――――― 三章 其の一 ――――― |
天気は快晴だった。雲ひとつない。マンガのような青空のもと、陽は忙しく走りまわっていた。 今年で19回目を迎える赤星学園の中等部・高等部合同体育祭の朝。時間は7時53分。一般の生徒は誰一人として登校していない。今ここにいるのは、高等部の本部役員と中等部の本部役員、美化・救護の担当者、それに、報道部の面々。 奈央が巨大な16チャンネルミキサーを軽々と持ち上げ、放送ブースまで運んでいく。華奢な体つきからは想像もできない力だ。1年生はあっけに取られているが、陽達にとっては、もう見慣れたものだ。たいして驚きもしない。大地は、新聞部門の生徒を集めて、今日の役割分担などについて説明をしているようだ。その中には当然牡丹の姿もある。いつもどおり真剣な表情で、大地の話に耳を傾けている。 陽は空を見上げてみた。あいかわらず雲はひとつもない。晴れやかな秋晴れだ。ふと、昨日の夏樹の笑顔が思い出された。今日、彼女は来るだろうか。できることなら来てほしい。 花火がなった。体育祭の開催を告げる、4発の花火。近所迷惑だろうなあ、と思いつつ、音のなったほうを見やる。花火でできた小さな4つの雲は、大きく広がりながら消えていった。 「腕を上げて、のびのびと背伸びの運動から―――」 大地は憂鬱だった。恒例行事とは言え、体育祭の種目(と呼べるのかどうかは別として)の中で、このラジオ体操ほど退屈なものはない。 新聞部門の主任という地位を利用し、取材と称してラジオ体操を回避しようとしたのだが、「こんなもん取材したってしょうがないだろ」という顧問の一言で台無しになってしまった。 (マジでだっりぃ…) 同じ主任でも、放送部門の奈央は機材運用のために本部テントの放送ブースにいる。ようするに、ラジオ体操を回避したのだ。 (なんであいつはやらなくていいんだよ) 答えは明確なのだが、心のどこかで納得できない、と言うよりは納得したくない自分がいるのであった。 そんなことを考えながら本部テントをにらみつけていると、その延長線上に見知った顔が。すらりと伸ばした長い髪。お決まりのレザースタイル。手には愛車のものと思われるキー。こちらを向いている。大地と目があった。ニヤリと笑う。間違いない。 (あンのやろォ…) 性格には野郎ではないのだが、今の大地にはそんなことを考える余裕などなかった。 相手は笑顔で手を振ってきた。が、当然それに答えられるはずもなく、大地の憂鬱感はみるみるうちに頂点へ達する。 「深呼吸―――」 全くやる気のない深呼吸運動を終え、集合隊形に戻る。そして、ようやく解散の合図。 体育祭は始まったばかりだというのに、大地は全身を倦怠感に包まれていた。 (帰りてェ…) いくらなんでも気が早すぎるのは自分でもわかっていたが、体が以上に重いのだ。帰りたくもなる。 大地は、ある決意を固めた。 「ちょっ、まっ、ダイチ!ストップ!」 テント裏に麻子の悲鳴が響く。後ろは壁、左右に飛べる余裕など到底なく、目の前には目を吊りあがらせた大地が立っていた。 「な、なにかあった?私、何かしたかしら?」 大地の右拳はかたく握られていた。麻子に向かって数歩近づき、右腕を振りかぶる。そして――― 「よっ」 パシッ、ドサッという音がして、気づいたときには大地は地面に仰向けに倒れていた。周りを見まわすと、おびえた顔の麻子と、パンパン、と気味のいい音をたてて手をはたく陽の姿がある。 「何があったか知らないけど、さすがに殴りかかるのはマズイだろ」 大地は本当に、何があったか理解できていなかった。麻子に向けて拳を振り下ろそうとした次の瞬間には、なぜか自分が倒れていた。麻子ではなくて自分が、だ。 1分ほどして、大地はようやく事の真相を理解した。ようするに、自分は陽に投げられたのだ。あの体勢では、おそらく一本背負いだろう。 (そういやーコイツの姉キ、柔道の選手だったな) 陽の姉である望は、高校時代から県下にとどろく柔道の名選手で、陽はよく姉の練習に付き合わされていたらしい。何度となく姉に投げられてきた陽が、その投げ技をいつのまにか修得していたとしても、何ら不思議はない。 「大地っ!」 陽の声で、大地は我に返った。仰向けに寝そべったまま、気のない返事をする。 「あー?」 「あー?じゃねぇよ。いつまでそうしてる気だ」 「なんか起きあがるのが億劫でさぁ」 「体育祭が始まる前から、戦意喪失か?」 「いや、なんとなくだるいんだよ」 「なんで?」 「理由?それ」 と言って、未だに寝そべったままで麻子を指差す。『それ』呼ばわりされた麻子は、当然怒る。 「『それ』ってなによ、『それ』って。しかも私、何か気に障るようなことした?」 「しなきゃここまでだるくならないですよ」 「なにお−」 「ハイハイそこまで。大地、仕事あるんだからいい加減に起きあがって本部に行け。マコ先輩も、仕事の邪魔はしないで下さい」 それを聞いて、大地はようやく立ちあがった。服についた泥を軽く叩いて本部テントへと走る。麻子も、愛車のキーを指でくるくる回しながら、観客席(明確に区分けされてはいないが)のほうに歩いていった。 「マコ先輩。今日もアレックスで来たんですか?」 「…あんたさぁ、ガンダムじゃないんだからそういう言い方やめなさいよ。立派に『RX−8』って名前があるんだから」 「やっぱり8ですか。僕の友達が『8よりセブンのほうが絶対かっこいい』って言ってましたよ」 「なんだとー!?どこのどいつだ!?ここに連れてこい!」 「いや、それはちょっと…」 それだけ言って、陽は逃げるように本部へ小走りで向かう。麻子の叫び声が聞こえてきた気がしたが、全て無視する。 (こんなときにまで面倒起こしたくないしな) グランドに設置された大音量スピーカーから、典型的なダンスポップサウンドが流れ出した。 (奈央め、1曲目は普通のにしとけって言ったのに…) そこで陽は、はたと気づいた。奈央はいつもこんな曲ばかり聞いている。考えてみれば、彼女にとってはこれが『普通』なのだ。 (失敗した…) 己の不祥事を嘆きつつ、気持ちを入れ替えて部員たちに指示を出し始める。陽は、日本語は難しいと、つくづく痛感していた。 「あーーっ!!夏樹ちゃん!!」 走り出した途端に、首の後ろに痛みが走る。少々重いデジカメを首から下げているのだから当然だ。それでも牡丹は全力疾走していた。夏樹がいることろまでまだ少し距離がある。牡丹の呼びかけに気づいた様子はなかった。 「夏樹ちゃん!」 ようやく夏樹のもとにたどり着いて、再度声をかける。今度こそ気づいた。 「あ、牡丹ちゃん…」 「来たんだ!来てくれたんだ!」 頼んではいないのだから『来てくれたんだ』という表現はおかしいのだが、『来てほしい』と思っていたことは事実なので、自然とそう言っていた。 「うん。なんか、体育祭は、来てみようかなって…」 その夏樹の言葉を聞いているのかいないのか、牡丹はしきりに、うんうん、とうなずく。顔に、満面の笑みを浮かべて。 「お〜い牡丹ちゃん、追いてくなよ…」 牡丹の突然の猛ダッシュについてこれなかったらしく、一緒に行動していた大地はかなり遅れてやってきた。それでも夏樹の姿を確認すると、 「あ、夏樹ちゃん。おとといぶり」 と、軽く挨拶を交わす。夏樹も、はい、と笑顔で答えた。 夏樹の笑顔に、暗い影はなかった。まだ立ち直ったわけではないのだろうが、それでも最初に会ったときとくらべると、かなり回復したようだ。 が、夏樹が座っていた椅子の周りに、他に椅子はなかった。 「1人、なの…?」 「…うん。私、あんまり友達いないから」 夏樹の表情が微妙にかげったのを察知して、牡丹は、しまった、と思った。しかし、すぐに気を取りなおして、つとめて明るく振舞うことにする。 「じゃあ、私達のところに来たら?瀬戸さんもいるし、一人よりはずっといいよ」 牡丹はそう提案するが、夏樹が返事をするより早く、大地が口を挟む。 「バカ言うな。一般に人間を本部に入れることなんて、できるわけないだろ」 「いーじゃないですかー。夏樹ちゃん、1人で寂しそうだし、瀬戸さんはいつも本部にいるんだから、話くらいはできますよ?絶対そのほうがいいですよ。ねー、夏樹ちゃん?」 急に話を振られ、夏樹は、え?ああ、うん…、と言葉に詰まってしまう。 「でも、みなさんに迷惑をかけるわけにはいきませんから」 どうやら遠慮しているようである。英語で言うなら『ノーサンキュー』といったところか。 「ほらな、夏樹ちゃんもこう言ってるし」 「じゃあ、今から瀬戸さんに聞いてみます!」 もう大地先輩なんかに頼りません、といった口調で、牡丹はふくれている。 新聞部門の生徒は、無線通信機能が搭載されたヘッドセットを携帯していて、本部テントに置かれたメインサーバーを通して全て繋がっている。このシステムは陽が作ったもので、将来は通信関係の仕事につきたいを思っている彼は、数年前から簡単な無線工学などを勉強していた。因みに、陽は第2級アマチュア無線技士の資格を持っている。 「はい、本部」 牡丹の呼びかけに対して、返事をしてきたのは奈央だ。 「瀬戸さん、いる?」 「はいはーい、ちょっと待ってねー」 しばらく間があいて、今度こそ陽が返事をする。 「はい、瀬戸」 「瀬戸さんですか?あの、夏樹ちゃんがいるんですけど、1人で寂しそうなので本部につれていってもいいですか?」 少し間があいて、返事が返ってきた。 「邪魔しない程度なら来てもいいけど、でも相手してる暇なんて、あんまりないよ?」 「それでも、ここにいるよりはいいと思うんですけど」 「そう?牡丹ちゃんがそう言うなら、そうしようか。俺は出られないから、できれば連れてきてくれる?」 「わかりました!ありがとうございます!通信終わります!」 「了解」 割と短い通信を終え、牡丹は夏樹に向き直る。 「大丈夫だって!すぐに行こう!」 「本当?うれしい!ありがとう」 「そんなこといいって。早く行こ」 そう言って牡丹は、今度は大地を見た。勝ち誇ったように目を向ける。大地は「へっ」と一瞥して歩き出す。陽が許可したのなら、大地には何も文句は言えないのだ。 夏樹はそそくさと手荷物をまとめて胸に抱きかかえ、牡丹と並んで歩き出した。歩きながらも会話は弾んでいる。牡丹も夏樹も、これ以上ないくらいに笑っていた。 無線機の前に座っていた陽は、ふと振り向いた拍子に夏樹の姿を見つけると、立ちあがって駆け寄っていった。 「やあ、来たんだね」 「はい。今日は天気もいいですし、気分も良かったので来ました」 「そう。よかった」 短い会話のあと、陽は夏樹をテントに招き入れた。他の部員たちには話をつけてあるので問題はない。いくつかある椅子のうち、無線機のとなりにある椅子に夏樹を座らせ、陽も無線機の前に座る。 「種目は?何に出るの?」 「障害物競走です。あとは学年種目」 「じゃあ午前中は暇なんだ。どっちも午後だよね?」 「はい、そうで」 す、と夏樹が言おうとしたとき、携帯のバイブレータが震えた。夏樹の数少ない友達の1人、上山若菜からのメールだ。 『隣に座ってるかっこいい男、だれ?彼氏?』 その文面を見て、夏樹の顔が、ぼっ、と赤くなる。 『ち、違うよ。友達の先輩だよ』 震える指で辛うじてそれだけ打って、送信する。動揺した心を落ち着かせようとするが、気持ちの整理がつく前にふたたび携帯が震えた。 『ホントにぃ〜?夏樹って、案外目ざといところあるからねぇ〜』 頬が火照っているのがはっきりと分かった。心臓の鼓動も速くなっている。 『ホントに違うんだって。友達の先輩だよ。ただそれだけ』 送信し終えたとき、ふいに陽が口を開いた。 「携帯、持ってたんだ」 「え!?あ、はい!持ってましたよ!」 完全に動揺している。手に汗が滲んでいる。胸の鼓動は高鳴るばかりだ。 「どうしたの?何かあった?」 「い、いえ、なんでもないですっ」 あったといえばあったのだが、「恋人同士に見られてるみたいです」なんて言えるわけがない。 「そう?なんにもないって顔じゃないけどなァ…」 夏樹は、ギクッ、となる。その動作を、陽は見逃さなかった。 「…図星?」 「もうっ!瀬戸さんのいじわるっ!」 顔を真っ赤に赤面させながら、夏樹はふくれている。それを見た陽は、なぜかは分からないが、ごく自然に笑みをこぼしていた。それにつられて、夏樹も笑い出す。2人はしばらく笑っていた。 と、そこに通信が入る。陽が慣れた手つきで応対する。 『2番より本部』 「こちら本部。2番どうぞ」 『400mの選手がまだ集まっていません。召集をかけてください』 「本部了解。奈央、よろしく」 「はいはーい。リンちゃん、いくよー」 「オッケーです」 チャイムがなって、アナウンサーの藤本鈴音が召集の原稿を読み上げる。 夏樹は一連の動作を見て、素直に驚いていた。いや、感動していた、のほうが正しいかもしれない。報道部員のチームワークは野球部のそれにも勝ると聞いたことはあったが、実際に見てみるとそれも納得できる気がした。 短い仕事を終えた陽は、ぽかん、とした顔で絶句している夏樹を見て、声をかける。 「夏樹ちゃん?どうした?」 その声でようやく我を取り戻した夏樹は、 「あ、あの、今の見てて、報道部ってすごいなあって」 「?何が?」 「えーと、チームワークが」 「チームワークねえ。そんなにたいしたもんじゃないけどね。一緒に仕事してたら、自然にこうなってたって感じ」 「それならなおさらすごいですよ。仲間意識がしっかりしてるってことですよね」 「まあ、信頼はしてるね。お互い信頼できてないと、こういう仕事はできないからね」 それはまぎれもない事実である。陽自身、3年間報道部に所属して数多の仕事をこなしてきたが、どんな仕事をするにもその根底にあったのは、仲間同士の信頼関係だった。そして、今もそれは変わらない。 「夏樹ちゃんも、俺達を信用したから頼んできたんでしょ?」 「え?ええ、そうですね…」 答えながら、夏樹は改めてそのことを思い知った。他に頼めるところがないから、というのも大きな理由であったが、その大元となったのは、報道部に対する『信用』かもしれない。 「確かに、信用できないと何も頼めませんよね」 「そういうこと。俺達だって、夏樹ちゃんを信用してるから協力してるんだよ。友達だからね」 そう言われて夏樹は、はい、と微笑んだ。 自分を信じてくれてる人たちがいる。自分が信じられる人たちがいる。それは、とても素晴らしいことだ。 何より、陽は自分のことを『友達』と言ってくれた。 それが、素直にうれしかった。 |
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