傷痕1

 
その日、犬夜叉一行は大きな村に行き着いた。
「すごい。人がたくさんいるわ」
は、このような村にくるのは初めてですか?」
 弥勒の言葉に、は頷いた。
「今日はお布団で眠れそうね」
 うれしそうにかごめが言った。ここのところ野宿続きで、みんな疲れていた。
「あれ、何かしら?」
 は、人だかりのするほうへ歩いていった。
 弥勒が犬夜叉のほうを見ると、犬夜叉は軽く頷いた。それを合図に、弥勒はの後を追った。
「おらも行くぞ!」
 七宝が、2人の後についていった。

 村の辻には市が出ていた。は物珍しそうに、並べられている品物を見て歩いた。その後ろを、弥勒と七宝がのんびりとついていく。
(おなごというのは、こういうものを見て歩くのが好きですな)
 弥勒は少々退屈しながら、そう考えた。しかし、無邪気に品物を眺めているを見るのは、悪い気分ではなかった。
 ふと、の足が止まった。そこには、柘植の櫛や鼈甲の簪と並んで、赤い珠を連ねたの手纏(たまき)が並べられていた。
「渡来品の血赤珊瑚ですね。美しい玉だ。は、これが欲しいのですか?」
 弥勒の言葉に、は首を横に振った。
「違うの。あたし、これと似たのを持っていたの。……壊れちゃったけど」
 再び歩き出しながら、は言った。
「母さんの形見だったの。母さん、これを身につけていると悪いものを祓ってくれるって言ってたわ。母さんが亡くなってからずっと身につけていたんだけど、あの日、糸が切れてしまって……。気がついたときは、これだけを握りしめていたの」
 は、懐から丁寧に畳まれた布を取り出した。中には、白く光る珠が一粒入っていた。
 弥勒は、それを手にとって見た。珠からは、温かく、優しく、そしてどこか懐かしい念が微かに感じられた。
「なんだか弥勒の数珠と似ておるのう」
 弥勒の肩によじ登って珠を見ていた七宝が言った。
「そうですね。これはもともと手纏ではなくて、数珠だったのでしょう。……直せると思いますが、私が預かってもいいですか?」
「本当? よかった。弥勒さま、お願いね」
 弥勒の言葉に、はうれしそうに微笑んだ。

 次にが足を止めたのは、酒屋の店先に置かれた縁台の前だった。
 縁台の上には碁盤が置かれ、2人の男が対局中だった。その周りを数人の男が囲んで見ていた。
(賭け碁、か)
 おそらくは飲み代でも賭けて始めたのだろう。2人とも、まだ陽が高いというのに赤らんだ顔をしている。
「あ、そこじゃ……」
 男の1人が黒石を置いたとき、は小さな声で呟いた。もう1人の男は、をちらりと見ながら白石を置いた。その手が形勢を決め、勝負は白の五目半勝ちだった。
 その場を立ち去ろうとしたを、白の男が呼び止めた。
「女、少しは碁がわかるようだな。一局打っていかないか? おまえが勝ったら、これをやるよ」
 男は、今受け取ったばかりの銅銭を見せてにやりとした。
「でも、あたし弱いし、賭けるものもないし……」
「なあに、手加減してやるからよ。賭けるものがないのなら、体で払ってくれてもいいんだぜ」
 がためらうと、男は冗談交じりに言った。止めようとした弥勒を、は素早く目で制した。
「……それじゃあ、一局だけね」
 は自信なさげに、縁台に腰をおろした。男の促すままに先番になり、おぼつかない手で黒石を置いた。
「どこで碁を覚えたんだ?」
 白の石を置きながら、男が問うた。
「……父さんが、よく近所の人と打っていたから。横で見ているうちに、なんとなく覚えたの」
(嘘じゃ! 父親はおらんと言うておったじゃろうが!)
 しれっとした顔で嘘をつくに、七宝は心の中で突っ込んだ。
 やがて、男の顔から余裕の笑みが消えた。
「……負けました」
 男が頭を下げた。終わってみると、が半目差で勝っていた。
「ああ、よかった。それじゃ……」
 銅銭を受け取って立ち上がろうとしたの腕を、男が掴んだ。
「勝ち逃げはないだろう。もう一局だ。今度はこれを賭ける」
 男は懐から銀を取り出した。の目がきらりと光った、ように弥勒には思われた。
「じゃあ、本当にあと一局だけね」
 二局目は、一局目の半分の時間もかからなかった。八目の差がついて、の勝ちだった。

「こういうことを、よくするのですか?」
 茶屋で抹茶を啜りながら、弥勒はに言った。皿の上には団子が山盛りに置かれており、七宝が両手に串を持って一心に団子を頬張っていた。
 は、口に入っていた団子を飲み込んだ。
「……まあね」
「ずいぶん賭け事には強いようで」
「碁は、相手の魂が読めるから。勝ちたいとか、儲けたいとか、欲の強い相手だと、特に。サイコロのように、完全に運任せのはダメね。イカサマでもしてくれていれば、それを読んで逆手に取れるんだけど」
「おまえの能力(ちから)は、思っていた以上に便利ですな」
「そうでしょ」
 と弥勒は顔を見合わせ、にやりと笑った。
(……おまえら、なんかものすごーく似ておるぞ)
 七宝は呆れながら2人を見たが、おかげでたくさん団子を食べられるのだから、文句はなかった。
 そのとき、たちの前で立ち止まった男が、驚いたような声をあげた。
ちゃん?! 生きてたのか!」
 男を見上げたの表情がこわばった。男の問いかけにも答えようとしない。
「規介だよ、隣に住んでいた。覚えてるだろ? 良かった。無事だったんだ」
「知りません! 人違いよ」
 そう言うと、は逃げるようにその場から立ち去った。
「おい、待つんじゃ!」
 両手に串を2本ずつ持った七宝が、あわててあとを追った。
 呆然とその場に立ちすくむ男に、弥勒が声をかけた。
「団子でもいかがですか?」

 胸が苦しくなって、ようやくは立ち止まった。いつの間にか、村はずれまできていた。前方には鬱蒼と茂る森が見える。
 規介のことは、もちろん覚えていた。便利な道具のように扱われていたあの村で、規介とその家族だけが、のことを、身寄りのない憐れな少女として接してくれた。
(会いたくなかった! あたしは、あの人の家族を……)
 の寄せた鬼は、規介の両親や兄弟を、その爪で引き裂いた。つなぎとして取り込まれた魂の状態で、はそのことを覚えていた。荒魂を抜かれ、抗う術もなく、鬼の餌食となった優しい人たち。
(規介さんは、あたしに無事でよかったと言ってくれた。……あたしなんか、あの人に心配してもらう価値もないのに……)
……」
 俯いたままのに、七宝が心配そうに声をかけた。
 そのとき、2人の後ろで砂利を踏みしめる音がした。振り向くと、あの賭け碁の男が仲間を連れて立っていた。
「勝ち逃げはないって、言っただろう」
「卑怯者! 仲間を引き連れて何をする気じゃ!」
 七宝は、両手を広げての前に立ちはだかった。
(……邪な欲はあるけど殺気はない。鬼は寄せずに済む……)
 危機なのに、奇妙な安堵を感じているの耳に、別の声が聞こえた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
 声は上空から聞こえた。は、自分の歯がカチカチ鳴るのを感じた。
「……お願い、七宝ちゃん。弥勒さまと、かごめちゃんを……」
 は、震える声で七宝に懇願した。事態を察した七宝は、全速で駆け出した。
(子狐妖怪か……)
 上空から、冥鬼は冷たい目で見下ろしていた。

 規介は、手にした団子を口に運ぼうとはせず、串を弄んでいた。
「食べないのですか? おいしいですよ」
 弥勒が声をかけると、規介はためらいながら言った。
「……法師さまは、ちゃんと、どこで?」
「妖怪に襲われた村で、ただ1人生き残っていたのを見つけたのです。……お気の毒に、他には生きている方はいませんでしたが」
 弥勒は、嘘は言わなかったが、差し障りのない事実だけを述べた。きっとは、全ての事実を規介には知られたくないだろうと思ってのことだった。
「そうでしたか。法師さま、ありがとうございます」
「……なぜ、あなたに礼を言われるのか、わかりませんが」
 言ってしまった後、我ながら天邪鬼な返答をしたものだと、弥勒は思った。
 に兄弟はいないはずだった。赤の他人の男が、なぜを自分の物のような言い方をするのか。
 他意はないのかもしれない。しかしその口振りが、弥勒には窺い知れない、と規介との過去の絆を垣間見せるようで、弥勒の心を頑なにさせるのだった。
ちゃんは……俺の、妹みたいなもんです」
 規介は、ゆっくりと話し始めた。
「あの子は、かわいそうな子で……4歳の時におっかさんが亡くなって、独りぼっちになったんです。……父親が誰かわからず、村の男じゃないらしいというので、村の人間はちゃん母子に冷たく当たっていました」
「村の男じゃないからという理由だけでですか?」
「もともと閉鎖的な村なんです。他国の人間を極端に嫌う。……それに、御影さまが――ちゃんの祖母なんですが」
「祓い屋さまだったという人ですね?」
 規介は頷いた。
「御影さまは、凄い能力(ちから)の祓い屋さまだったんです。村の者は、『御影さまは死人を生き返らせることもできる。それをなさらないのは、黄泉の国の大女神様のお怒りを買わないようにしているからだ』と言っておりました。その御影さまが、ちゃんのおっかさんがちゃんを身篭った頃に、妖怪に殺されて……」
「妖怪に?」
「……ええ。俺はその頃はまだ子供だったので、詳しいことは覚えていないんですが。大人たちも、その時のことはよく覚えていないらしいのです。ただ、ちゃんのおっかさんが関わっていたらしいということで、村の者たちは激怒しました。御影さまは、村にはなくてはならない人でしたから」
 医師も薬師もいない小さな村で、死人も生き返らせると評判の祓い屋は、村人たちにとっては村長(むらおさ)よりも頼りになる存在だったのだろう。弥勒には、村人たちの怒りは理解することができた。しかし、それをに向けるのは筋違いだと思ったが。
「ただ、俺の家だけは隣だったこともあって、ちゃん母子と普通に付き合っていたんです。おっかさんが亡くなったとき、ちゃんに家にくるように勧めたんだけど、どうしても自分の家から離れようとはしなかった。しばらくは、俺の家の畑仕事を手伝いながら暮らしていたんだけど、あの能力(ちから)が……」
 規介は言葉を切って、弥勒を見た。弥勒は頷いた。
「あの、怪我を治す能力(ちから)ですね」
「ええ。ちゃんは、あの能力(ちから)を秘密にしていたんです。おっかさんが、亡くなる前に口止めしたらしい。しかし、俺の怪我を治して、それが村中に知られてしまった。――それからはもう、村の連中は掌を返したように、ちゃんを大事にするようになりましたがね」
 弥勒は、が村の人たちのことを話したときの表情を思い出した。あのとき見えた翳りには、こうした事情があったのか。
「俺は、3年前にこの村の商家に奉公に上がりました。ちゃんにも、大きくなったら村を出るように言ったんだけど……。あんな恐ろしい目に遭うとわかっていたなら、あのとき一緒に村を出ていたのに……」
 弥勒が口を開こうとしたとき、七宝の叫び声が聞こえた。
「弥勒〜! 大変じゃ! 鬼が!」
 弥勒は立ち上がり、七宝の駆けてきた方へ走り出した。
「七宝、おまえはかごめ様を!」
「わかった!」
ちゃんに、何かあったのか?」
 いつの間にか、規介が弥勒と並んで走っていた。
「いや、……何もないといいのですが」
 今は、規介に説明する時間も惜しかった。
 ――今度あたしが鬼を寄せてしまったら、弥勒さまの風穴で、鬼を……
 の言葉がよみがえる。
(俺は、そんな約束守りたかねえぞ!)
 弥勒は、妖しい邪気の漂う方へ、ひたすら走り続けた。