――――― 二章 ――――― |
その日、夏樹は1人だった。陽が一緒に帰れないのは前から知っていたが、体育祭が近づくにつれ、大地や牡丹も忙しくなり、これから3日間は夏樹1人で帰らなければならない。大地と牡丹は「本当に申し訳ない。本当はついていてあげたいんだけど」と、しきりに謝っていた。3日くらいなら大丈夫だろうと思ったのだが、いざ1人になってみると、やっぱり恐い。以前の恐怖がよみがえって来る。数日たてば、という思いが、いくらか恐怖を和らげてはいるが、それも気休め程度にしかならなかった。 まだ足音はしない。今日は来ないのか。来ないなら、それでいい。そのほうがいい。このまま無事に家に帰りつきたい。そんな思いが頭をめぐっていたときだ。 コツ。 革靴が地面に当たる音。夏樹の心臓が、ドクン、と波打った。 コツ、コツ、コツ。 音が近づいてくる。恐怖が、一気に大きくなる。胸の鼓動が、どんどん速くなっていく。それに合わせるかのように、歩調も速くなる。 コツコツコツコツ。 聞こえてくる足音も速くなった。自分の足音の間隔ともう1つの足音の間隔が、ほとんど同じに聞こえる。 信じられない。こんなときに、来るなんて。 足音が大きくなってきた。距離が縮まっている。それを頭で理解したそのとき。肩を、つかまれた。夏樹の心臓が、ふたたび大きく波打つ。 「イヤッ―――」 反射的にその手を振り払って、夏樹は走り出した。昼間の雨でできた水溜りに足を突っ込んで、右足がずぶ濡れになったが、そんなことは気にも留めなかった。夏樹の心は今、恐怖で埋め尽くされている。 自宅までの長い道のりを全力疾走して、夏樹は玄関に飛び込んだ。そのまま崩れ落ちる。目には涙が浮かんでいた。革靴の音が、頭の中で繰り返しよみがえる。肩には、つかまれた感触が生々しく残っている。それでも時間がたつにつれ、徐々に冷静さを取り戻していった。 今になって考えてみれば、足音はあれから追ってきていなかった。あのあとすぐに角を2つばかり曲がったので、見失ったのだろうか。 母親の呼びかけも意に介さず、自分の部屋へ向かう。鏡を見ると、恐怖におびえた顔に涙を浮かべる自分がいた。 どうして、どうして私ばっかりこんなめに――― 声にならない声を出して、夏樹は本当に泣き出す。涙はとめどなくあふれてくる。髪の毛はぐちゃぐちゃに振り乱され、着ている制服にはところどころ泥がはねている。右足に履いたソックスは、泥水で真っ黒になっていた。 早く寝てしまおうと思って、枕に顔をうずめてみる。しかし、一向に眠れなかった。あの恐怖が、頭から離れない。 どれくらいの時間が経過しただろう。実際はそんなに経っていないかもしれない。そんなとき、夏樹はようやく眠りに落ちた。深い深い、眠りに落ちた。 翌日、夏樹は学校に現れなかった。中学時代から無遅刻無欠席無早退だったという彼女の姿が見えないことを不審に思った牡丹は、昼休みにそのことを陽と大地に報告し、学校が終わってから夏樹の家を訪ねることを提案した。 「俺達にも仕事があるからなあ。訪ねるにしても、何時になるか分からないよ」 「それでもいいんです。もしかしたら、昨日の帰り道で何かあったのかもしれない。もしそうなら、そのことは絶対聞いておかないといけないと思うんです」 「確かにな。ストーカー事件に関わることなら、絶対に聞き出しておくべきだ。情報は多いほうがいい。そうだろ、陽?」 陽は少々悩んでいた。自分に課せられた仕事は、あまりにも多い。実際、時間がいくらあっても足りないほどに。しかし、学校を休んでしまうほど重大なことが彼女の身に起こったとすれば、それこそ放っておけない。果たして、どちらを優先するべきか。 「陽が行けないなら、俺と牡丹ちゃんの二人で行っても構わないぜ?」 大地の一言が、余計に陽を悩ませる。散々悩んだ挙句、陽は結論を出した。 「いや、俺も行こう。もともと依頼を受けたのは俺だしな。仕事を理由に何もしないのは、やっぱりよくない。今回だけでも、話を聞いておこうと思う」 牡丹の表情が必要以上に明るくなったような気がしたが、とりあえず考えないことにしておく。 「わかった。けど、仕事は何時に終わる?かなり遅くなるだろ」 「まあな。それでも、なるべく早く終わりにするさ。どうしても間に合わなければ、途中で切り上げてもいい」 結局、放課後終了ギリギリの6時半に昇降口でおちあうことにして、それぞれの教室に戻った。 陽は、机の上においてあった文庫本を開いて、読み始める。カバーには相変わらず、かわいらしい少女の絵が描かれていた。 「うそ…っ」 驚きを寸分隠さず、牡丹の声がつまる。 予定通りの時間に集合したあと、3人は夏樹の家に来ていた。既に帰宅していた夏樹の両親に軽く挨拶し、そのままこの夏樹の部屋に直行したのだ。牡丹がひととおりの事情説明――なぜ自分たちがここに来たのか――を終え、単刀直入に欠席理由を尋ねたのだ。 「帰り道が恐いから、学校に行きたくないんです」 夏樹はそう言って、昨晩の出来事を洗いざらい話した。夜道がいつも通り静かだったこと、突然足音が聞こえたこと、それがだんだん近づいてきて、最後には肩をつかまれたこと。 夏樹が話している間、3人は黙りこくったままだった。ただ一言、牡丹の驚きの声を除いては。 「今朝、外が明るくなって目を覚まして、泥だらけの制服が目にうつって、そうしたら昨日のことが一気によみがえってきて、恐くなって、それで、学校に行きたくなくなって…」 夏樹は、そこで声をつまらせた。そのあとには、小さな嗚咽が聞こえてくる。牡丹が夏樹をなだめ、陽と大地は顔を見合わせる。会話はない。言葉を発しなくても、夏樹がいかに恐ろしい体験をしたかということは2人ともわかっている。2人の表情は険しかった。驚きと焦りが同時に滲み出ている。牡丹は目に涙を浮かべていた。 静まり返った部屋に、夏樹の泣く声だけがむなしく響いていた。 事態は想像以上に深刻になってしまった。夏樹がストーカーから直接的な被害を受けたことで、彼女は通学ばかりでなく、外出そのものをしないようになってしまったらしい。今日も学校には出席せず、1人で部屋にこもりっきりだという。 しかし、相変わらず手がかりはない。見つかっていないだけでなく、体育祭を明日に控えた陽達3人は、調査活動を全く行うことができないのだ。動けるようになるのは2日後。体育祭終了の翌日からだ。つまり、今日と明日は調査の進展は期待できない。しかしその間にも夏樹の恐怖は増すばかりだ。陽はふたたび悩んでいた。 昼休みになって、3−Dの教室に牡丹がやってきた。3年ではありえない低い身長の生徒の登場に、教室中の視線が集まっている。牡丹はそんな視線に構うことなく、陽のもとへと歩を進めた。 「瀬戸さん、今日も夏樹ちゃんのところに行きませんか?」 牡丹にしては、やけにはっきりとしたものの言い様に、陽は一瞬たじろぐ。 「昨日の様子を見てると、やっぱり心配なんです。それに1人で部屋にいるみたいだし、やっぱり誰かが一緒にいたほうがいいと思うんです。一日中一緒っていうわけにはいかないですから、せめて学校が終わった後の短い時間だけでも、と思ったんですが」 一息二息で言いきって、牡丹は軽く深呼吸する。普段の牡丹からは想像もできない口調に、陽はあっけに取られていた。 聞けば、夏樹の両親には既に了解を取っているという。電話をしたときに夏樹の母親は「今はあなたたちだけがあの子の支えです。どうかよろしくお願いします」と、少なからず涙声だったらしい。そんなこともあって、牡丹は、陽が行かなくても自分だけでも行くつもりらしい。 「大地は、何て言ってる?」 「さっき行ったら、『無理だ』って即答されました」 陽は、あっちゃ〜、と頭を抱える。これでは、牡丹のガード役をみすみす押しつけられたようなものだ。かといって、牡丹1人であの暗い道を歩かせるわけにもいかない。 「…何時になるか、分からないよ?」 「それでもいいです。来てくださるなら、それだけで。夏樹ちゃんも喜ぶと思いますし」 自分にほとんど選択の余地がないことを自覚しながら、陽は渋々といったかんじで了承した。牡丹はそれを聞くと飛びあがって喜び、ありがとうございます、と元気よく言って、スキップしながら教室をあとにした。 気がつけば、さっきまでの悩み事が頭からさっぱり消えている。人間ってわからないな、などど毒づきながら、鞄から文庫本を取り出して読み始めた。カバーには、未だに少女の絵が描かれていた。 放課後。陽は異常な忙しさの中で、苦しみもがいていた。 机に積まれた書類の山は、陽の頭と同じ高さほどまで積みあがっている。しかもそれが左右にあるのだから、たまったものではない。陽は、今日中にこれら全ての書類に目を通し、来るべき体育祭に備えて、報道部内の役割分担表や班編成表などの必要書類を全て作り上げなければならないのだ。時計は既に6時を回っている。牡丹には何時になるか分からないとは言ったものの、さすがに7時8時まで待たせておくわけにはいかない。 どうする。仕事は終わらせなければならない。だが牡丹が心配だ。どうする。 結局、陽が出した結論はこうだ。とにかく、ちゃっちゃと仕事を終わらせる。目標時刻、6時半。それを過ぎたら、あとは知らん。 ひどく投げやりな結論だとは分かっていても、こうでも考えなければやっていけないと言い聞かせ、ふたたび書類に向かう。普段から本を読みなれていることが幸いして、書類に目を通すスピードがどんどん上がっていく。 時計は、6時12分を指していた。 「あ、瀬戸…さん?」 陽の足取りは非常に重かった。常人では考えられないほどのスピードで書類を読みとおし、普段の3倍近くの速さでキーボードを叩いたのだ。顔には、疲労の色が隠しきれない。 「やあ…お待たせ…」 そう言った口調にも、全く覇気がない。 「大丈夫…なわけありませんよね。一体、何をしてたんですか?」 「いやなに、体育祭の準備だよ。必要な書類とか、全部作らないといけないしね」 そう言うやいなや、陽は牡丹の肩に手をついて、ふぅ、と息を吐き出す。そのまましばらく動かない。無論、牡丹の頬が紅潮しているのを知る由もない。 「あ、あの、瀬戸さん、そろそろ、行きませんか…?」 牡丹に言われて、陽は顔を上げる。目がうつろだ。 どうやら、短いながらも寝ていたらしい。 「あの、無理しなくでもいいですよ。疲れているなら、家に帰って休んだほうがいいですし」 陽は黙って首を振る。そして、やはり無言で歩き出した。陽の家とは逆方向、夏樹の家のほうだ。校門に向かう陽を追って、牡丹も歩き出した。陽のすぐ横につく。かすかに高鳴る胸の鼓動に、牡丹は気づいていなかった。 「来て、くれたんだ」 夏樹の最初の一言はこれだった。もともと友人の少ない夏樹は、昨日から今日にかけてずっと1人だった。会いに来たのは昨日の3人と、今日の2人だけ。つまりは陽達しか来ていないのだった。 夏樹は、陽と牡丹を自分の部屋にいるように促すと、キッチンからジュースのボトルとグラスを3つ、それに少々の菓子類を持ってきた。 「お待たせ」 そう言って夏樹も床に座り、グラスにジュースを注いでいく。その表情は、昨日とは打って変わって晴れやかだった。 「瀬戸さん?どうしたんですか?顔色悪いですよ?」 やっぱりだめか、と陽は思う。疲労を隠して平静を装っていたつもりだったのだが、結局感づかれてしまった。牡丹といい夏樹といい、2人ともカンが鋭い。 「ついさっきまで仕事しててね。でも大丈夫。ちょっと忙しかっただけだから」 実際は『ちょっと』どころではなかったのだが、そんなことは口が裂けても言えるはずがない。が、夏樹は牡丹以上にカンが鋭かった。 「体育祭の前日に、『ちょっと』忙しいわけないじゃないですか。本当は相当がんばったんでしょう?」 「あ、いや、あの、その、うーんと、まあ、ね…」 「やっぱり。そんなに疲れてるなら、無理して来てくれることなかったのに」 そう言って夏樹は微笑んだ。ぎこちなさは見えない。2人が来たことは、想像以上に効果を発揮しているらしい。陽も思わず微笑んでしまう。昨日の泣き顔が信じられなかった。今はこんなふうに笑っているのに、昨日は目から涙をこぼして泣いていた。こんなに笑顔のかわいい少女をあんなに泣かせたストーカーが、陽は許せなかった。 絶対に、捕まえてやる。そう、固く誓った。 |
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