――――― 二章 其の一 ―――――
 
 通い慣れた通学路。いつもと変わらない静かな通り。街灯はついているが、この場を包み込む闇にはかなわない。
(そろそろ電球取り換えたらいいのに)
点々と配置された街灯は、通りを黄色く、ぼんやりと照らしていた。
(物理と数学のレポート、明後日までだったっけ)
じゃあ今日は物理をやろうと決め、鈴音はいつもの足取りで歩を進める。
 ふと空を見上げる。都会にしては珍しく、星が輝いている。先月のしし座流星群は、この近所でも観測されたらしい。
 と、視界の隅に異常を見つけた。黄色く光る街灯でも、白く瞬く星でもない。
(ちょっと、え?もしかして…)
―――レーザーサイト?
 なぜその言葉が浮かんだかはわからなかったが、反射的に反対方向にあるビルを見る。窓のひとつがおかしい。何かが動いている。
(人…なの?)
動く何かに目を奪われていると、その何かが顔を出した。星の明かりでかすかに顔が見えた。金髪らしきものが光っている。
(え?)
鈴音がそう思ったとき、ビルの中の人物は鈴音に気づいたのか急いで身を隠した。数十秒後、バイクの疾走音が聞こえてきた。
(うそ…)
見間違いか。暗くてよく見えなかったが、それでも鈴音はあの顔の人物をよく知っていた。いや、あの顔に似ている人物を。
 まさか、と、でも、をくりかえし、認めたくはない現実を受けとめる。
(真下…くん…?)



「セット完了。いつでもいけるぜ」
『よし。目標は4分37秒後に現れる。それまで待機だ』
「了解」
 尚人は壁に寄りかかって座り込んだ。傍らには、ライフル銃がセットされている。
(これで何人目だ?)
もう数えるのも面倒くさい。首を振って、思考を切りかえる。
(集中、しねえと)
『3分だ』
尚人は、窓から顔を乗り出してみた。空には星が輝いている。そして、眼下には街灯のぼやけた光。と、何かの影。
(人か?)
少し体を動かして、光がそれを照らすようにしてみる。
(―――藤本!?)
「マズイ、宏!俺のクラスのやつが下にいる!」
『な…!?クソッ!尚、引き上げだ。作戦を練り直す!』
「わかった」
すばやく銃を片付け、バッグを背負って階段を降りる。もちろん、足音はたてない。
(ちくしょー!顔見られたかも!)
バイクにまたがり、急いで発進させる。
「宏、スマン。俺がもっと周りを気にしてりゃよかった」
『いや、事前調査で調べきれなかった俺のミスだ。とにかく早く帰って来い』
「オウ…」
住んでいるマンションには、ものの十数分で到着する。バイザーの隙間から入り込む風が、妙に痛く感じられた。



「では、160ページの問6、それから問題の3、4、5をやってください」
数学教師の上田の声で、生徒たちの手が一斉に動き始める。目線は、一様にノートに向かっている。が、鈴音だけは全く違う方向を向いていた。
(似てる、よね…)
 鈴音の目には、ひとりの男子がうつっている。真下尚人。おおらかな性格で、クラスの人気者だ。休み時間にはたくさんの人だかりができる。しかし、授業中の表情は真剣そのもので、余計な私語など一切しないのだ。
「藤本、何を見てるんだ?」
鈴音が我に返って降り向くと、上田がすぐ隣に立っていた。
「俺の授業はそんなに退屈か?ん?」
「あっ…いえ、そんなことないです。すいません」
鈴音のノートは、昨日の部分で終わっている。今日はまだ何も書いていない。書こうと思っても、尚人が気になって書けないのだ。
 昨日の帰り道、暗いビルの窓に見えた顔。尚人にそっくりだった。そのせいで、鈴音は朝から尚人に釘づけである。
(考えても仕方ないかもしれないけど)
やっぱり気になるのよね、と胸中でつぶやく。
(瀬戸さんに話してみようかな)
そう結論付けて、ようやくノートにシャープペンを走らせる。解いてみると、案外簡単なものばかりだった。
(微積分は得意だしね)
そのかわり、他はてんでダメだけど。
 全ての問題を解き終えたとき、授業終了のチャイムがなった。



 陽は悩んでいた。いいアイディアが思いつかない。
(どうやって撮影するかなあ…)
 クリスマスの恒例行事、中・高等部合同の大パーティーで、ステージ上の出演者たちを下から撮影できないか、という要請が生徒会から出されたのだ。学校説明会等で使う紹介ビデオに使うためだ。
(ステージ下は、あんまり広くはとれないしなあ)
ステージからオーディエンスまでの間隔を、あまり広くするわけにもいかない。どの程度ならちょうどいいか。
(実際にやってみるしかないか)
放課後、みんなに協力してもらおう。
「瀬戸ォ、今は何の時間だ?休み時間か?」
教師の中野の声がした。陽の表情が凍りつく。
「物理…です…」
「そうだな。じゃあ、今お前の机に広がってるのはなんだ?」
「…仕事関係?」
「なぜ俺に訊く」
「仕事じゃないといえば嘘になるけど、世間一般に言う仕事でもないんで」
「そりゃまあ、確かにな…」
「(1)は限界振動数ですね。(2)はh/λ」
「ん?ああ、そうだな。なんだ、ちゃんとやってるんじゃないか」
「基本問題でしょ。読めば分かりますよ」
「まあな。じゃあ562の(1)はどうなる?」
「計算しないと分かりません」
「じゃ、計算して答えを出せ」
「わかりました」
陽の返事を聞いて、中野は去っていった。陽は、ふぅ、と嘆息する。
(一応、結論は出たしな)
計算を始める。通信産業を志す者として、原子物理学はおろそかにできない。
「瀬戸、できたか?」
「あ、はい。3.0×10−6mです」
「正解だ。それを踏まえて、プランク定数はどうなる?」
「ええっと……6.63×10−34ですか?」
「その通りだ。単位は?」
「J・s」
「よし、パーフェクトだ」
陽はふたたび嘆息する。必要以上に頭を使った。
(疲れるな、まったく)
授業終了のチャイムがなった。



「そういうわけで、協力よろしくな」
放課後の部室。ステージとオーディエンスの適正距離を測るための協力を部員たちに頼み、陽は印刷し終わった会場図を手に取った。
「じゃ、行こう」
部室を出る。鍵はかけない。
(ってゆーか、この部屋の鍵なんてあるのか?)
陽はまだ見たことがない。3年のこの時期で、しかも部長なのに見たことがないということは。
(…ないのか?存在しないのか?)
なんと無用心な。
「瀬戸さん」
唐突に声をかけられ、陽は飛びあがりそうになる。
「ど、どうした?リンちゃん」
「あとで、ちょっと話があるんですけど」
「今じゃマズイの?」
「ここでは、さすがに…」
「そっか…。じゃ、これが終わったらゆっくり聞くよ」
「はい。お願いします」
陽と鈴音は並んで歩き出した。視界の隅に、頬をふくれさせた牡丹が見えた気がしないでもないが。
 体育館に到着すると、カメラマンの山本祐平が大型のカメラを担ぎ、ステージ下のスタンバイした。ステージの上には奈央が上がり、パフォーマンスポジションにつく。そのほかの部員たちはオーディエンス役となり、祐平から数歩下がったところにずらりと並んだ。
(広いな、ウチの体育館)
約30人が横一列に並んでちょうどいい広さ。なんせバスケットコートが4面もとれるのだ。私立校ならではの大設備である。
「じゃあ祐平、撮影しやすい位置で動いてくれ」
「了解ッス」
祐平が2、3歩あとずさりし、横に動き始めた。
「みんなは、祐平が邪魔にならずに奈央が見えるような位置までさがってくれ!!」
大声で叫ぶ。そうしないと、向こう側まで聞こえない。
「陽さん、だいたいこの辺ですね。これより前だと、逆光で撮影できない」
「OK」
陽はすぐに距離を測り、会場図に書き込む。
「みんなはどうだ!そんなもんか!?」
何人かの部員がうなずいた。陽はそこへ走り、見栄えを確認する。いくつかのポイントで確認を済ませ、会場図のメモを見てみると、
(なるほど。ラウンドさせるのか)
中央部が最も遠く、端に行くほど近くなっていた。
(これなら問題ないな)
実際に試したのだ。実測に勝る理論はない。
「よし!OKだ!ありがとう!」
三度大声を張りあげて、部員たちを撤収させる。会場図に、カメラの移動ラインとオーディエンスの前端ラインを書き込んで、陽も部室に向かう。そこで、ふと思い出した。
(リンちゃんが俺に話なんて、珍しいな)
鈴音は大抵、奈央に相談を持ち掛ける。陽もそれは知っていた。
(よっぽど重要なことなんだろうか)
考えなくても、聞けば分かるか。
 陽はそう考えて、歩を早めた。



「犯人を知ってるかもしれない?」
鈴音の話の内容は、驚くべきものだった。昨日の夜、一連のライフル殺人と関連があると思われる現場に遭遇し、しかもその犯人が鈴音のクラスにいるかもしれないというのだ。
(でもなあ)
「信じられないよ、そんな話」
「それはそうだと思います。というか、普通はそうでしょう」
でも自分は見たのだ、星明りに照らされた彼の顔と、金色に輝いた髪。
(そっくりなんだもん)
自分だって信じたくはない。自分のすぐ近くに殺人犯がいるなどと思いたくはないのだ。
「瀬戸さん」
鈴音は、意を決して言い放った。
「私に、この事件を追わせてください」
陽は絶句した。まさか、こんなことを言うなんて。
「どうしても気になるんです。自分の手ではっきりさせたいんです」
「危険すぎる。部長として、許可できるはずないじゃないか」
「危険は承知のうえです。でも、はっきりさせないでビクビクしてるよりは、危険でもはっきりさせたいんです」
鈴音の目は、本気の目だ。誰になんと言われようと、私はこの目で確かめたい。行きつく先が良きにしろ悪きにしろ、はっきりしていたほうが覚悟もできる。
「リンちゃん…」
陽の口調は重かった。許可したら最後、鈴音に何かあったら、その責任は全て陽のそれとなる。果たしてそれだけのものを背負えるのか。だが―――
(苦渋の決断っていうのは、このことを言うんだな)
自分も、覚悟を決めるとしようか。
「とめたって、行くんだろう?」
「もちろん、そのつもりです」
「なら、俺の答えはひとつしか用意されてないじゃないか」
「じゃあ…」
陽は、ひとつうなずいて言った。
「俺が責任をとらないわけにはいかないからね」
「ありがとうございます」
鈴音は深々と頭を下げた。そこに込められたのは、感謝と覚悟の念。
(絶対につきとめてやる)
どんな結果になったって、かまうものか。確かめることが重要なのだ。
(待ってなさいよ、真下尚人!)
鈴音は、拳を握り締めた。



「はああああ…」
めったにないほど、大きなため息をつく。肩に、大きな荷物を担がされたような重みを感じていた。
 ものすごい数の文庫本が整然と並べられた本棚。その脇に山積みにされた通信関係の書籍類。机には、姉から譲ってもらった受験教材が並んでいる。ここは、陽の自室である。
 ベッドに腰掛けて本を読みながら、陽は今日の放課後の出来事を思い返していた。
(後悔してもしょうがないんだけどさあ)
なんであんなことになっちゃったかなあ。
(万が一のことでもあったらどうするよ)
と考えて、陽ははっとする。何を不謹慎なことを考えているのだ、自分は。
 鈴音を信じたから、だから許可したのだろう?自分も、覚悟は出来ているのだろう?
 そう自分に言い聞かせ、嫌な思いを拭い去る。
「陽、ご飯できたわよ」
「はーい。今いく」
文庫本を放って、立ちあがる。窓から見える星空を見上げた。
(ホントに、きれいですこと)
自室を出た。



「ふう」
机に広げた分厚い本から目を離し、眼鏡をはずしてまぶたを抑える。
「う〜ん…」
むずかしい。こんなの、理解できない。
(頭がパンクしちゃうよ)
やっぱりやめときゃよかった。重くて難しい本なんて、最低の本だ。鈴音は心底そう思った。
 学校の図書館で借りてきた刑法書。今まで小一時間ほど黙々と読みふけっていたが、鈴音にはさっぱり理解できなかった。それでも半分ほどまで読み進めたのだ。最後まで読まないと。最後まで。最後まで。
 …最後まで?
 鈴音は、はたと気づいた。最後まで読む必要なんて、あるのだろうか。
(よく考えたら、窃盗とか関係ないじゃん)
「最悪ぅ…」
なんで気づかなかったんだろう。自分は殺人事件に首を突っ込むんだから、そこだけ読めばいいではないか。しかも、まだ殺人に関する項目は読んでいない気がする。
(私の1時間を返して…)
1時間あれば、数学の問題集を5ページは進められただろうに。
 うんざりしながら目を開けると、正面の窓から空が見えた。星はそんなに多くない。
(星の明かりって、あったかいよねえ)
この星たちに免じて、もう少しがんばってみようかな。
 鈴音はすたたび、分厚い本に向かった。



「それで―――エイチ―――に等し―――」
何しゃべってんの?
「したがっ―――エックス―――に等し―――」
うとうと。
「で、次―――で割って―――エムが―――となる。藤本!!」
「は、はい!!??」
あまりに突然呼ばれて(いや、起こされて)、鈴音の目は点になっている。
「今の例題、理解したのか?」
「え、あ、えーと、エイチがエックスに等しくてどーのこーのって…」
「なんだそりゃ。何もわかってないじゃないか」
「す、すいません…」
「しっかり理解しろ。他の者は、問26と27をやる」
今日は朝からこんな状態だ。1時間目の英語も、2時間目の化学も、3時間目の現代文も、まったく理解できていない。
(眠いんだよぉ…)
自業自得なのは分かっているのだが。
 結局、昨夜は3時くらいまで刑法書を読んでいた。殺人に関する項目は意外と多く、殺人未遂まで調べると、なんと4ページに及んでいた。もちろん、字は相当に細かい。
(あの本、難しすぎる)
頭をかいていると、ふと視界の隅に人影がうつった。こちらを向いて、クスクス笑っている。よく知った顔。混じりっけのない金髪。
(あたしがこんなに眠いのはねえ…)
あんたのせいなのよ。
(真下!!)
こちらの視線に気づいたのか、尚人は机に向き直って問題を解き始めた。鈴音も、ノートにシャーペンを走らせる。が、案の定。
(…わかんない)
例題見直さないと。と、と、と…
(あああっ!黒板消さないでええ!!)
そんな願いが通じるはずもなく。
(あーあ…)
がっくりとうなだれる。視界の片隅に、またもや。
(もう、勝手に笑ってなさいよ)
尚人が無邪気な笑顔を見せていた。



「真下くん!」
たいして聞きなれてはいないが、誰のものかはすぐに分かる声で自分の名を呼ばれ、尚人は素直に振り向いた。その先にはショートカットの少女がいる。他に特徴らしい特徴はない。
「あー?」
「あー?じゃないわよ!さっきから私のほう見ては、クスクスクスクス笑って!一体何がおかしいのよ!?」
それくらい気づけよ、と言いかけて、尚人はやめた。あとの仕返しがこわい。
「いつものあんたじゃねえからさ」
「どういう意味よ!」
「ホゲーッとしてる」
「うるっさいわねっ!!」
パアーン!!
 尚人の机上で甲高い音がした。鈴音の平手によって、机の上にあった未開封のコロッケパンの袋が破裂したのだ。中身の状態は、言うまでもない。
「ああっ!なんてことしやがる!俺の昼メシ返せ!!」
「あんたが悪いんでしょ!!食べたいなら新しく買ったら!?」
「ざっけんな!金欠の学生に何言ってやがる!!」
「お金がないのもあんたが悪いんじゃない!私は何も悪くないわ!」
「そういうこと言ってんじゃねえだろうがっ!!」
教室のど真ん中で突如始まった鈴音と尚人の口論に、またたく間にギャラリーが押し寄せる。その中には、他にクラスの人間もちらほら。
「お前がツブしたんだろーが!お前が返すのが当たり前だろ!!」
「女心を傷つけたあんたが悪いのよ!自分の言動を悔いることね!!」
「俺はお前の質問に答えただけだろうが!!」
「その答え方が問題なのよ!まったく、女心ってのがわかってないわね!」
「ンなもんわかってたまるか!!」
「あーそうですか!じゃあ一生結婚なんてできないわね!!」
「何年先の話してやがる!!」
「一生できないって言ったでしょ!何年先もなにもないわよ!!」
「ンなこと言ったら、お前だってできないじゃねえのか!?そんな性格で、俺だったらこっちから願い下げだね!!」
「別にあんたなんかに期待してないわよ!!」
「だから願い下げだって言ってんだろ!!」
そこで、とんでもない邪魔者が入った。昼休み終了のチャイムだ。
「あーもう!あんたのせいでお昼ご飯食べそこなっちゃったじゃない!!」
「それはこっちのセリフだ!おまけにパン代まで無駄にしやがって!!」
「ふんっ!!」
「けっ!!」
尚人は自分の鞄を乱暴に引っつかみ、教室を出ていった。鈴音も、自分の机から政経の教科書を取り出し、鞄を肩にかけた。
(あ、そういえば)
口論に夢中で肝心なことを忘れていた。鞄から時間割を取り出し、確認する。次に会うのは帰りのホームルームか。
(そのときに頼めばいっか)
鞄を担ぎなおし、教室を出た。
 
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