順次徹底検証していく作品は、下記のとおり:
……。 (義)母を取り扱った小説・漫画は多々ある。マザー・コンプレックスは哺乳類における永遠の宿命かもしれない。
- 松本零士「銀河鉄道999」
- 楠 桂「八神くんの家庭の事情」
- 田丸浩史「ラブやん」
- 奥 浩哉「めーてるの気持ち」
(少なくとも原作漫画においては)主人公「哲郎」の母親は、「機械人間」によって、
剥製にされる。この事件が、哲郎の旅立ちの動機となっているが、哲郎は「メーテル」と出会う。
哲郎の旅路にぴったり(?)メーテルは寄り添うのであるが。
キャラクター名「メーテル」は、他の松本作品と似合わず、秀逸である。
メーテルは古代ギリシャ語で「母」の意だからである。キャラクターのメーテルは、実は、
哲郎の母と極めて近い関係にある。
また旅路の間の「メーテル」は、現実の母親の行いがちなDVと、無縁の関係にある。
理想化された母親像、とも言えよう。
哲郎は、メーテルの姿に、文字どおり「母親の姿」を見ているのかもしれない。
ただし、松本作品のほぼ全部が、致命的なことに、キャラクターの描き分けに失敗している。
美形キャラは男女ともに同じ人物画にしか見えず、
非美形キャラは男女とも松本自身の自画像(的カリカチュア)にしか見えない。
他の作家ではありえぬほど黒ベタや計器が画面に散りばめられているが、
正直なところ、描写能力の拙劣さを糊塗しようとしている安易な策にしか見えない。
実際、メカ・計器の描写は写実的であるにもかかわらず、男女の指先の描写は、
小学三年生の図画工作を見るような趣がある。
また、松本作品のほぼ全部が、ことさらに前近代的な性差を強調しており、
松本自身のエディプス・コンプレックスおよびマザー・コンプレックスを
示唆している。
そもそも母原型的キャラクターを登場させ、しかもそのキャラクターにズバリ「母」と名付けている時点で、
「銀河鉄道999」はマザー・コンプレックスの産物と言えるだろう。
もっとも、ストーリー自体は、「マザー・コンプレックスに訣別する少年」を示唆しているのであるが。
古典的な問題作である。
主人公「八神裕司」の実母「野美」は、歳の割に、ありえない若づくり。
裕司のガールフレンドをして「(裕司の)妹?」と思わしめるほどである。
また裕司の悪友をして、「ロリコンとマザコンと併発している」裕司は
「(源氏物語の)光源氏か」と揶揄せしめるほどである。
裕司は実母「野美」に恋愛感情を抱き、そのことにも悩んでいる。
しかし秀逸なのは、野美が、そもそも事の始めから、裕司の恋愛感情に 気づいていたことである(ラストになって明かされる)。
しかも野美は、「男の子の、最初の恋人は、母親である」と喝破し、裕司の悩みそのものを吹き飛ばしてしまう。
まさに母原型的なキャラクター、ここに極まれり、といった観がある。
作者自身のマザー・コンプレックスを滲ませず、
純粋なストーリー作り・キャラクター作りとしてここまで作り上げてしまうところに、
楠の一流ストーリーテーラーとしての力量が感じられる。
実は、「マザー・コンプレックスから最も遠い」はずの作品である。
主人公の「大森和英」は、ロリコン・オタク・プー太郎と、三拍子揃った「ダメ人間」……。
ところが、作品を読み進めると、「(一番デキる)『天使長』さえ、ダメ人間。
ダメ人間ばかりで、マトモなキャラクターがいない……」とさえ思われる。
とにかく、ダメっぷりの描写は徹底しており、現実ならばイタいだけの話を
ギャグ・ネタに昇華させてしまっている。
ところが、この作品にも、「マザー・コンプレックス」の痕跡は、残っているのである。
罵倒の言葉として「ペド」があるが、大森和英は正真正銘、臨床心理学的な意味での ペドフィリアである
(そもそも「第二次性徴前」と、彼が断言している)。
大森和英のペドフィリアぶりに錯乱した母親「大森シズエ」は、「そんなもの(児童ポルノ?)で抜くぐらいなら、と絶叫する。
お母さんで抜きなさい」
ヒロイン「ラブやん」は(おそらく)大森シズエを激しく殴打する。漫符を駆使して 「今までのセリフで、一番引いた」と言うことによって、「お母さんで」云々の 台詞をギャグ化する。
マザー・コンプレックスの有無を露骨に匂わせないようにするためであろう。
しかし、マザー・コンプレックスの伏線は、もっと意外なところに隠されている。
育ちが良くて出世が速くて有能な鬼上司、にもかかわらず幼児体型の天使長、通称「ルーさん」の名前が大問題である。
本人はあまり名乗らない(一人称は「わし」、周囲は和英も含めて「天使長」と呼ぶ)。
ゆえに読者のほとんどが(下手をすると作者も)彼女の本名を忘れているであろうが。
「天使長」の本名は、致命的なことに、「メテ・ルー」である。
紛れもなく、「メーテル」(母)の変名である。
和英は、間違いなく、「メテ・ルー」に性的欲求を感じている。
「ちなみにコレ(使用済みティッシュ)の半分は天使長で抜いたのだが」と直接的なセリフがあるのみならず、天使長が「水遁の術」(?)をしている際、 咥えている彼女の管に自らの唾液を落とす、という行為までしでかしてくれている。
田丸は、「ロリータ・コンプレックスの遠景にはマザー・コンプレックスがある」と 主張したいのではなかろうか。
一般にロリータ・コンプレックスおよびペドフィリアの遠因には、 優越コンプレックスが控えている、とされている。
すなわち、自らよりも弱い者を蹂躙することによって、自らの万能感を楽しむ……
とされている。
ところが、和英は(確かにミリタリー・オタクも入ってはいるのであるが)、 自らの歪んだ愛の対象に対する「弱い者への蹂躙願望」を、一切語らない
(ネームの段階で編集がカット・修正指示をしているだけかもしれないが)。
ただただ、自ら「萌え〜」と叫びながら、幼児のように、のたうちまわるのみである。
ここには、退行機制(防衛機制の退行)が見られる。
彼のロリコン性癖は彼自身の母原型への回帰あるいは「幸福な幼少時期への回帰(楽園)願望」である、 と言うことができる。すなわち、マザー・コンプレックスである。
また、和英は、他のニート・ひきこもり同様、自室の雨戸を閉めっぱなしにしている。
しかし、雨戸については理由がある。
同い年の幼馴染(女性)に「(女性の自室を覗いているように見えるから)一生雨戸を開けるな」と
イジメ抜かれながら命じられていたのである。
コンプレックスや引きこもりには、みな理由がある。
しかも、田丸は暖かいことに、各キャラにおける心の歪みの元となった原因そのものを 解決しようとストーリー運びをしているようにすら見えるのである。
上述の三作品と比較すると、本作は噴飯ものである。
第1巻の帯には「ひきこもりと、愛と、悲喜こもごも」などとあるが、 これなら拙著「ひきこもりのおうじさま」のほうが、余程、 「愛」も「悲喜こもごも」もある。それはさておき。
主人公の「小泉慎太郎」は、実母「千寿子(ちずこ)」死去の後、部屋に引きこもる。
父親の「小泉安二郎」のせいで死んだと思っているからである。
ところが、そのように考える割には、母親への思慕が、全く感じられない。
後妻として入った(慎太郎よりは「一回り年下」の)吉永はるかの姿を見るとき、 母親の姿と重ねるぐらいである。
あだち充「みゆき」における主人公は、自らの実母と、自身の義妹の母の二人を 亡くしている。
「おれとみゆきのおふくろ……。そしておれだけのおふくろ……」と二人の写真を こっそり見たり、
映画館で「母親が死ぬ」という設定の映画を見ながら号泣、
「面白くねえよこんな映画」と自らの顔を隠す……。
と、母親に対する思慕が満開である
(ただし彼はマザー・コンプレックス的にはノンケであり、義妹のみゆきとクラスメートのみゆき、 二人のみゆきに対する思慕で揺れ動くだけなのであるが)。
ところが、慎太郎には、それがない
(編集が「ストーリーが締まらなくなる」とカットさせたのかもしれないが)。
「自分勝手な男」という設定かもしれないが、その割にはマジで思う……母さんが生きてて/ あんた(父親)が死んでくれて(い)たら/どんなによかったかという台詞が納得できない。そこまで言うならば、もっともっと母親に対する思慕があるはずである。
母親への思慕の描写が希薄であるため、ストーリー進行のためになっても、キャラクター像に致命的な矛盾を来している。
しかもこの台詞自体が、安二郎の末期がんによる死亡を導入するだけの仕掛けにしか見えない。
そもそも、安二郎における「父親像」も、ステロタイプな描写である。
- 息子とのコミュニケーションのため、息子の読む漫画を予め読み、自らの知見を開陳する。
- 日本国憲法27条「勤労の義務」を指摘する。
- 「30歳といったらみんな働いて/家庭を持ったり/子供を作ったりして(い)る歳じゃないか」 と20世紀以前(未満)の主張を息子に行う。
- 「20歳すぎたらそんな(子供の扶育)義務は/いつでも/放棄できる」と言って息子に危機感を持たせようとする。
- 「私は(亡き)母さんの代わりにはなれなかったなあ」と母親代わりを務めていたかのように語る。
- 「女性はいいぞ/女性のよさは……/付き合ってみなければ」と基本的欲求をもって引きこもりの外、外界への興味を持たせようとする。
もし著者の奥が安二郎を「凡庸な父親」であるかのように上記の如く描こうとしたのであれば、あまりにもステロタイプすぎる。
凡庸な父親として描こうとしていたことは、安二郎の「凡庸大乗居士」などというセンスの欠片もない戒名で明白である。
(大体、そのようなシロモノは差別戒名かと疑われる)
真に凡庸な戒名にしようと思えば、「居士」ではなく「凡庸で、本名を一字入れた、『信士』の戒名」をちゃんと付けるべきで あろう。あるいは、遺影のみの描写で充分であろう。わざわざ「凡庸大乗居士」などと下品な戒名カットを入れた所に、 奥の無能ぶりが良く表れている。
そして、もし、奥が本気で上記安二郎の台詞を作者自身の立場で考えたとすれば、さらに作者の凡庸さが露呈されることとなる。
- そもそも、(とくに少年漫画の場合)子供は親の知見など必要としないものである。
子供ならば同級生の感想を聞くだろうが、引きこもりの場合、他者の見解など無意味である。
「ネタバレは勘弁しろ」などとファンタジーな(リアルでない)台詞を慎太郎が使っているが、
本当の引きこもりならば、そもそも親の見識自体を無視するはずである。
また、作中「30歳すぎて少年マンガ読んで喜んで(い)るって……どうだろうねえ」と安二郎に言わせている。
その答えは「うっさいなあ/いっぱいいるよ/そんな奴」という中身も捻りもない貧しいシナリオである。
大体、安二郎自身が楽しまなければ自らの少年漫画に関する知見を開陳する意味がない
(そういう表面的な「コミュニケーション」を取ろうとする愚者は夥しいが)。
また、奥自身「(少なくともまともな『会社』において)働いたことがない」のは明白である。
現実の会社には、かように「自らの少年漫画に関する知見を子供のために準備しよう」と、昼休みや通勤時間中に 少年漫画を耽溺する手合の枚挙に事欠くことがない。
- 「中学のときは神童」という設定のためか、「勤労の義務」と安二郎に言われて「憲法27条」と慎太郎は即答している。
唐突感を否めない。実際の神童ならば(腐っても鯛)、もっと気の利いた応答をするものである。- 2006年の作品だから致し方ないのかもしれないが、今日の日本では、何歳であっても、働くこと自体が難しい。
そのような状況で、「家庭」「子供」など、「夢のまた夢」ということも珍しくはない。
大体、「ダブル・インカム・ノーキッズ」と言われて、かなり久しい。「30歳といったら」などのような主張を行うのは、下品な戒名のごとくの 「凡庸」とは言わない。時流に取り残された「凡愚」と言うのである。
- 子供の扶育は、確かに義務かもしれないが、むしろ愛情であるべきである。
本当に「凡庸な」親ならば、「扶育」の話題が出ると、必ず、「親はいつまでも生きているわけではない」
「(作中は末期としか表現されないが、実際の会話では具体的な部位に言及して)私はがんである」
と病状について白状してしまうはずである。
……これも、本来「白状」の後「ウソつけ」と応じるようなシーンがあったかもしれないが、出版されたバージョンでは、一切ない。- 男は逆立ちしても、「母の代わり」にはなれない。これも凡庸さというよりも凡愚としか言えない。
- 「女性はいいぞ」云々の台詞も噴飯ものである。
この手合は、例外なく、二次元(すなわち架空イラストの世界)への嗜好を見せるはずである(「ラブやん」の大森和英らのように)。
あるいは、三次元(実体の女性)であっても、無修正AVをネットサーフィンにより耽溺するはずである。
さらには、同人誌の世界への嗜好も見せるはずである。
「引きこもりである」と言うのであれば、なぜ「一緒にコミケ(コミック・マーケット)に行こうよ?」と言わない?
#「凡庸大乗居士」だからかw。
また2006年当時にも「出会い系」はあったハズである。おそらく、現実の「小泉」宅は、架空請求・不審者の往来で、かなりの地獄になるはずであるが
(山本直樹「ありがとう」みたいな、あるいは超える事態になる)。
「吉永はるか」が主人公で、慎太郎も安二郎も「はるかさん」の生ぬるい引き立て役に過ぎない故に、致し方ないとも言えるが。
このような作品に「めーてるの気持ち」などとつけるもおこがましい。
「比較は不幸の始まり」と言うが、当該作品は他作品の足元にも及ばない。
(シリーズ廃棄決定、廃棄済み)