――――― 二章 其の三 ―――――
 
「さて…」
部室にある自分にパソコンの前に座って、陽はきりだした。
「そろそろ来年度予算の申請をしなきゃいけないんだけどさ」
陽の前には、奈央や大地、鈴音など、今年と来年の報道部の首脳陣が集まっている。
「何か必要なものはあるかい?」
面々はしばらく考えたあと、一斉に言い始めた。
「デジカメ。ビデオのほう」
「ワープロ廃止。完全パソコン化希望」
「LANの拡張。新聞主任席からもプリンタにつなごう」
「写真用のデジカメも必要です」
「バッテリー」
「ドラムリール」
「電球」
「スイッチボックス」
「ツールセット」
「机と棚をいくつか」
「小物入れもね」
「モニターも」
「スピーカーも足りない」
「CDケース」
「じゃあMDケースも」
「ケースだけじゃなくて、MDもね」
「CD−R録音機」
「ンなもんいらねえよ」
「あ、コードも足りなかった気がする」
「延長コードとか」
「新聞用の紙」
「そんなの、印刷室からパクってきなよ」
「プリンタのインク」
「レーザーだから、トナーでしょ?」
「あ、そうか」
「…」
騒がしくなるのが突然なら、静まり返るのも突然だ。
「こんなもんかい?」
「そんなもんだろ」
「そんなもんでしょ」
「そのくらいでしょう」
「じゃ、これで予算申請を出そう」
あまりにも自然に流されて、誰も気づかなかったが。
「陽、もしかしてお前、今の全部メモったのか?」と大地。
「ん?当然だろ。でないと申請できないじゃん」
「あの速さで?あの量を?」
「ああ。もちろん」
その場にいた全員が顔を見合わせる。
「これぞまさしく」
「本当に」
「このことを言うんですね」
「?何のことだ?」
ひと呼吸おいて、大地が言った。
「これが本当の、ゴッドフィンガー」
「あのなあ…別に爆熱とかしてないから」
「爆熱してたら恐いわよ」
「全部溶けちゃいますよ」
「だからしてないってば」
「あのぉ…」
そばで会話を聞いていた牡丹が口を挟んだ。
「今のって、もしかしてガンダ」
「さあーて、物品の値段を調べないと」
「俺も、AGプレスの仕上げがあるんだった」
「私も早いとこお昼食べちゃおっと」
「あっ、あのっ…」
「瀬戸さん、ちょっと話が」
「はいよ。ちょっと待ってね」
セリフを途中で打ち切られ、一人取り残された牡丹は思った。
(私だけじゃないのかなあ…)
少なくとも、今の4人はそれである、と牡丹は確信していた。



「尚人くん」
たったの1日で聞き慣れてしまった声で自分の名前を呼ばれ、尚人はドキリ、とする。が、表情には出さない。
「なんだ?」
「話があるの。放課後、つきあって」
「話くらい、今済ませろ」
「困るのはあなたよ」
そう言われて尚人は、うっ、と言葉に詰まる。そのせりふ科白の意味は、つまり。
(やっぱり、バレたのか)
「じゃ、そういうことで、放課後ね」
「ああ…」
自分にもほとんど聞こえないくらいの声で返事をして、尚人はその場に立ち尽くす。
(バレたもんは仕方ないってか)
そして、全てを知った鈴音に待っているものは―――
(クソッたれが!!)
そのための口実作りか、あの指示は。そうなのだとしたら、鈴音を連れていくわけにはいかない。
(どうするよ、宏)
少しのことで思考が混乱する自分の頭で考えるより、いつでも沈着冷静な敦宏の考えを聞いてみるほうが得策かもしれない。尚人はザウルスを取り出し、敦宏にメールを送った。
(あいつが真面目な答えを返すかどうかわかんねえけど)
数十秒で返信メールがきた。
『自分でまいた種は、自分でなんとかするんだな』
(あンのやろォ…)
と思ったとき、ザウルスがふたたびメールを受信した。
『話がある。今日は誰も連れてくるなよ。なるべく早く帰って来い』
「誰も連れてくるなってことは…」
(仕事がらみか)
OK、と返信してザウルスをしまった。
(家に帰る前に、窮地にたたされなきゃいいけど)
尚人の危惧は現実のものとなる。



「オメガってなんなの?」
鈴音は単刀直入に訊いてきた。放課後に物理室。赤学の特別教室は、許可さえとれば誰でも自由に使用できる。今ここにいるのは、鈴音と尚人だけだった。
「は?」
「とぼけないで。あなたのメールアドレスにある『オメガ』よ。一体なんなの?」
「俺が使ってるプロバイダだった言ったろ?」
「嘘!」
鈴音は強い口調で言い放った。思わず尚人も閉口する。
「プロバイダなんかじゃない」
「どうしてそう言いきれんだよ?」
鈴音は鞄から1枚の紙切れを出して、尚人に見せた。
「昨日、帰ってから検索したのよ。ご覧の通り、1件もヒットしてないわ」
尚人は、紙に印刷された文字の羅列をながめていた。鈴音がふたたび口を開く。
「これの意味、わかるわよね?」
鈴音は紙をしまい、尚人に向き直る。視線が交錯する。
「オメガなんていうプロバイダは存在しないってことよ!」
ほとんど叫ぶようなかんじになっている。尚人は先刻から黙ったままだ。
「正直に話して。オメガって一体何?」
それでも尚人は何も言わない。かたくなに沈黙を守っている。鈴音が半ばあきらめかけた、そのとき。
「悪ィけど…」
尚人が口を開いた。が、口調はこの上なく重い。
「今は…話せる時期じゃない…」
「どうして!?」
「どうしてもだ」
「納得いかないよ!ちゃんと話してよ!」
「ゴメン…」
「なんでよ!どうしてよ…!」
鈴音の口調が急に弱くなった。尚人にギリギリ聞こえる程度だ。
「宏に呼び出されてんだ。悪いが、俺は帰るぜ」
そう言って尚人が扉に向き直ったとき」
「あの部屋…」
鈴音が、ほとんど独り言に聞こえるほど小さな声で言った。
「あの部屋にあったのってさ…」
とても小さく、それでも意思の伝わる口調だ。
「あれって…」
突然、鈴音は何も言えなくなった。尚人が鈴音の口をふさいだのだ。
「それ以上言うな…っ」
「…?」
「俺だってなあ…」
(尚人…くん…?)
「好きでやってんじゃ…ねえんだよ…」
(あれ…?)
ようやくな音が手を離した。そのまま、ふたたび扉に向かっていく。
「尚人くん…」
尚人の姿が見えなくなった。鈴音はその場に呆然と立ち尽くしている。
(尚人くん…さっき…)
泣いてた―――



「ずいぶん遅かっ…尚人?」
普段なら絶対見せるはずのない尚人の表情に、敦宏は少々驚いた。いつもの陽気で活発な表情が消えうせ、何かを思いつめたような色が支配している。
「何があった?」
尚人は無言のまま、倒れこむようにソファに座った。よく見れば、目には涙を浮かべている。
「帰ってくるまでの間に何があったんだ、尚人?」
「宏…」
「なんだ?」
「俺たちさ…何のためにこんなことしてんのかな…」
「なに?」
「俺…どうして…こんなこと…」
しばしの沈黙。敦宏はある考えに思い至った。
「リンちゃんに会ったな?」
「…ああ」
「何を言われた?」
「何も言われちゃいねえよ。ただ…」
「今さら恐くなったか?」
「そんな!そういう…わけじゃ…」
敦宏は呆れかえった様子で嘆息する。いきなり情緒不安定になられても困る。
「尚人」
敦宏は意を決した。こういうときは、さっさと終わらせたほうがいい。
「明日、決行するぞ」
「え…?」
「明日、仕事を決行する。そういうわけで、リンちゃんには話をつけとけ」
「ちょっと待てよ!なんだってそんな急に!」
「さっさと終わらせたほうがいいだろう。俺だって、これ以上欠課時数をふやしたくない」
「そんな…俺、今やったって、できる自信ねえよ…」
「尚人」
敦宏が静かに言った。諭すように。
「迷ってんなら、1発ぶっ放せ。今の状態じゃ、とても仕事なんかできない」
「…」
「少し出かけてくる。その間に、頭を冷やしておくんだな」
敦宏は脇においてあったジャケットを手に取り、立ち上がった。そのままドアに向かっていく。
(俺だってな)
ドアを開けながら思う。尚人だけではない。他ならぬ自分でさえ。
(今やってることの意味なんか、わかっちゃいないさ)
眼下に広がる公園では、子供たちが楽しそうに遊んでいた。



 明かりのない窓。誰もいない家。薄暗い玄関。空しく響く足音。散らかった部屋。物があふれる机。壊れた棚。潰れたボール。破れたカレンダー。さびついたメダル。
 思い出したくない過去。埋められない過去。記憶に焼きついた光景。永遠に癒えない傷。治療法のない病。自分の右手。めぐる記憶。やさしかった母。どんな話も聞いてくれた母。その母を殴った父。憎悪の対象となった父。唯一の願い。

 ただ、母さんを助けたかった。だから―――

 自分の右手。握られたもの。全てを失った日。願いがかなった日。家にいられなくなった日。家を去った日。あとに残したもの。

 あの日、あの時、あの家で。

 俺は、親父を殺した。



 ガシャン―――
 テーブルに置かれたグラスが割れた。そこに赤い水が広がっていく。自分の右手も赤く染まり始める。痛みはない。痛みなど感じるはずがない。今できた右手の傷など、この心に刻まれた傷に比べればなんでもない。
 過去に繰り返した疑問をまた問いかける。誰にでもない、自分自身に。
 自分はどうしてここに来た?
 自分はどうしてこんなことをしている?
 自分はどうしてこんなことができる?
 自分はどうして―――
「ッ…」
今になって、右手の痛みに気づいた。その痛みが新たな思考を浮かび上がらせる。
 どうしてここにきた?どうして組織に入った?そんな過去のことはどうでもいい。大切なのは今。自分が今何をするべきか。何をしなくてはならないのか。
 立ちあがって、玄関に向かって歩いていく。その途中にある扉。鍵を開け、中に入る。棚に並んでいるうちの、比較的小さな物を手に取り、その感触を確かめる。部屋は防音壁で囲まれているので、音が外に漏れる心配はない。いくつかあるシューティングボックスのひとつに入り、かまえる。数メートル先には人型の的。その中央に狙いを定める。
(俺は…)
あの時と同じ。あの時も、こうして狙いを定めた。ただし、相手は的ではなく。
(俺は…)
あの時と同じ。何かを失うかもしれない。今ある全てを失うかもしれない。それでも。
(俺は…!!)
「やってやるッ!!」
ドォォン―――
耳鳴りがする。衝撃が頭に響いている。それが、決意をより確かなものにする。
 人型の的があの時の光景に重なった。自分の目の前で倒れた父。そのあと決して動かなかった父。焦煙の匂い。心に刻まれた傷。でも。
(俺はもう、迷わない)
リビングに戻り、ザウルスを操作してメールを送る。
『話がある。7時に中央公園で待つ』



「はあ…」
息が白い。時計は6時47分を示している。
(ちょっと早く着きすぎちゃったかな)
手袋をはめた手を擦りあわせる。が、あまり効果がない。首にはマフラー、耳には耳あてまではめているのに、体の芯まで凍るほど寒い。
(一体、何の用だろ)
1時間ほど前に鈴音は尚人にメールで呼び出され、待ち合わせ場所の公園にやってきたのだ。『話がある』とだけ記されたメールに、話の内容を訊き返したのだが返事はなかった。
(それにしても)
話なら学校で済ませろと自分で言っておきながら。
(しかも)
自分からはメールしないなどと言っておきながら。
(言ってることとやってることが違うじゃない)
「はあ…」
ふたたび白い息を吐き出す。時刻は6時51分。
(時間の進みが遅い…)
勉強しているときや本を読んでいるときとはくらべものにならないほど、1分1分が長く感じる。
(寒いんだから早く来なさいよ!)
「あ」
1台のバイクが公園に入ってきた。鈴音から少々離れたところに停車し、エンジンが止まる。フルフェイスのヘルメットの下から現れた顔は、鈴音のよく知ったものだった。
「遅いッ!!」
バイクを降りようとした尚人に、鈴音はいきなり怒鳴りかかる。
「何分待たせてんのよ!女の子を待たせるなんて最低!」
「何分待ったんだよ?」
「20分!」
「お前、そんな前からいたのか?」
「そうよ!」
「アホらし」
「ぬわんですって!!」
「7時に待つって言ったはずだぞ。7時に来ればいいじゃねえか」
「私の辞書に待つって言葉はないのよ!!」
「あーそうだったな。それと」
「なによ!まだ何かあんの!?」
「近所迷惑だから、大声で騒ぐのはやめろ」
「あ…ごめん」
お?と尚人は首をかしげる。
「やけに素直だな」
「私だって、自分の非ぐらい認めるわよ」
「ウソばっか」
「なんか言った?」
「いんや、なんでもねえ。それより」
「ん?」
「明日の夜、あいてるか?」
「明日の夜?用事はないけど、どうして?」
「7時から10時くらいまでなんだけど、大丈夫か?」
「明日はゼミもないから大丈夫よ」
「じゃあ決まりだ。明日の夜、俺たちに付き合ってくれ」
「なんで?なにかあるの?」
「あるから言ってんだろ」
「何があるの?」
「それは、な…」
一度言葉を切る。口にするには相当の覚悟が必要だ。一応してきたつもりだったのだが、いざ言うとなるとやはり抵抗がある。
「明日、俺たちの秘密をお前にバラす。俺たちの、できれば誰にも知られたくない秘密だ」
「秘密?」
「多分、お前も知りたがってることだろ」
鈴音はドキリ、とする。自分が今1番知りたいことと言えば。
「尚人くん…それってさ…」
「なんだ?」
「それって…私なんかに知られていいようなことじゃない…と思うんだけど…」
「だから言っただろ。できれば誰にも知られたくないって」
「じゃあ、どうして…?」
「まあ、指示だからな。仕方ない」
「指示?」
「そのへんについては、明日話せると思う。明日、全部終わったらな」
「全部…終わったら…?」
「そうだ。全部終わったらだ」
「全部…」
鈴音の頭は、ほとんど何も考えていなかった。今まで彼らに気づかれないように探ってきたのに、尚人はそれを自分から明かすと言っているのだ。それに、誰にも知られたくない秘密と言われれば、鈴音の考えるところと相違はないだろう。
「話はそれだけだ。明日の夜7時に、この公園に来てくれ。自転車とかでは来ないほうがいいな」
「…わかった」
「わざわざ呼び出して悪かったな。直接伝えたほうがいいと思ったから」
「…うん」
「じゃあな」
「じゃあ、ね…」
バイクのエンジンがかかる。尚人はヘルメットをかぶってバイクにまたがり、そのまま走り去った。
(1度ならず2度までも)
鈴音の心には、怒りとも緊張とも焦りともつかない、なんとも言えないモヤモヤが渦巻いていた。
「どうして…人をどん底に突き落とすのが好きかな…」
その場にへたり込んでしまう。全身の力が抜けていく。
「ばかやろぉ…」
バイクのタイヤの跡が、徐々に湿っていくのが見えた。
 
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