遠望
水彩ケント紙半切
1953(高2)4月

移動クレーン
水彩ケント紙半切
同左7月

人来田発電所
水彩MO紙全紙
同左8月

対岸
油P10
1954年3月

川風
油F10
同左








東北大学
文学部
に進学・・

黒靴
油F8
同左7月

樹陰
油F12
8月

自画像
油F10
8月

大淵付近
油P15
1955年3月
受験終わって

村道
油10F
1955年6月(大1)
仙台美術研究所入所後

神木の杉
F12
10月

Un artiste
P10
12月

石とデスマスク
F12
1956年3月

切り通しの道
F15
3月
キュービズムへの接近

青衣のポーズ
P20
3月

女学生
F15
6月(大2)

石を砥ぐT
P30
8月
シケイロス辺りの影響も

裸婦
P25
8月

背広の青年
F25
10月

水差し
F4
10月

市場で
P30
10月

廃井
P15(主調は赤
12月
ビュッフェへの憧れ

ふっかつ
F50(空は黄)
1957年3月
ベニヤ板

建設
P60(主調は青
4月(大3)
ベニヤ板に砂を混ぜて

笑い
F120?在学中最大の作品
5月 ベニヤ板

傍役
F12(主調は赤)
10月

かかし・エロイカ
F60(南京袋に)
10月

なまけもの
90×180cm
1958年3月
ベニヤ板一枚

H.M像
P10
3月

歌留多クイーン像
F12
1958年(大4)7月

冬眠
ベニヤ板一枚
6月

ダダッコ
P60
8月
自由美術入選

無題T
B3ケント紙に墨汁など
11月

無題2
同左
純抽象への模索

試作P1
模造紙全紙に墨と水彩
1959年2月
アンフォルメルの影響

試作P2
同左

コンポジション
70cm平方の布に油
5月(大5)

花嫁へ
水彩ケント紙全紙
5月

夏みかんの反乱
油F30
5月


P30
7月

森の嵐
南京袋に油F60
6月

対話
M60
8月

夕暮れの思考
F50ベニヤ板
9月 
「キャンバスとの対話、作品の完成がイメージの完成」
と書いた作品

試作P7
B2ケント紙に墨と水彩
10月

試作60-1・はじまり
15号変形
ベニヤ板に石膏と油
60年2月
試作60-2
j殉教者
同左

試作60-4・この春 F30
ベニヤ板に南京袋などを貼って石膏に油 3月

試作60-3・楽園
F30変形
2月
4月、上京。北多摩郡小平
町立小平第一中学校教諭
となる。

抽象への道・学生時代の作品から

 東北大学文学部を5年かけて卒業して、中学校の美術科教諭として上京したとき、私は自分の作品の写真を撮って一冊のアルバムにまとめて持参しました。上京後間もなく出会った郷里出身の画家にこのアルバムを見せたところ「これはこのまま教科書に使えるね、印象主義から抽象絵画までの移行がそのまま表れている」と言われました。

と言うことで、ここにその写真の大部分を紹介しておきます。1960年のことですからモノクロですが、このうち数点の作品はその後めぐり巡ってきて手元にあります。兄や姉が保管しているものもあります。

 私は当時のメモによると、高校2年の一年間に4切(B3)以上の水彩画を50点以上描いていました。これに加えて、油絵も描きはじめていましたし、授業では毎度風景画を描かされクラブ活動でデッサンもしましたから、作品点数は相当多数に上り、休日はほとんど毎日絵を描いて過ごしていた勘定になります。二宮不二麿と言う優れた美術教師とクラブ仲間との出会いがあったからでしょうが、テレビなどの無い時代、仙台市の郊外にいて家は貧しく、ほかにすることが無かったからとも言えます。

 上野の美大に憧れたけれども、家計の制約で地元の大学の文学部美学美術史専攻コースを辿ります。大学の5年間も二宮先生の小さな美術研究所でデッサンを学びます。大学においては授業にはまじめに出席していましたが、ほかの時間のほとんどを納屋のような美術部室で過ごしていました。この二つの場所に良い先輩たちがいて仲間がいて、私の青春がありました。

 学生生活前半は戦後の暗さを引きずった表現的な作風のもてはやされた時代でしたが、美術研究所で加藤正衛先生の清澄な抽象作品に出会ったことで抽象表現の可能性に目覚めました。後半にはアンフォルメルやアクションペインティングが紹介され、ネオダダなどの動きにも影響を受けます。卒論はムーアを中心に据えた現代彫刻についてのものでした。(吉田敦彦)

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