――――― 一章 ―――――
 
 千葉県の北部、東京ディズニーランドにもほど近い位置に、その建物はある。
 私立赤星学園、通称・赤学。中高一貫・六年制教育を掲げるその学校は、中等部652名、高等部963名の生徒数を誇るマンモス校である。広大な敷地の東側が中等部校舎、西側が高等部校舎で、中等部には本館と新館が、高等部には東校舎と西校舎がそれぞれある。
 高等部には、運動系・文化系合わせて32もの部活・サークルがある。その部活のなかで、野球部に次いで部費の高い部活。それが報道部である。
 部室は西校舎の2階、その半分ほどを占めていた。部室の3分の1ほどは倉庫で、年に数回ある学校行事などで使うための放送設備や予備のカメラなどが、きちんと整理されて置かれていた。
 報道部員は全部で31名。その31名を総括しているのが、報道部部長で3年の瀬戸陽、放送部門を葉山奈央、新聞部門は3年の天野大地が仕切っている。報道部員は、校内では「プレス」と呼ばれ、部室は「プレスセンター」と呼ばれるが、長ったらしい呼び名を嫌う報道部の面々は、部室を単に「センター」と呼ぶ。そのため、大学受験を間近に控えた3年などの前で、うっかり「あとでセンターで」などと口走ったりすると、過敏に反応した生徒が発狂するとかしないとか。

 そんな緊迫した空気が渦巻く東校舎3階。陽の在籍する3年D組の教室内は、いつも通り騒がしい。何人かで集まって世間話をする者、トランプとばく賭博をしている者、ウォークマンでお気に入りの音楽を聞く者。そんな中に混ざって、瀬戸陽は一人静かに読書をしていた。なんの変哲もないA6サイズの文庫本である。ただ一点を除いては。
「あー、いたいた。ぶちょおー」
薄く茶色がかった髪を左右に束ねて揺らしながら、葉山奈央が陽のもとへ駆け寄ってくる。奈央は、赤学の生徒にしては珍しく制服をきっちり着こなし、余計な化粧などは一切してこない、正真正銘「清楚な」イメージの少女だ。
「あのさー、今度の体育祭、ミキサーは8チャンにする?それとも16にする?」
「そうだな、去年の教訓もあるから、ちょっと辛いけど16にしよう。本番で、またチャンネルが足りなくなるとマズイ」
「はーい、りょぉかーい」
一週間後に迫った体育祭の放送設備についての短いやりとりのあと、ふと陽の持っている文庫本に目をやった奈央は、妙な違和感を感じた。
「ぶちょーさぁ、読書熱心なのはいいけど、やっぱりそのカバーはいただけないよ」
「ん、そうか?みんなそう言うんだよな。なんでだろ。けっこうイケてると思うんだが」
そう言った陽の持つ文庫本には、「ブックカバー」という文字とともに、かわいらしい少女のイラストが描かれている。どこからどう見ても、ロリッ娘のイラストだ。
「ぶちょーって、やっぱロリコンでしょ?」
「ありえない」
誰もが思いつくであろう、奈央が口にしたその質問を、陽は0.3秒で否定する。
「だいたいそれだったら、どうしてこんなマークが一緒に描いてあるんだ?」
陽のブックカバーには、円の中に赤い星が描かれたマークが一緒に描かれている。陽達の通う高校、赤星学園の校章だ。
「それ、あんま関係ないっしょ。だいたい誰がそんなの書いたの?まさかぶちょ−じゃないよね?」
「んなわけあるか。武田だよ、ラビリンスの」
ラビリンスというのは、赤学高等部にある小説サークルである。コミケなどにもしばしば出店しているらしい。
「やっぱりそっか。あいつしか描かないよね、そんなの」
「その前に、俺に絵心はない」
「そーだねー。ぶちょーの絵は、絵じゃなくて字だもんねー」
お前に言われたかねぇ、という言葉を無理やり飲み込み、陽はふたたび活字に目を落とす。数行読み進んだところで、担任の中野の声が聞こえ、奈央は足早に自分の教室に戻っていった。



 その日の放課後。
 いつもどおりプレスセンターに現れた陽は、そこにいた招かれざる客を目にして、そして、引きつった。
「ハァーイ、アキラ。元気してた?」
混じりっけのないきれいな茶髪に、耳には小さなピアスが2つばかりきらめき、赤のタートルネックシャツにレザージャケット、下はジーパンという、どう考えてもこの場に似つかわしくない服装をした女性。
「…マコ先輩。なんでこんなとこにいるんですか」
「失礼ね。いちゃいけないわけ?それと、私の名前は麻子よ。野田麻子。マコじゃないって、何度言えば分かるワケ?」
「いいじゃないすか。長ったらしいの、嫌いだし」
「たった1文字しか違わないじゃない」
「細かいことは気にしない」
「あんたがゆーな」
麻子の最後の一言を無視して、陽は空いている椅子のひとつに座る。
 野田麻子は昨年赤星学園を卒業したOBで、現在は都内の某国立大学に通っている。高校時代は報道部に所属し、斬新なアイディアと奇抜な文章で、校内新聞を賑わせていた。彼女自身、報道記者を志していて、最近では新聞社の地方支社にもしばしば出入りしているらしい。
「だいたいマコ先輩。大学はどうしたんですか。今日は休日じゃないし土曜でもないから、講義は普通にあるはずですよ」
「マコじゃないっつーの。それと、今日は創立記念日で休みなのよ」
「そんなもんがあるんですか。てっきり高校までかと思ってたけど」
「伝統のある大学だからね。なんだかんだ言って、歴史を残したいんでしょ」
「そんなもんですかね」
「そんなもんなのよ」
 ふと部室内を見まわした陽は、この部屋に陽と麻子以外、誰もいないことに気づく。
「…マコ先輩、どうやってこの部屋に入ったんですか?見たところ、誰もいないようだけど」
「ん?ああ、奈央っぺに似た女の子がね、入れてくれたのよ」
「奈央に、似た?」
「そう。見た目は奈央っぺそっくりだから、最初は奈央っぺかと思ったんだけど、それにしちゃーおとなしすぎるし、なんかおどおどしてて奈央っぺらしくなかった」
「奈央に似てて、おとなしい…?ああ、牡丹ちゃんか」
「誰よ、それ?」
「奈央の妹ですよ。今年入学してきた一年生です。マコ先輩が知らないのも無理ないですね」
「…ちょっと待って。あたしが会ったのは奈央っぺじゃなくて、奈央っぺの妹で、それがまだ一年生で、それであたしが知らなくても無理ないと?」
「そうです」
「じゃぁあれは奈央っぺじゃないんだ」
「さっきからそう言ってるじゃないですか」
こんなんでよく国立大なんかに合格できたな、と陽は思う。麻子は、ちょっとしたことでも、すぐに頭がパニック状態になってしまうのだ。それが大抵はどうでもいいことで、重要なことはきっちり整理されているから、わからない。
 と、ドアが開いて話題の人物が入ってきた。
「あ、瀬戸さん。こんにちは」
自販機で買ってきたらしいジュースの紙カップを両手に持って、奈央によく似た小柄な少女が部室に入ってくる。
「やー、牡丹ちゃん。あいかわらず早いね」
「ホームルーム終わるのが早いですから。それより瀬戸さん。そちらの方、どなたですか?報道部のOBだっておっしゃるから中に入れたんですが」
素性のよくわからない人物を部室に入れるという、いかにも牡丹らしからぬ行為に、もしやという小さな疑念を抱きつつも、今は質問に答えるのが先と、陽は判断した。
「紹介するね。ウチのOBの野田マコ先輩。マコ先輩、彼女が、例の奈央の妹です」
「なーる。よく似てるわねぇ。牡丹ちゃん、だっけ?以後よろしく」
「あ、はい。こちらこそよろしくおねがいします」
「ところで牡丹ちゃん、そのカップ、どうした?」
陽に言われて、牡丹ははじめて、自分が両手にカップを持ったままドアの前に突っ立っていたことに気づく。あわてて右手のカップを麻子に渡しながら、
「お客さまにはお茶をお出ししなければと思って、今買ってきたんです。あ、瀬戸さんのも買ってきましょうか?」
「あ、いーよいーよ。俺は今朝買ったペットボトルがまだ残ってるから」
わかりました、という小さな返事を確認してから、陽は机の中の書類を引っ張り出し、机にあるパソコンを立ち上げる。パソコンの起動音に重なって、あっつ、という牡丹の声が聞こえたような気がしないでもないが、とりあえず気にしないことにする。
 パソコンの画面から「体育祭設備配置計画書」というファイルを呼び出して、書類とパソコンの画面を見比べていると、部屋のドアが開いて、一人の男子が入ってきた。陽がしたのと同じように、ドアの前に突っ立って絶句している。彼の視線の先にはもちろん―――
「やっほー、ダイチ。おっひさー」
「何、やってんすか、マコ先輩…」
ほぼ予想通りの展開に、陽は、やっぱりこの人はいないほうがいい、と思いながら、あいかわらず目を丸くして突っ立っている天野大地に説明する。
「大学が創立記念日で、暇だから遊びに来たんだとさ」
非常に簡単な説明で状況のほとんどをのみこんだ大地は小さく、来るなよ…、と嘆息する。
 大地にとって、麻子との思い出はあまり良いものではない。昨年、新聞部門のチーフとサブチーフの間柄だった麻子と大地は、それこそ色々な場所に取材に行った。山を登り、野を駆け、一日の移動距離が30kmを超えることなどざらにあった。そのほとんどで、大地は麻子のあとを追っかけていた、もとい引きずりまわされていたのだ。
 麻子を目の前にして、その嫌な思い出が大地の頭によみがえらないはずなどない。
 なるべく麻子の姿を視界に入れないようにしながら、大地は自らの指定席へと腰を下ろして、鞄と机から膨大な量の紙を取りだす。校内新聞「AGプレス」の紙面原稿だ。
「うわ、こりゃまたすごい量だねぇ。これ全部に目を通すのは、やっぱ大変よねぇ。新聞チーフの宿命ってヤツ」
励ましとも貶しともとれる麻子の科白を無視し、大地は目の前のパソコンの電源を入れ、「AGP0109」というファイルを開く。文面は、ほとんど完成状態だった。
「追加原稿ですか?何かあれば、手伝いますよ」
いつも通り手伝いを申し出る牡丹に、やさしく微笑みかけながら、
「ありがとう。これから最終校正なんだ。だから、これは僕の仕事。いつもいつも悪いね」
そんなことないです、という牡丹の言葉に、ふたたびやさしく微笑んで、大地はパソコンの画面を凝視する。ほどなくして、陽のパソコンが音を出す。
「早いな。もう終わったのか?」
「ほとんど終わってたんだ。今は、最後の記事を校正しただけだからな。印刷、よろしく」
「あいよ。明日にはあがるだろ」
報道部室にあるパソコンは全てLANで接続され、情報のやりとりが簡単に出来る。しかし、プリンタに接続しているのは、部長である陽のパソコンだけで、大地は紙面が出来あがると陽のパソコンにデータを転送し、印刷を依頼するのだ。
 データの転送を終えた大地は、またもや鞄の中から分厚い紙の束を取り出して読み始めた。
「大地先輩、なんですか、それ?」
こう見えて、牡丹は意外と好奇心が強い。今も、大地がもつ紙の束を、興味津々といったかんじで覗きこんでいる。紙面に並べられた文字は、日本に古来からある文字ではない。大英帝国を発祥とする『アルファベット』と呼ばれる文字形態。牡丹の苦手な英語だった。
「論文。って言ってもそんなにたいしたものじゃなくて、英語の授業の課題なんだよ」
大地たち3年の英語の授業では、年末になると小論文の課題が出される。もちろん英論文だ。
「ふーん。英語はよく分からないです。何が書いてあるんですか?」
「日本競馬の国際化に関する論文だね。ヨーロッパやアメリカの競馬と比較して、これからの国際化の流れに乗り遅れないように、日本が今何をしなければならないかがこと細かにかかれてる。すごい文章だよ。相当英語に精通してて、競馬に関しても興味持ってなけりゃここまで書けないよ」
「また競馬か。本当に好きだな、大地は」
「あくまでスポーツとして、だ。ギャンブルとしては認識してないからな。好きな馬を応援したり、そういうのが好きなんだよ」
実は、大地はかなりの競馬好きである。だが彼の言葉通り、競馬場に行って馬券を買ってくるということは一切しない。それでいて、インターネット上で開催されているいくつものPOGに参加しているのだから、よくわからない。部室に飾られているスペシャルウィークのポスターも大地が貼ったものだ。
「論文のテーマは何にしたんだ?」
「天皇賞とクラシックのマル外開放についてにしようかと思ってる。そういう面では、この論文は参考になるしな。お前はどうするんだ?」
「通信産業についてだ。無線・有線含めてな。そっち関係には興味あるし」
そこで、今までパソコンの画面を凝視していた陽が顔を上げた。
「大地、載せてないのか、ストーカーのこと」
「ん、ああ。迷ったんだが、本人から正式な了承も得てないしな。この件に関しては、俺たちの取材能力を生かして情報を集めている。これからも続けていくよ」
「そうしてくれ。この件は、どうも放っておけない。先生にも言わず、警察にも相手にされずに、俺たちに伝えてきたんだ。俺たちがなんとかするしかない」
「わかってる。最大限の努力はするよ」
「ああ、頼む」
そう言って、陽はふたたび設備計画書の画面を呼び出して、編集を始める。
 安達夏樹と名乗る少女が報道部室に現れたのは、3週間ほど前だ。部外者のあまり来ないこの部屋に人が来るのは珍しいので何事かと思ったが、彼女の表情は深刻そのものだった。相談したいことがある、このことは誰にも言わないでほしいと前置きして、彼女はこう言った。
「私、ストーキングされてるんです」
陽は、耳を疑った。ストーキングというのは、現在ではストーカー規正法によって立派に刑事事件として成立する。相談するなら、自分たちではなく警察に行くのが妥当な手段だ。
「警察には何度か行ったんです。でも、目に見える証拠がないから、って相手にしてもらえなくて。そんなのあるはずないのに。それで、普段から調べることには慣れてるだろうと思って、ここに来たんです」
警察が調べてくれないのなら、その他の機関にゆだねるしかない。が、一介の学生である夏樹に、探偵を雇うほどの経済的余裕があるはずもないし、先生たちに言っても対した調査ができないことくらいは、陽にも容易に想像出来た。
 しかし、どうも腑に落ちない。誰にも言う必要がない、というならともかく、彼女は「誰にも言わないで欲しい」と言ってきたのだ。それはすなわち、他人にこのことが知られるのを恐れていることになる。調査の合理性の点から、陽は校内新聞に記事を載せて、学校全体に協力を要請することを勧めたのだが、
「ストーカーに狙われてるなんて友達に知られたら、みんな離れていきます。私、元々友達少ないほうだし、だから今の友達を大切にしたい。こんなことで、友達をなくしたくないんです」
それを聞き、夏樹の胸中を察して、陽はそれ以上詮索しなかった。事情は飲み込めた、部員全体で相談してから最終的な結論を下すと言って、陽は夏樹を帰した。
 新聞部門のチーフである大地は、すぐに了承した。が、情報の拡散を防ぐため、自分を含めて3人以内で調査すること、それ以外にはこの件に関する一切をふせておくことを、条件として提示した。陽は承諾した。大地はメンバーとして、自分と牡丹、それに陽を指名した。本来取材活動に出ることのない陽は、それを聞いて驚きを隠せなかったが、何分緊急事態であることを考慮して引き受けた。
 それから2週間。大地と陽が交代で、夏樹と一緒に帰宅しつづけたのだが、ストーカーは全く現れなかった。男が一緒だとダメかと思い、多少不安があったが、牡丹を向かわせたのだ。その翌日。
「いました、確かに。ストーカーが」
牡丹ははっきりとそう言った。その日は、牡丹の安全を考えて、夏樹の両親が泊めてくれたのだという。
 しかし、それだけだった。それから1週間が過ぎた今でも、ストーカーの名前どころか、顔すらもわかっていない。牡丹が何度か写真を撮ろうと試みたのだが、すぐに逃げられてしまう。
 加えて、体育祭が近くなっていることもあって、部長の陽はあまり調査に参加できていなかった。5日ほど前からは、大地と牡丹の2人で調査を続けている。たった2人では、満足のいく調査が出来るはずもない。調査は暗礁に乗り上げていた。
 これからどうするべきか。本格的な調査に参加できない分、違う何かで2人をバックアップしなければならない。どうするべきか―――
 そんなことを考えていたとき、麻子が急に立ち上がった。何も言わずにドアへと向かう。
「マコ先輩?急にどうしたんですか?」
「今日は帰るわ」
「へ?」
「重要な用件で会議でもするんでしょ?そんな雰囲気だから。他人の取材内容を盗み聞きするほど、趣味は悪くないわよ。じゃね」
ドアが閉まる。なんだかんだ言って、麻子も元報道部員だ。依頼人の守秘義務くらいはわかっているのだ。そんな麻子に感謝しつつ、陽は口を開いた。
「この先、どうする?いつまでも立ち止まってても、ラチあかねぇだろ」
「そうですよね…。昨日もつけられたって言ってましたし」
「陽が復帰できるのは体育祭明けになるよな。あと1週間か。心配だな」
「すまない。嫌な時期に重なっちまったな」
「仕方ないですよ、仕事ですから。部長はとりあえず、部長の仕事を全うしてください」
「ありがとう牡丹ちゃん」
「いいえ。それまでは大地先輩と2人でがんばります」
そう言った牡丹の頬は、なぜかほんのり赤くなっている。
「体育祭が終わって陽がフリーになったら、3人で彼女をマークしてみよう。それでヤツが現れればとっ捕まえる。現れなければ他の手を考える」
「わかった。それまでは2人が彼女についててくれ。大地はなるべくいたほうがいいな。頼めるか?」
「もちろん。牡丹ちゃんはどうする?一緒に来るか?」
「あ、はい。あ、でもどうしようかな。帰り道が恐いかも…」
「俺が牡丹ちゃんを送っていけば問題ないだろ。な、陽」
「牡丹ちゃんさえよければな。人数は多いほうが良いのは事実だし」
「わかりました。じゃあ、お願いします」
「了解。1週間は我慢だな。彼女も、俺たちも」
どうせなら瀬戸さんがよかったな、などと思いつつ、牡丹は、そうですね…、とうなずく。
 時計の針が6時を回ったのを見て、陽はAGプレスの原稿を印刷にかけてから立ちあがる。大地と牡丹も立ちあがり、部室をあとにする。窓の外には、うっすらと夕闇が広がり始めていた。
 
 
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