。そこにあった顔。ほとんど初対面での、いきなりのケンカ。尚人の家で見たもの。キーワード『オメガ』。そして、尚人が一瞬見せた涙。
「ふう…」
それが全部消えてしまうのか。鈴音が望まなくても消されてしまうのか。拒否したとしても、消されてしまうのだろうか。
(…ヤダ)
失いたくない。たった数日間とはいえ、鈴音にとっては大切な「思い出」だ。尚人はどうかわからないが、鈴音は大切にしたいと思っている。
(それに、何より)
尚人の存在が自分から消えてしまうのは嫌だ。せっかく知り合えたというのに、たった数日でいなくなってしまうのは、なんとも後味が悪い。
(…イヤ。絶対にイヤ)
失ってたまるものか。もとより覚悟はできていた。が、記憶を差し出すのはごめんだ。
(そろそろ起きようかな)
目をあけると、窓の外はうっすらと暗くなっていた。時間は6時8分。すでに日没をすぎている。
(いよいよ、始まる)
決意を新たにする。何が起ころうと、全てをこの目で見とどけようと。消されてしまう記憶でも、少しの間でも覚えておこうと。
「ふうう…」
大きく息をはいて、服を着替え始める。紺のジーパンに茶色のシャツ、それにジャケット。
「いざ!!」
ピシャリと頬をたたき、自分を奮い立たせる。確かな足取りで部屋をあとにした。
 
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